ハーシーはこの「ヒロシマ」を、『ニューヨーカー』に4回にわたって連載しようとします。なぜかというと、雑誌ですからね、いっぺんにこれを全部載せることはできない。で、普通なら、連載で4回分ぐらい。4回に分けたとしても、一つひとつはものすごく分量の多い記事になります。しかし、編集者が「ヒロシマ」を読んで思ったんですね。4回に分けるのはやめにしよう、と。他の記事を全部やめにして──想像してみてください。日本にもある週刊誌がね、一冊まるまる、ひとつの記事しか載ってない──そういう状態にしようというふうに考えた…..
挿画:ジョン・ハーシーの「ヒロシマ」を掲載した『ニューヨーカー』の最初のページ(1946/8/31)
■配布資料の確認
中尾ハジメ:お配りした資料のなかに、6月29日か30日付けの文書がないですか。(実物を見せながら)いちばんおもてが、こんなのです。左上に手書きの文字があって、少し切れていますが、僕が推測するに、Last draft seen by。2行目は、the Secretary of State。つぎ、which かな、with かな……で、changes。最後は、pencilled in. タイプ打ちのタイトルが、BRITISH SUGGESTIONS。その下のタイトルが、PRESIDENT’S STATEMENTです。
それで、1枚めくってください。上の方に、判が押してあったり、こまかい字がぐちゃぐちゃありますが、そのハンコは、TOP SECRETというハンコですね。日付を見ると29 June 1945。だから、6月29日、1945年となっています。1行目(のはじめ)になにが書いてあるか分からないけど、たぶんTwoだろうね、その上から棒線で消してあるけど。もし、Twoだったら、Two hours ago an American airplane dropped one bomb on the Nagasaki Naval Base…….(the Nagasaki Naval Baseも棒線で消してある。その後は、and destroyed its usefulness to the enemy.となっている。)それが、2枚目になっていますね。その次3ページがあって、裏が4ページ。5ページ、6ページと全部そろっているかな。だいじょうぶ?
そしたら次はね、もうひとつの方の英文の資料があるよね。あたまに、WAR DEPARTMENT WASHINGTON。今ではこういう省はないね。今は、国防省とか国防総省とかいいますね。その当時は、War Departmentというのがあったんですね、戦争省(通例、陸軍省と訳す)。日付を見てください。さっきのは6月29日。こんどのは1945年7月31日で、この表書きを書いたのは誰か? 下に書いてありますが、スティムソン。Secretary of War。戦争大臣(通例は、陸軍長官と訳す)。
ということはですね、さっきにもどると、seen by the Secretary of Stateというのは……──今のSecretary of Stateは、パウエルですね──日本風にいうと、外務大臣。アメリカは、外務大臣とは呼ばずに、国務長官といいます。それで、またもどります。
7月31日付の、表書きは、スティムソンという「戦争大臣」。その人が、大統領あてに書いた表書きがあって、(1枚めくる)いちばん頭のところに、Draft of 30 July 1945。1945年7月30日。Draftというのは、原稿または原案。それでみなさんがすでに持っていると思いますが、8月の6日に広島に原爆を落としてから……いちばん最初に書かれたの(6月29日付原稿)では2時間後、次の(7月30日付原稿)ではブランクになっていて、最終的には(Immediate Release)、16時間後に発表したという、そういう順番になっております。
というわけで、もっと前からいろりおあったかもしれないけれど、少なくとも、ここに3種類の声明文があるわけです。いちばん最後には、そこにHiroshimaという単語をいれて、トルーマン大統領が読んだ。日本時間でいうと、8月7日の未明になると思います。
さて、次の……資料の表に、「第14章 新たなタブーを取り締まる」というのがあるでしょう。これはどこからかというと、ジョン・ダワーという人が書いた『敗北を抱きしめて』からです。(少し説明をするが、ここでは省略)
(次の資料)「生ましめんかな」という詩がありますね。これは、栗原貞子さんという人の『黒い卵』という詩集にあったものなんです。いつ出たかというと、……これは再版をしたのでしょうが、わざわざ「完全版」という断り書きがついて、1983年に人文書院からでた。こんな本です(実物を見せる)。すでにみなさんには前回配ったので、持っていると思いますが、「プレス・コード」というのがあったでしょう。それも、じつはこの『黒い卵』のなかに付録のようにして入っていたのから使いました。
(次の資料)W.バーチェット『広島TODAY』。綴ってありますが、それの後の方に……連合出版というところから出版されたんだな……。1983年に発行。これで、資料の確認はおしまい。
■生ましめんかな
さあ、それでははじめましょう。「生ましめんかな」というのをちょっと見てください。
カッコのなかは、昭和20年の9月。その後の注は……(私家版では、「生ましめん哉」。……)つまりこれは、どこかの出版社が出版したものではなく、自分でつくって出した。その時のタイトルは「生ましめんかな」の「かな」は漢字でした。それ、初出は、『中国文化』という雑誌の創刊号で、原子爆弾特集号。1946年3月のことです。詩のなかでの地下室は、広島の「せんだちょう」っていうのかな。広島の人、いるかな。どっちかな。「せんだちょう」ですね。千田町の旧郵便局の地下室。
あたりまえだけど、こういうふうにして、その時のことを、いろいろな形で、いろいろな人が記録をして、それをまた書いて出版するということが、たくさんありました。これは、そのひとつだね。
■広島入りしたジャーナリストからの「世界への警告」
バーチェットの『広島TODAY』をちょっと見てください。いちばん最初に配った資料の『ヒロシマ日記』ではじまるのがあったでしょう。それの後のほうに、バーチェットがタイプライターをたたいている写真があるね。デイリー・エクスプレスの、その当時の新聞が、ここに写っています。いいですか。それで、いちばん最初の、「第2章 受難の広島レポート」って書いてあるでしょ。(表紙の)広島TODAYと太く書いてある下のほうに、DAILY EXPRESSって黒地に白抜きで書いてあるでしょう。だいたいそんなような感じだったというのを、再現したんですね。それで、30日目……
30th DAY in Hiroshima: Those who escaped begin to die, victims of─
THE ATOMIC PLAGUE
‘I write this as a warning to the world.’
いまみなさんが持っている、その下の日本語のどころあるでしょ。「二つの現場報告」というサブタイトルの下を見てください。(エクスプレス紙の見出しの日本語訳がある)THE ATOMIC PLAGUEを「原爆疫病」と訳しています。I write this as a warning to the world──これが、「私は、世界への警告として、これを書く」というふうになるんだね。いわゆるリードという部分にあたるところですが、「医師たちは働きながら倒れる。毒ガスの恐怖──全員マスクをかぶる」というふうになっておりました。
下に48ページというページ番号がかいてあるところがあるでしょう。「広島レポート」という小見出しがあるね。そこからが、新聞記事がはじまる……。
広島で、初の原爆がその町を破壊し世界に衝撃を与えた三十日後、人々は次々に奇怪な死に方をして亡くなっていく。あの大異変の中で負傷しなかった人びとが、原爆病としか表現しえない何ものかのために死んでいくのである。
という書き方がしてあります。どんな記事だったかというのが、その後もずっと続いています。
■伝えようとするものたちと、それを邪魔する力
というわけで、原子爆弾を直接体験した人たちはたくさんいます。いわゆる被爆者と呼ばれる人たちもいるし、その周辺の人たちも。たくさんの人たちが体験をしますが、そのことを遠いところへ知らせることができたのは誰であったか、という問題。どうやって、遠く離れたとこるに知らせたのか。
あまりにも、あたりまえの問題なので、ちょっと考えにくいかもしれませんが、これをぜひ考えてほしい。いろいろうまくいかないんですね。伝えられないように、何かが働いて、邪魔していたりする、ということがあります。
広島に原爆を落とすということを、どこかに原爆をおとそうと計画していた人たちは、先ほどのように、落としたときに発表する声明文をあらかじめ用意していた。その破壊がどれほど凄まじいものであったかということも、すでにそこに書かれていた。その声明を読んだ人は、アメリカの親分──大統領──であったトルーマンですね。しかし、彼が読んだものは──もういちど言いますよ──7月の30日に用意されていた。さらに、そのまえの6月29日にも、7月30日版のもとになるものが用意されていた。6月29日版というのは、イギリスから、こういうふうに変えたらどうかって、もどってきたものだね。先にイギリスに見せていたんだね。で、そこに書いてある中味は、いろいろ具合が悪いことがあって書き直されてはいるけれど、基本的には変わっていない。なにも変わっていない。
さて、原爆が落ちてトルーマンが声明を発表しました。そのトルーマンの声明以外の、いわば情報というか、体験をした人たちが、こういう体験であったということを伝えるようなものが、なかなかでなかったんだね。日本のなかでは、伝わっているだろうって思う人がいるかもしれませんが、それも、あまり簡単にはそういうふうには考えられない。
どうして、そこが伝わらなかったか? あるいは、伝わったかもしれないが、それはある仕方で伝わる。どういう仕方なのか? ということを、少し考えていただきたい。どういうふうに考えたらいいかな。
いちばん最初の授業のときに、新聞の資料を見てもらいましたね。8月7日付の新聞。それから、日にちを追って、日にちが経つにつれて、いろいろなことが書かれていますが……。 少なくとも8月の14日まで(の新聞記事の例がそこにある)。政府の点検はもちろんありました。アメリカはとんでもない犯罪を犯している、という(日本政府の)声明文が載っていましたね。載っていましたが、こういう体験だったということは、じつはそれには書かれていない。ということなんだね。
たとえば、アフガニスタンでものすごい空爆をしたでしょ。テレビで一応見えるけれども、しかし、あれでは、僕らはわかってないんです。
■プレス・コード
さてそれで、GHQがプレス・コードを作って、それによって日本の報道をいろいろと管理するようになりますね。これは、その年の9月からのことですが。「第14章……」と最初に書いてある資料(ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』より抜粋)を見てください。「……新たなタブーを取り締まる」と書いてあります。少し変な日本語だと思いますが、Policing the New Taboosを日本語にしたものですね。タブーを取り締まるというと、タブーから解放されるような気がしますが、違うんですね。
(戦争中は)日本の中では、いろいろな表現活動が思うようにできなかった。新聞などは……、新聞記者はいろいろと努力をしたんでしょうけれど、大本営が発表したことしか載らなかった、という時代がありました。その時代が終わって、民主主義のアメリカが勝ったので、日本の報道はもう少し解放されて自由になるはずだった。ところが、新しいタブーができたんだね。そのタブーのいちばん効果的であったもののひとつがプレス・コードってやつです。
今見ている資料をもう少しめっくてみてください。プレス・コードにもとづいて実際に新聞や雑誌や本、映画、漫画、その他の文学活動を検閲するときの、マニュアルになっているものだあります。(具体的に)どういうことが書いてあったら取り締まるか、ということが書かれています。2枚目の上のほうに、ならんであります。
このプレス・コードのために、じつは広島のたいへんな状況は、大ざっぱな言い方をすると、1949年まで日本の中でも伝えられなかったんですね。バーチェットが書いたものを見ると、広島に入った外国人記者(で人々の状況を伝えた)というものは、(1945年9月の)バーチェット以外にほとんどいない。みなさんが持っている資料の中に、レスリー・ナカシマという人が広島に親戚(母親)がいて、広島に行きその惨状を見て、そのことを記事に書いて新聞にだしたということが紹介されています。つまり、バーチェットが最初ではなくて、そのまえにレスリー・ナカシマという人がやっているよということが書いてあるんですが。(いずれにしても)そしてプレス・コードがひかれて、(日本の報道は原爆について)ほんとうに沈黙しちゃったんだね。そこへでてきたのが──そのことを、じつは、ずっと見ていた人がいる──ジョン・ハーシーだったんだね。……という話になっております。
■ジョン・ハーシーの仕事をたどってみる
で、これから言う話には、いささか確かでない部分がいっぱいあるから、そうだと思って聞いておいてください──なんとか確認できたらいいと思いますが。
前回言ったことで、繰り返しになるかもしれないけど、ジョン・ハーシーという人が従軍記者になって、世界の戦場をいろいろ回りますね。ほんとうにいちばん最初の記事かよくわからないんですが、われわれが知っているジョン・ハーシーが(『ニューヨーカー』に書いた)最初の記事は、ジョン・F・ケネディーが魚雷艇の艇長をしていたときの話ですね。ジョン・F・ケネディーを知らない人いる? 知っているね。このとき彼は、身の危険をかえりみず、乗組員の救助をした。この記事が、ぼくらが知っているジョン・ハーシーの仕事です。その話はたいへん有名になって、……『リーダーズ・ダイジェスト』って知ってるかな。知らないかも知れませんが、おもしろい記事や物語を一般読者に解りやすく(簡略にして)載せる──ダイジェストってのは、消化するってことですね──雑誌があったんです。それにも採用された記事です。
それから、Men on Bataan。Menってのは、兵隊のことですが、バターンっていうフィリピンの島があって、そこでの戦闘を描いた記事。これは本になります。どういうお話かと言いますと、ダグラス・マッカーサーの兵隊……。ダグラス・マッカーサーって知ってる? (学生たちは、バカにするなという表情) 彼はですね、お父さんの代からフィリピンの軍事支配者だったんだね。”I shall return.”って知ってる? 日本軍に追い出されるわけですね。そのときに、おれは戻ってくるんだと言って、ほんとうに戻ってきたんだね。彼は、日本を占領する連合軍、占領軍の総司令官になりますね。ハーシーが、その人の軍隊についての記事を書いたということがありました。
それからもうひとつは、これも前回言いましたが、ピューリッツアー賞とっている『アダノの鐘』ですね。『アダノの鐘』は、小説仕立て──フィクションふうに──になっています。このもととなっている記事があるんですが、これが“This Is Democracy.”「これが民主主義だ」となっている記事。で、『アダノの鐘』が出版されたのが、1944年かな。
その他、いろんなことがあるんでしょうけれども、Lifeという雑誌がありましたけれども、そこにも彼は記事を書いている。その記事の中味を見たかぎりでいうと、(戦争なので)そんなに不思議なことではないのですが、とても愛国的です。兵隊の勇ましい戦いぶりが描かれている。バーチェットという人についても(同じことが言えて)、おそらく従軍記者として書いた記事は勇ましい。
さて、そのハーシーさんが──これから言う話は、いろいろ憶測が入ります──広島について新聞記事もなければ、雑誌に書かれることもないということを、ずっと考えていた。そして、聞くところによれば、広島に落とされた爆弾はたいへんな破壊力を持っていたので、ものすごい人が死んでいる。しかも、その後も死に続けている。そしてだれもその記事を書かない。
(この部分にあたる、録音からおこした原稿が存在しないが、中尾の記憶によれば、ここに挿入されるべきなのは以下のような内容であった。──ジャーナリズムのなかに、広島、長崎の人間の側からとらえた原爆被災の実像が存在しないことを、ハーシーは見ていた、考えていたのではないかと思うんです。なんとか、これを自分で仕事にしたいと。また、そのことをいっしょに考える編集者がいたにちがいありません。記事を書いたとして、それが載せられる雑誌というのも、必要な条件だからです。──ハーシーが広島に入ったのは、1946年の5月。おそらくは、東京で、マッカーサーのいるGHQに挨拶をいれてからだったと想像します。そして、広島に滞在したのは1週間、あるいはせいぜい2週間だったでしょう。それからほぼ3か月をかけて、ハーシーは書いたのだと想像されます。)
■「ヒロシマ」はどのように『ニューヨーカー』に掲載されたか?
『ヒロシマ』は、4章に分かれているでしょ? (資料を指し示しながら)第1章は、「音なき閃光」……。じつは、ハーシーはこれを、(『ニューヨーカー』に)4回にわたって連載しようとします。なぜかというと、雑誌ですからね、いっぺんにこれを全部載せることはできない。で、普通なら、連載で4回分ぐらい。それでもものすごく分量の多い記事になります、1回分でもね。そういうふうにしようと思っていたんですが、編集者がこれを見て、4回に分けるのはやめにしようと、1回で(全部)出すべきだと考えた。1回で出すというのはどういうことかといいうと、他の記事を全部やめにして──想像してみてください。日本にもある週刊誌がね、一冊まるまる、ひとつの記事しか載ってない──そういう状態にしようというふうに考えた、ということで、もうひとつはね、これはもう、編集者も社長もいっしょになって、徹底的に推敲した。文章をなおした。
ハーシー自身も、そうとう時間をかけて、3か月かけてつくったんだね。さらに、それに手を入れた。それで、8月31日号にだすっていうことを考えるわけですが、他の記事を書いていた人たちは、どういうことになったか。他の記事を書いていた人たちは、自分の校正ゲラが来ないんだよね。あるいは、(校正ゲラが)来ても、来て校正して戻しても、それは載らなかったということが起こった。広告は載っているんですよ。広告取りはしているんですが、その広告取りの営業をしている人たちも、出版社のなかのほとんどの人たちが、数人を除いてはね、こういう記事が8月の31日号に出るという計画をだれも知らなかった。それで8月の31日に、知らずにですね、この楽しそうな表紙の『ニューヨーカー』を買うとね、みなさんが開けてみたとおり、A REPORTER AT LARGEというタイトルがあって、そっから先は、全部ヒロシマの話でうまっていた。
そういうことで、『ニューヨーカー』っていう雑誌がどういう雑誌なのかというと──ほんとにごめんね、サンプルを持ってきたらよくわかったと思うんですが──字の多い雑誌です。で、広告を取ることによって──これはもう今の日本の雑誌でもそうですが──成り立っている、という感じだね。
アメリカの雑誌言論界が、1940年代あるいは戦争が終わったあと、どういうふうであったか、ちょっと考えてみると──日本は、さっき言ったとおり、だいたい紙がなかった。で、アメリカの雑誌言論界はさすがにものすごかった。飛行機にたくさん雑誌を積んで運んだんですよ。たいへんな工業国、産業国ですからね。もちろん、ジョン・ハーシーのような従軍記者も山ほどいた。こういう従軍記者たちが書いたものが、アメリカ中に出回ったりしたんですね。
『ニューヨーカー』という雑誌は、その当時まで、つまり『ヒロシマ』が発表されるまでに、約30万部を毎週毎週売っていたそうです。それから、戦争中は──あるいは終わってからもそうだったと思いますが──「ポニー・エディション」というのがあって……。ポニーというのは仔馬だね。仔馬版。で、どういうのかというとね、広告が全部ない。広告を取り除いて、記事だけ。だから薄くなりますね。で、これは、戦地に行ってる兵隊さんに、ただでばらまいた。『ニューヨーカー』だけじゃないですよ。他の雑誌類もそういうふうにしていた。だから、さっき言った30万部に、そういう数を加えると、そうとうな出版部数になると思います。
そういうふうにして、『ニューヨーカー』という雑誌はもうすでに評判を勝ち得ていた。30万部。30万部なんて大したことないって思うでしょうけど、30万部てのは、たいへんですよ。ぼくなんか、いくらがんばって書いたって、千部売れたら喜ばないといけないですね。で、ある朝、その『ニューヨーカー』をね──これは街で売られているわけですから──いつものように買って、開けてみたら「ヒロシマ」が書かれていた。これは、その日のうちに全部売り切れちゃった。すべて売り切れてしまう。だから、当然、増刷するということも──したかしないかは知りませんが──増刷をしてくれという要求が、そこら中から出た、と言われています。
なぜ、これだけの(広島や長崎の)経験をしているわれわれは、アフガニスタンに、そういうことをしないんだろうか。みなさんじゃないよ。みなさんの世代じゃなくて、ぼくらの世代だけれども、情けないね──ということです。
さて、そして、たちまちこれが世界中に広まって、あっというまに、そこら中で翻訳されて、それからラジオでこれを朗読するんですね。ところで、ハーシーさんは、この「ヒロシマ」で。ピューリッツアー賞はもらっていません。
強調しなきゃいけないのはね、ほんとうに、少なくとも日本という地域を超えて、広島はどういう状況であったかということを、広島にいた人たちの目からとらえて伝えたのは、なんといっても、ジョン・ハーシーなんだよね。バーチェットも早かった。早かったけれども、彼の新聞の記事、あの長さでは、これだけの効果はなかった。で、当然、そのバーチェットのしたことを、すぐさま否定するような記事も次つぎと出た。そういうことが、さっきの『広島TODAY』を見ると書いてあります。
■ジョン・ハーシーの力量
しかし、よくよく考えてみると、ジョン・ハーシーって人、ものすごい力があったからできたんだね。「すごい力」というべきか分からないだけど、結局のところ、体験した人たち──みなさんにお渡しした資料であれば、蜂谷医師だとか、あるいは重松静馬というような人ですね──いや無数の人たちが、自分たちが体験したことを書いているんだよね、日記をつけたりした。だけど、それを広く伝えるってことはできなかった。ジョン・ハーシーがしたことだって結局のところは、実際に体験した人たちから話を聞いて、それを整理したり、まとめたりして、それ以上のことじゃないよね。たしかにそれ以上のことではないけど、これだけ広く伝えるってのは、すごいことだよね。
20世紀のジャーナリズムということで言うと……。ランクをつけるっていうのは変なことかもしれないけど、たいへんな出来事を広く世界につたえるということをした人にランクをつけると、ジョン・ハーシーがトップなんだそうです。つける人によると思うけどね。これは、ニューヨーク大学のジャーナリズム学科の先生たちが、そんなこと(ランキング)をしているんだね。で、2番目は誰になるかというと、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』。で、その選考基準はなんだったかな、と考えるとね、そのひとつはどれくらい読まれたか、ということですね。ものすごく読まれたんだね。しかし、『ヒロシマ』によって、ハーシーは何かの賞を取るってことはありませんでした。彼が本をつくったりして、結果的に印税がはいるでしょ。その印税は、全部広島におくっちゃったんだね。
■プレス・コードに負けたくない
それはどうでもいいんだけど、問題は何かっていうと、伝えるってことが……。なんと言ったらいいかな。これは、ほんとは、8月6日の、もっともっと直後であればよかったのかもしれない。しかし、記者にはそういうことはできなかった。だから1年かかっちゃった。それで、さらにここからまた話は変わってきますが、注目してほしいのは、その1年経った8月の末以降、日本では、このような、つまりジョン・ハーシーのような記事であるとか、本であるとかは出版されなかった。
蜂谷さんの『日記』を見てもわかるようにですね、出版ができるようになるのは、1949年。それは何かというと、繰り返すようですが、プレス・コードってのがあったんですね。たかがプレス・コード。「神風」とか言って、自爆テロなんて平気でやっていた日本人は、なんでプレス・コードごときに沈黙してしまったんだろう。これもテーマですね。どういうふうに考えたらいいか、ぼくの中じゃ、ちょっとわからないです。わからない。あの戦争の戦い方そのものがだめだったんだね。「神風」の精神があれば、そんなこと(プレス・コード)突破できたろうに……しかし、そうはできなかったんですね。
それで、みなさんは、さっきのジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』の第14章を──この本は図書館にあると思いますので──よく読んでおいてください。次回はですね、『黒い雨』と『重松日記』についてやりたいと思います。丁寧に読んでおいてください。どういうふうにしたら、こういう2冊の本ができるのか。それから、これらの本を作るのにかかっている時間を想像してみてください。どれくらい時間をかけてはじめて、そういうことが世の中に伝わるようになったのか、ということを。実際にみなさんが記事を書いたり出版をする立場になったことを想像してみて、どういうふうにして、をよく考えてみてください。
授業日: 2002年5月7日; テープ担当学生: 一谷一清、重枝誓子、吉田将崇、泉谷豊
生ましめんかな ──原子爆弾秘話──