東京の主要新聞の1日発行部数概算、《改新新聞》2万2023、《やまと新聞》1万5939、《郵便報知新聞》1万4964、《読売新聞》1万1785、《東京日日新聞》1万639、《毎日新聞》9587、《時事新報》8548、《絵入自由新聞》6116、《朝野新聞》5761、《東京絵入新聞》5371。
岩波書店『近代日本総合年表』より、明治20年(1887)の新聞発行数
ここまで活字が当たり前になり、その存在が浸透しきってしまった世界では、その意味を再確認することすら難しいかもしれない。新聞紙面のあの大量の文字を、印刷技術なしに毎日量産することは不可能だ。印刷技術が、言論世界、社会にあたえた影響をいま問い直してみる。
■新聞勃興期の明治時代
(レポートについてのフィードバックをひとしきり終えた後)さて、じゃあ、先週の続きに戻ります。印刷技術が生まれたことによって、どれほど社会が変わったか、ですね。明治の時代の社会主義者達にとって、もし印刷技術がなかったら、自分たちの考えを伝える事なんてできなかったはずだよね。もちろん、演説会もあってその力は無視できないけど、それだけでなく、大変な分量の印刷物をばらまかなければ、考えを伝えたり、広めたりすることは成立しなかったはずです。
さて、これから読むのは『近代日本総合年表』(岩波書店)。1968年に最初の版が出ましたが、増刷りや改訂を経まして、これは1991年のものです。この本から引いて、明治の時代の新聞の状況をいろいろ読み上げたいと思います。『寒村自伝』を読むと、『東京横浜毎日新聞』というものが出てきます。最初は『横浜毎日新聞』だったのですが、東京に引っ越して『東京横浜毎日新聞』になったようです。そのあとですね、またタイトルを変えて『毎日新聞』になるんですね。で、また別に『大阪毎日新聞』なんてのもあったんですね。ややこしいですねえ(笑い)。さて、『東京横浜毎日新聞』がそれまでの装いを変えて『毎日新聞』になったのは、1886年(明治19年)のことでした。で、もちろんほかにも新聞があったんです。たとえばね、『北海道毎日新聞』。これは明治20年(1887年)のことです。これは『北海道新聞』を改めたものらしいです。それから今度は四国の方ですが、『予讃新聞』ってのがありました。そして、『上毛新聞』。
『横浜毎日新聞』については、横浜には、港があったりして、物の流通のため、情報が重要だったんですね。で、それがどんどん性格を変えて、『毎日新聞』になったわけなんですが、そういう意味で、市場の情報が必須だったところばかりでなく、地方でも次から次へと新聞ができます。で、新聞がどれくらいの勢いで、各地でつくられていたか、どんな社会的インパクトがあったかをみていきます。
「明治22年(1889年)大阪朝日新聞が憲法全文を東京より電報で入手。」 2月11日、東京で公布された憲法の全文が、電報で送られたんだね。で、「それをその日のうちに号外として速報をして話題になりました。」 みんな電報ってしってるかい? モールス符号ってしってるかい? トン・トン・ツー・トンって知らない? え〜、知らないの? モールスって人がいてね、通信の方法を発明したの。それはね、電気が電線を通るでしょ。それで、僕はもう忘れちゃったけど、「ツー・トン」は「あ」だったりするわけ。わかる? そんな方法で、憲法の全文を送っちゃったの。すごいだろ? 今なんかさ、ファックスみたいなもので、ぴらっと流しておしまいだろ? 読みもしないでさ(笑い)。むかしの新聞社は電報使ってたんだね。
同じく明治22年、『東京公論』っていう新聞が発行されます。もともとは『大阪公論』というものでした。東京に移ったんだね。それから『岡山日報』。みなさんね、こういうのはちゃんとノートとってね、後で調べるんだよ。明治の時代にどんな新聞が生まれて、どれくらい発行されたのかとかね。それから『京都日報』。ほかにも『大阪時報新報』てなものもできました。「時報」で「新報」ってどういうことだろね? ほかには『山形新聞』『関西日報』『長崎新報』『江戸新聞』・・・山ほどできるんですね。さて、どんどんとばして、『報知新聞』は1904年。そして、1905年(明治38年)、『平民新聞』が、マルクスの『共産党宣言』の邦訳を載せたんだね。『共産党宣言』は知ってるな? まあ、この時代、ものすごい勢いで新聞がじゃんじゃんできるんですが、ひとつは、やはり日露戦争をめぐって、いわゆる「世論をどういうふうに形成するか」が、非常に大きな課題だったんですね。ほかにも、産業化が進む中で、やはり新聞が重要な役割を持っているんですね。
その前の時代については、こういう本があります。これはいい本です。ちょっと高いけど・・・5,800円や・・・稲田雅洋という人で、この人は大変優れた学者だと思うんですが、『自由民権の文化史 – 新しい政治文化の誕生』(2000年4月 筑摩書房)。彼は歴史学者です。幕末から明治初期にかけての、自由民権を主張する人たちが、どういうふうにして、自分たちの意見を形成したかを克明に調べたんですね。当時の自由民権の人たちも、仲間との意見を形成しなくてはなりませんでした。しかも、内輪の、閉じた仲間でなく、いろんなところにいる仲間とのあいだで、意見を形成しなくてはいけません。この本を読むと新聞と演説会とがたいへん重要だったということが分かります。
■筆耕・写本から印刷技術への変遷
授業中、この部分では、手書きの時代から、印刷機までの変遷をとらえやすいレイモンド・ウィリアムズ編集のContact: Human Communication and Its History (Thames and Hudson Ltd 1981)からの映像資料を見せました。もう一度見たい人は、情報館で。
■ユーゴー、寒村の活動を支えた印刷技術
ここまで見てきたジャーナリズムの例は荒川寒村とヴィクトル・ユーゴーでした。この2人の共通点を取り出せるかな? 文章を読んでみると、どうも2人のタイプは違うようだね。しかし、ひとつ言えるのは、2人とも政治に関心があったということです。そして、その関心は、文章を書き出版することによって、政治を動かそうとしたところが似ていると言えます。
政治を動かすということでいえば、たとえばフランス革命なんてものがありました。あのフランス革命なんてものは、物書きがつくった革命だといってもいいでしょう。当時、いたいろんな考え方の人たちが、それぞれの立場の主張を新聞に載せて、その意見を鍛えたり、広めたりしたんだね。
ユーゴーについての資料があります。みなさん、こういうよく分からないことがあったら、いくらでも調べる方法は有るんだよ。たとえば、これは『ブリタニカ国際大百科事典』のユーゴーの項目です。自分でも調べるんだよ。さて、前回の資料で、ユーゴーは国外追放されているということを知りましたね。ユーゴーは、国外追放されているあいだに『レ・ミゼラブル』を書いたんですが、そして、これが当時のフランス政府の弱点だったんですが、その国外追放されていたユーゴーの『レ・ミゼラブル』が、フランス国内で印刷・出版されて、大変に流行るんだよね。
荒畑寒村の書いた、『谷中村滅亡史』は、発売と同時に発禁だった。印刷されてアンダーグラウンド版がでたには違いないけどね。ユーゴーにしても、寒村にしても、印刷技術がなければ、あの人たちのしたことは絶対に考えられないものなんだよね。さて、今週はここまで。
授業日: 2001年5月8日;