住民不在の事故調査
一九七九年三月二八日にはじまる、スリーマイル島原発事故の実態がどのようなものだったか、とりわけ被害の大きさがどのようなものだったか、これから先どのようなものになるのか。はたして私たちは、こういったことを的確に知ることができるのだろうか。
チェルノブイリ事故以前、それは文字どおり史上最悪の事故だった。大型化した原子力発電は当初から潜在的に想像を絶する危険性をかかえながら幸運にも、これほどの大事故は経験してこなかった。存在していたのは、ごくごく小さな無視できる程度の確率で起きるという、大事故の際の被害評価だった。そして、この実際の大事故に対応できるほどの準備はだれにも、電力会社にも、連邦政府にも、州政府にも、周辺の町々にも、なかった。
しかし、私たちが事故の実態を知ることがひどくむずかしいのは、こういった事情からというよりも、それを明らかにすまいとする力が強くはたらいているからであり、明らかにしようとする努力には、じつに迅速に横やりが入り、金をかけた安全宣伝が煙幕をはってしまうからだ。私たちが、新聞、テレビ、その他のマスメディアを通じて与えられているのは、何度も加工されフィルターを通され、そのもともとの意味さえ実感のできないことが圧倒的に多い。住民の体験がそのまま伝えられたことなど、アメリカ国内でも、事故後十年たとうとしている現在でも、皆無に等しいといっていい。
しかし、煙幕のきれ目からみえてくる断片はあり、それは、原子力という最先端のスマートなはずの科学技術組織が、ときには不可解なまでに、支離滅裂であるのを暗示している。筋がとおっているところがあるとすれば、とにもかくにもこの産業を推しすすめようとする意志ぐらいなものだろう。
原発の建設認可に先だつ環境影響評価や、事故の際の影響予測などは、もしそれが実際とあまりにもかけはなれていることがわかったなら、修正しなおさなければならないのはあたりまえである。スリーマイル島事故の一年後にだされた、放出放射能量の評価は、電力会社の報告書では一〇〇〇万キュリー、NRC(原子力規制委員会)の報告書では二四〇万キュリーとなっていて、これだけをみても、あまりにも大きすぎる差があるように思われるのだが、日本の同型炉についての事前の評価では、はるかに大規模の炉心全面溶融が起こってもわずか二万キュリーたらずの放出しかない計算になっている。いったいどういうことなのだろうか。
スリーマイル島事故の評価にもどってみよう。不可解なことばかりだ。電力会社の評価では、一〇〇〇万キュリーの放出があったといい、NRCの評価では二四〇万キュリーだという。しかし、住民の集団被曝線量評価は、両方とも三三〇〇人レムあるいは三五〇〇人レムのあたりの範囲にぴたりと一致しているのだ。放射能雲の拡散モデルがちがうものだったのだろうかとも思うが、どうやらそうでもなさそうでもある。おそらく何らかの、場合によっては故意の、計算ちがいを疑わざるをえない。そして、研究者によっては、この三三〇〇あるいは三五〇〇人レムも大きな過小評価だという。京大原子炉実験所の瀬尾健氏は、基礎になる実測データがあまりにも貧弱であるが、とことわったうえで、NRCなどの計算の不備をただ補正するだけで、最小で一六二〇〇人レムの集団被曝線量がえられるとしている。
つまりは、事故後の調査、あるいは影響評価といっても、事前の予測とほとんど変わらない程度のあいまい性に支配されていて、おそらくその分だけ行政よりに、推進派よりに傾いてしまうということなのだ。そして、実際の被害を受けた住民とは直接むかいあうことがまったくないまま、事実であるかのごとくまかりとおることになってしまう。後に紹介する数かずの住民の体験を説明しようとする努力などは皆無に等しく、人間不在の計算ゲームといっていいほどである。
隠蔽のカラクリ
そして、当時、商業用原子炉史上最悪の事故といわれた大事故の印象を、とにもかくにも薄めるために、いろいろな情報の操作が、宣伝工作が、行なわれたにちがいない。
たとえば「暗黒の金曜日」といわれたあの三月三〇日のことだ。午前八時〇一分、排気塔の上をとぶヘリコプターで測定された、時間あたり一二〇〇ミリレントゲンの放射線量が、運転員を、そしてワシントンのNRCを動揺させ、退避勧告のひきがねとなった。
ところが事故から一カ月もたつと、あの動揺は、報告された一二〇〇ミリレントゲンを地上での測定値、それも敷地外のものであると誤認したためだといわれるようになった。そして、退避はまったく必要なかったのだというのだ。日本の大新聞などもこの見解を大きく報道した。そう主張していた人たちは、事故調査のための大統領委員会、つまりケメニー委員会の事情聴取の席では、もし炉内の状況を知ることができていたならもっと大規模な住民退避を実施していただろうと認めていた人たちなのだから奇妙である。
いうまでもない、住民への被害はなかったと思わせるための煙幕なのだ。とりあえず、三月三〇日のNRCの会話録から、その問題の一二〇〇ミリレントゲンという測定値が地上で測られたものでないことを、NRCの面々が知っていたことを確認しておこう。ベセスタのNRC本部にいるハロルド・デントン原子炉規制部長、事故対策チームのリー・ゴシックとワシントンDCの事務所にいるNRC委員たちとの電話によるやりとりだ。
デントン 毎秒六三キュリーという数字がでてる。計算を説明できないが、どういう意味かといえば、もしそれが正しければ、われわれが把握しているshutdown rate(運転停止の際の放射能量か、あるいはlet-down rate 一次冷却系からの放出放射能濃度の聞きちがいか?)にてらしあわせて、きのうの北門での測定値とてらしあわせて、きのうの数倍程度ということになり、私がちょっとまえに伝えた、その一二〇〇ミリレムに合致する。
ギリンスキー委員 どこでの(一二〇〇ミリレム)だ。
ケネディー委員 どこでのだ。
デントン 風っていうことがありますね。それでもちろん距離とともに下がるので、一二〇〇は…。
ケネディー 塔のところで一二〇〇か?
デントン ……北東の方向……もしもし。
ケネディー 塔のところで一二〇〇だろうっていうのか?
デントン はい、そうです。そのとおりです。もちろん、遠くへいけば下がります。知事になにを伝えるか考えだそうとしているところです。避難をどうするかで、NRCに正確な情報をだせと要求しているんですよ。
ギリンスキー ちょっと質問があるんだが、きみが二〇倍にしているのは、至近距離というか、いちばん近い住居地で、きのうのplant(発電所内)での二〇倍になるということかい。
ゴシック そうです。みんながいっているのはそういうことです。
ギリンスキー そうか、ずいぶん高いじゃないか。
ゴシック (毎分)一〇ガロンの一次系からの放出……一〇ガロンの一次系からの放射能放出率がどれくらい正しいかわかりませんが、六三キュリーというのは、きのうの放出率について解っていることとてらしあわせてだと思う。
ブラッドフォード 実測値はどんなものがあるんだい。
ゴシック いまは、実測値は手もとにありません。AMSの飛行機が測定はしてますが、こっちでこれが起きてから、現時点での測定値はもってません。放出源は封じられ、たぶん放出は一時間か二時間だったと思います。しかし、あとどれくらいの時間このままいけるか、われわれにはわからないですが。(聴取不能)
ギリンスキー 敷地周辺の地上線量はあるのかい。
ゴシック いまは手もとにありません。
(略)
ギリンスキー これは格納建屋からかい?
デントン 格納建屋からの冷却材です。まず、廃ガス減衰タンクか補助建屋に出して、通常の放出ポイントで排気したようです。われわれの計算では一マイルで時間あたり一七〇ミリレム、二マイルでその半分、五マイルで一七です。どうやら、短い噴出の雲が北東に向っているが、いまは放出はとまっているようです。様子をみなければならない。州警察に五マイルまで避難させるよう知らせたが、ほんとに実施したかどうかは……
(略)
へンドリー委員長 どこまで……北東方向に五マイルの避難をしてはどうかと、そう私はうけとっているんだが……
デントン たっぷりと五マイルというべきでしょう、第一印象と一七とかいうような数字(聴取不能)からですが。
ヘンドリー 時間あたりのミリレム?
デントン そうです。
ギリンスキー どの時点で?
デントン そうです。雲に先んじて避難するために重要なのは、死ぬまでここにすわってるより、すぐはじめることだと思います。個人の被曝量は少なくすることができないとしても、まだ集団被曝線量は減らせるチャンスはあるかもしれない。
ギリンスキー ああ、なんていってるのかな、北東の四分円だったか?
ブラッドフォード 致死量のことでいってるのじゃないっていうのは、はっきりさせておく必要がある。(一九七九年三月三〇日、NRC委員会議事録)
だれが読んでも、一二〇〇ミリレントゲンを敷地外の地上線量とNRCが受けとっているようには読めないだろう。五マイルはなれたところで、地上での被曝線量が一七ミリレムになるような情勢なので、避難にふみきるべきだとデントン氏はいっていたのだ。一マイル離れたところで一時間で一七〇ミリレム、五マイルで一七ミリレムの個人被曝線量が予測されていた。
一七〇ミリレム、一七ミリレム、というような数値が実測によるものでないことはいうまでもない。当時の責任ある人たちにとっては、実測値よりも重要だったろうし(測られてからでは遅すぎる)、複雑きわまりない現実を、詳細に知りつくす時間など与えられていないので、すでに知られている手ごろなモデルにしたがって計算するのが最善なのだ。
気象の状態にしてもそうだ。風は定規で線をひくように流れはしない。たとえば三月三〇日のこのやりとりがあったころの午前一〇時、スリーマイル島の気象観測塔の記録(三〇分間の平均)では西北西の風毎時一・六マイルだが、一〇マイル離れたキャピタル・シティ飛行場の記録では、南東の風毎時四・六マイルとなっている。責任者たちは詳細なデータを待っているわけにもいかないと同時に、モデルによる自分たちの予測値が相当大きな幅をもって適用されなければならないことを、充分知っていなければならなかった。北三マイルには人口一万人のミドルタウンがある。風向きによっては、とりあえずの、三マイルでの予測値として一七〇ミリレムの四分の一から三分の一、つまり四〇ないし六〇ミリレムを一万人という人口にあてはめねばならぬという可能性が存在していたのだ。一時間で、ミドルタウンだけで四〇〇人レム、六〇〇人レムとなる可能性だ。もちろんミドルタウンにだけ人がいるのではない。原発から半径五マイルの円のなかには約四万人、一〇マイルのなかには約一六万人の住居者数がある。
放出がまた起きないという保証はどこにもない(現に同規模の放出によるものと思われる一二〇〇ミリレントゲンの測定記録はこの三月三〇日、公表されているものに限って三回ある。そのうちひとつは、話題にされている放出が、開始されたとされている以前の午前六時〇〇分であり、残りのひとつは午後八時〇一分。不思議なことに、午前九時から午後八時までのあいだの測定値は、ヘリコプターによるものも地上のものも、いろいろな報告書のなかには記載されていない。NRC議事録で一〇時前後に、上空で四五〇ミリレントゲンの測定があったことがうかがえるぐらいだ)。いずれにしても、責任ある人たちが意識しなければならなかったことは、実用的な計算モデルによって予測される公衆の被曝線量だった。かりに時間あたり六〇ミリレムの被曝となる雲によって、ミドルタウンが五時間にわたっておおわれつづけたとすれば、三〇〇〇人レムの集団線量になる。
後の、政府発表によるスリーマイル島事故による集団被曝線量は、半径五〇マイルの約二〇〇万人にたいして三三〇〇人レムとされ、致死ガン〇・七人、非致死ガン〇・七人、全世代にわたっての遺伝的影響が〇・七人という被害予測になっている。もちろん、たとえばゴフマン博士の安全側にたつ計算式をつかえば、致死ガン、非致死ガンそれぞれ一〇人程度の数字がでるはずだ。たとえばミドルタウンだけに限ってさえ、これとほぼ同様の計算結果を予測しなければならないような数字にNRCは直面していたのだ。
数十人、あるいは数百人の事故によるガンの犠牲者が、計算上であれ予測される事態になったらどうだろう。もちろん、事故にかかわりなく発生するガンもある。どのガンの発生が事故によるものかを確定することは、およそ技術的に不可能であり、莫大な賠償金を覚悟しなければならない。世論はどうなるだろうか。原子力産業には致命的な打撃になるにちがいない。
三月三〇日のNRC内部でのやりとりがはらんでいた、こうした意味をなんとしてでも隠してしまわなければならない。これが、退避は必要なかった、上空での測定値を地上のものととりちがえた、という大合唱の意図するものだったのだろうと思えるのだ。
きわめて大きな集団線量につながる当時のやりとりは、まったく無意味であったかのような印象をつくりださなければならず、かといって、すでに発表されてしまった実測値を強引に変更することもできない。NRC内部にあった混乱にたいする批判を、逆手にとって、この一件も過剰な反応にすぎなかったように強調することで、世論の操作をしたのだろう。もちろん一方で、集団線量を極小に見積もることができるという、とりあえずの技術的な目途がたっていたということもあるにちがいない。
反映しない住民の体験
三月三〇日、ミドルタウンの民間防衛隊のメンバー、ロバート・フォーサイス氏は、ビクトリーン七一五型サーベイ・メーターをもって町を巡回していた。彼のサーベイ・メーターが反応したのは、午後〇時四五分から四時〇〇分までの連続九回の測定だった。最低で四〇ミリレントゲン、最高で四〇〇ミリレントゲン、平均をとれば時間あたり一五〇ミリレントゲンだった。(ロバート・フォーサイスの証言)フォーサイス氏のサーベイ・メーターが正確に働いていたかどうかは知ることはできないが、正確だと仮定すれば、そしてミドルタウンの一万人が全員同じようにこの線量をあびたと仮定すれば(学齢未満の幼児と、妊婦にたいする避難勧告が発表されたのは一二時三〇分だったので、この午後一時から四時までの時間帯には、人びとは建物による遮蔽の外にでていた可能性が少なくない。また、放射能の雲が地表をはうように流れていたなら、建物による遮蔽という設定も、線量を減らすことにはならないだろう。そしてまた、ベータ線による被曝を想定しなければならないとすれば、一五〇ミリレントゲンのうちのベータ線寄与分は、生物効果への換算《レントゲン→レム》では、おそらく数倍されねばならず、一五〇ミリレムの被曝線量はけっして過大とはいえず、むしろ過小である可能性さえある)、四五〇〇人レムの集団線量となる。政府の使うひかえ目な計算方式にあてはめても、これだけで致死ガン一名、非致死ガン一名、遺伝的影響一名を算出しなければならない。
フォーサイス氏の測定記録(3月30日)
- 9時40分 ホッファー・パーク…………………なし
- 9時55分 ベーニー自動車店…………………なし
- 10時10分 フィーザー校…………………なし
- 10時30分 リバティ消防署…………………なし
- 10時50分 ロイヤルトン…………………なし
- 11時10分 フィーザー校…………………なし
- 11時30分 グランド・ビュー校…………………なし
- 11時50分 ロウアー・スワタラ警察署…………………なし
- 12時0分 ルーズベルト通り一五番地…………………なし
- 12時30分 民間防衛、ベース・ステーション…………………なし
- 12時45分 民間防衛ベース・ステーション…………………0.10レム/時
- 13時30分 ルーズベルト通り一五番地…………………0.04レム/時
- 13時45分 レーマン洗たく店…………………0.05レム/時
- 14時0分 フィーザー校…………………0.15レム/時
- 14時5分 ロイヤルトン…………………0.15レム/時
- 14時30分 ルーズベルト通り一五番地…………………0.15レム/時
- 14時40分 フライ・ビレッジ…………………0.20レム/時
- 15時51分 アスパン通り…………………0.40レム/時
- 16時0分 民間防衛ベース・ステーション…………………0.10レム/時
- 16時30分 民間防衛ベース・ステーション…………………なし
- 17時0分 ルーズベルト通り一五番地…………………なし
- 19時0分 ルーズベルト通り一五番地…………………なし
- 22時0分 ルーズベルト通り一五番地…………………なし
この三月三〇日には、強烈な金属性の味や、奇妙な霞を体験した住民が少なくない。スリーマイル島から北約八マイル、ハメルズタウンでは朝スクールバスを待つ子どもたちが「空気に強い味がして口がへんな感じになり」大さわぎをしたという(テリル・ストーラーの証言)のは、フォーサイス氏が巡回測定をはじめるまえの午前七時四〇分から五〇分ごろのことだった。
ミドルタウンの新聞記者デイビッド・グレイビルは、ちょうど町でフォーサイズ氏のサーベイ・メーターが高線量を記録しているころ、スリーマイル島を見おろす丘のうえにいた。発電所から東へ一マイルちょっとの地点である。
「とにかく私は写真をとっていて、車をみたんだ。どういう順番だったか忘れた、この味が先だったのか、車がそこにきたのが先だったのかわからない。
彼らはNRCの人間だったと思う、連邦政府の車だった。……運転しているのがひとりと、助手席にひとりいて、助手席の男が窓から計器をつきだして測定をしていた。彼に測定値をたずねると、いや、まったくなんにもなしさ、というかともかくそういう内容のことをいうんだよ。私はさらにしつこくたずねて、結局、私には教えないんだということがわかった。」
その車は丘をなんどもあがったり、おりたりしているので、なにか線量計がキャッチして、それをつきとめるためだと、グレイビル氏は考えている。
「その丘のうえにいるとき、ロのなかに、このすごい味がしだした。そのあと(車にのって)家にかえりつくまで、だいたい五分、一〇分だったかもしれないけど、この味がしていた。……風は発電所から丘にむかって直接ふいてきていた。あの人たちが私に、線量が低いとも、どれくらいだともいわなかったので、ずいぶん動揺したのをおぼえている。」(デイビッド・グレイビルの証言)
グレイビル氏が丘のうえにいたのは、午後の二時から五時のあいだのいずれかの時点だったという。もう一度、その時間帯でのNRCの会話録をみてみよう。おそらく午後三時一五分から三時三〇分のあいだと思われるが、スリーマイル島現地に到着していたデントン氏から、最初の連絡がワシントンのNRC委員たちに入る。
デントン まず、一次系からの放出に関してなにが起こっているのか、からですが、まだ毎分一〇ガロンの率で放出をしていて、それから絶えまなくキセノンのガスがでている。彼らの計算によれば、毎秒十分の一キュリーのキセノン一三三放出率だ。今朝われわれが推測していた、ポンプによる放出のさいの毎秒六〇キュリーとずいぶんちがう。(この毎秒〇・一キュリーのキセノン一三三の放出率は小さすぎる数字である。後に電力会社内部の評価報告書にみられる、これまた過小評価と思われるものでさえ、三月三〇日の希ガスの放出率を平均毎秒一〇キュリー以上にみている。──著者)
(略)
デントン 敷地境界周辺での線量率は、一時間一二〇ミリレム程度のようだ。これらの測定値はすべて島の内部でのもので、他のところで線量がどうなっているか、私はまだ報告をうけていない。
(略)
ヘンドリー委員長 オーケー。つぎは予防的住民避難の必要があるのでは、という危惧のもとになっている中心的問題についてだ。われわれの勧告は妥当だったと思うんだが、知事はすでに発表してしまったが、近辺の住民はさらに通報があるまでは家のなかにとどまる、就学以前の幼児と妊婦はしばらく地域の外に退避するという勧告だが。
デントン その面での私の気がかりは、放出率がさがれば、このガスをもうためこまず、とらえておくので、敷地周辺の線量率にてらしてというのが強制避難の正当な根拠づけに役立つでしょうが、すでにとられている予防措置でまずまず適切ということです。(官僚は、避難勧告にたいする責任追及を心配しているのだ)
じつに不可解なことだが、このころの敷地外の測定記録は、上空のものも地上のものも、ほとんど見あたらないことを、くりかえしておこう。
スリーマイル島の北西約五マイル半、ハイスパイアで化粧品のセールス・ウーマンをしているエベリン・シールズさんは、その金属の味を前日、あるいは前々日から感じていたが、その三月三〇日は特にひどかったという。
「エイボンのセールスをしているから、外にでてるときがほんとに多いの。金曜(三月三〇日にはほんとにあの味にとりつかれてしまった。五マイル圏内でエイボン製品を売りあるいていたのよ。手までおかしな感じだった。自分の指をさわると、なんともいえない気もちわるさだっだ。ぜんぜんちがう感じで。」(エベリン・シールズの証言)
住民が金属性の味を感じたのは三月三〇日だけでもなければ、北のミドルタウンの人たちだけでも、北西のハイスパイアの人たちだけでもなかった。北西一二マイルの州都ハリスバーグの人たちのなかにも、南西方向、南東方向の人たちも、じつに多くの人たちが体験しているのだ。金属の味にとどまらず、同時に強い身体の症状を体験した人も少なくない。
「のどになにかがつまって、息がつまる感じだった。胸ではなくて、のどだった。息ができなかった。そう、あれがあったのは、事故があったのは水曜だったから、水曜、木曜、金曜だった。なにか痰みたいなものがでそうで、しよっちゅうせきをしなければならなかったけど、なにもでなかった。
……私のは、ほんとに息がつまるほどだった。まえにはなかったことだ。息ができなかった。」
(ジョーン・フィッシャーの証言)
フィッシャー農場はスリーマイル島から西北西三・五マイルにあるが、だれもが日焼けに似たような症状があり、ジョーンの夫、ジェレミア・フィッシャーはそれだけではなかった。
「ちょうどあれ(ゴーグルをかけずに溶接をしたとき)とおなじような症状といえる。ただ、こんどの場合のほうがもっとひどかった。(溶接のときは)ジェリーはほとんど見ることもできなかった。こんどのは見るのには差しさわりないけれども、ちゃんと見ることはできたけれども、ほんとにどういうことなのか、まぶたの内側(下まぶた)はふつうなら眼球についているはずなのに、眼球からはなれて落ちそうなふうになっていた。……それに下まぶたの内側がまっ赤なのがみえた。眼がぜんぶまっ赤で、なんでこんな眼じゅう赤くなるのかと思った。ひどい形相だった。」(ジェーン・リーの証言)
おそらくこの人たちは放射能のガスのまっただなかにいたのではないだろうか。いったいどれほどの線量によって、日焼けのような症状や、金属性の味がおこるのだろうか。どれほどの線量によって、ジョーン・フィッシャーは息がつまり、ジェレミアの眼やまぶたは赤くなったのだろうか。吐き気、嘔吐、下痢の報告までもある。ありあわせの知識をかきあつめれば、こういった症状がおきるためには、すくなくとも数レム、数十レム、数百レムの線量が必要なように思える。ミリレム単位ではなく、レム単位の被曝がなければならないように思えるのだ。
この事故の放出からは、そんなことはおこるはずがないというのが、くりかえされてきた公式見解だ。これは、まったくの倒錯である。人びとにおこったことを、おきなかったかのようにいわれてはこまる。線量と症状との相関が、経験的にも理論的にも確立しているというのならば、症状をおこすに必要なだけの線量を、必要なだけの放出量を、逆に計算しなおすのが筋ではないだろうか。
メアリー・オズボーン、ジェーン・リー、マージョリー・アーモットたちの「アーモット調査」が対象にしたのは、こういった事故当時の体験をかかえる集落だった。あるいはメアリー・オズボーンが異常な植物に注目せざるを得ないのも、このような体験があってのことであり、一方で、貧弱な測定値にもとづく机上の推定評価ばかりが、あたかも科学的真実であるかのごとく出まわっているからである。
遅すぎた退避勧告
退避は必要なかった、という筋書きの変更をめぐって、もうひとつ奇妙なことがある。事故三日目(三月三〇日)の朝、排気塔の上空で測定された一二〇〇ミリレントゲンは、たしかにNRCを動揺させた測定値だったのだが、これ以上の実測値はないのだろうか。上空での測定値で一二〇〇ミリレントゲンより大きい公表値は、二日目(三月二九日)午後二時一〇分、排気塔上空五メートルでの三〇〇〇ミリレントゲンというのがあるだけである。これ以外に、一二〇〇ミリレントゲンに匹敵する、あるいは数百ミリレントゲンをこえる測定値がみあたるのは、三日目(三月三〇日)午前六時〇〇分一二〇〇ミリレントゲン、午前七時五六分一〇〇〇ミリレントゲン、午後七時五九分四〇〇ミリレントゲン、午後八時〇一分一二〇〇ミリレントゲンであり、すべて事故三日目のものだ。これだけみれば、この三日目の放出が最大であるかのような印象をうける。
しかし、記録によれば、主要な放出経路とされている補助建屋と燃料取扱い建屋の排気が止められたのは二日目(三月二九日)の午後一時からの一時間、燃料取扱い建屋についてだけである。そして、これらの建屋の排気を集める排気塔からは一貫して毎秒四〇立方メートルほどが放出されつづけていた。事故発生後三時間ほどで排気塔の放射線モニターは振りきれてしまい、補助建屋内、あるいは燃料取扱い建屋内の区域放射線モニターはきわめて高い線量を示しはじめる。一五〇〇〇ミリレントゲンで振りきれてしまったモニターも複数あるようだ。後の放出量推定計算は、この補助建屋内の振りきれなかったモニターをもとに行なわれているが、そのひとつHPR 三二四〇とよばれるモニター記録の、時間ごとの値(おそらく平均値)からでも、二八日午前九時、から二九日午後九時までの平均で毎時約三〇〇〇ミリレントゲンである。そして、三〇日午前〇時から一二時までの平均は、毎時約五〇〇ミリレントゲンと計算される。一日目、二日目には毎時一万ミリレントゲンをこえるピークの時間帯があり、三日目には一から一三〇〇ミリレントゲンの範囲にピークが収まっているようにみえる。六倍から十倍の差だ。
排気のスピードがほぼ一定だったというのだから、排気塔からの放射能ガスの放出量は、ほぼこの建屋内の線量水準に比例するはずである。だとすれば、もし一日目、あるいは二日目に、ヘリコプターが三日目とおなじように排気塔の上空での測定をしていれば、六〇〇〇レントゲン、あるいは一万ミリレントゲンもの測定値だったということなのだ。 これを、あの三月三〇日金曜日の、NRCでのやりとりとかさねてみるといい。退避は必要でなかったどころか、おそすぎたのだ。
補助建家、燃料取扱い建家の放射線モニターの動き(主としてHPR-3240モニターにもとづく)
計算ゲームの被害評価
さて、事故が炉心の部分溶融だったことは、事故当時NRCの技術者などが、現場から伝えた原子炉の状況から想像されることでもあった。しかし、このことが認められるまでには六年も九年もの時間がかかっているのだ。手のつけようもなく、中の様子を確かめることができないあいだ、大手をふっていたのは過小評価だった。わからなければ、すべてたいしたことはないのだ。燃料棒のさやは破損したがウラン燃料はとけていない、ウランもジルコニウムのさやもともに溶けていたが、表面だけであるというような主張がくりかえされていたのである。
当初の見解のひとつは、ウラン燃料の温度を摂氏約一九三〇度としていた。それが一九八四年には約二六五〇度、八五年には約二八二〇度と書きかえられる。エネルギー省の調査研究が、ウラン燃料の二〇パーセントが溶けていたと発表する。さらにその翌年には四六パーセントが溶け、外形をたもった燃料棒は約三割しかないことが確認された。そしてメアリー・オズボーンが報告しているように、溶融した約六二トンのうち二九トンが水で冷やされてできた皮殻を破ってさらに原子炉の底へと流れはじめ、厚さ約二センチのステンレス製の壁を溶かし、圧力容器の底に一九トンが流れおちていたのだ。エネルギー省の筋書きによれば、事故発生から三時間四六分、つまり三月二八日午前七時四六分のことである。この恐ろしい光景が事故当時、目のまえにみえていたとしたら、運転員は、NRCは、どうしていただろうか。GPU社のエド・キントナー氏は
「もし何が起きているか知っていたなら、運転員は急いで逃げていただろう」と語っている。問題にもどろう。原子炉の内部の状況が明らかにされていくには、じつにとほうもない金と、そして時間がかかり、その間はつねに過小評価のほうへと報告がかたむいていたことを確認しよう。そして、もう一度、周辺の人間やその他の生物にたいする被害の評価に目をむけてみよう。
どうやら月日がたっても、事故による公式の被害評価は変わらない。
住民の被曝線量評価に直接影響する放出放射能量の評価などは、むしろますます小さく算出されていく傾向さえある。それは、ちょうど原子炉内部の破壊状況が、日をおってますます大きく深刻なものであることが明らかにされてくるのに反比例するかのようにもみえる。日本の電力会社や原子炉メーカーがアメリカに送りこんだ技術者たちの報告書には、環境中に放出された希ガスは全量の〇・五パーセントにすぎない、ヨウ素もごく微量でしかなかったとするものがみられる。当初の、電力会社あるいは政府の公式報告書にみられた希ガス放出量の、二〇分の一あるいは四分の一という数字である。この新たな評価の具体的根拠はまったくはっきりしないが、まるで、すべては、被害はなかったといえる住民被曝量の範囲におさまるよう、さまざまな数値の矛盾をならし、つじつまあわせをした結果のように思えてしまう。
肝心の、広範囲の地域にわたる被曝線量の実測データのほうは、まったく不備といっていいモニタリング体制だったので、地域の人たちの被曝量を満足のいく程度にわりだすには、貧弱としかいいようがない。研究者はその貧弱なデータから、仮定のうえに仮定をかさねて、それぞれの推測にたどりつくしかない。そして、この不確かな領域にまかりとおっているのが、事故後一カ月もしない時点でだされた政府見解である。例の三三〇〇人レムあるいは三五〇〇人レムという数字から、周辺五〇マイルの二〇〇万人にたいする影響は極小であり無に等しいというのだ。これが一〇年間近く不変のままの公式見解である。端的にいって、機械装置にかけるだけの時間も金も、人間の問題にはかけていないのだ。原子力発電の思想というものがあるとするならば、それはこのことに象徴されるように、機械の崇拝、機械への隷従だといっていい。
いまだに完了してはいない除染作業は、当初一日あたりのべニ千人の作業員を投入する、きわめて困難な課題だったが、作業員の被曝は、個人としても、集団としても莫大なものになる。このこともまた、人間を視野に入れない科学技術の戦慄すべき結果である。地元の新聞には、防護服で作業中の労働者や技術者が意識を失ってたおれたという記事や、あるいは、放射性物質を吸いこんだという記事がしばしばでた。事故後六年間までの、除染作業中に起きた作業員の汚染事故は、NRCが記録しているものだけでも六〇〇件を超える。一九八四年には、従業員の集団被曝量が、一三〇〇〇人レムから四六〇〇〇人レムになるであろうという見積りを、NRCが発表している。NRCのひかえ目な計算でも、五人から二〇人程度のガンの犠牲者が予測されるにちがいない。
例によって、すべてが機械の記録した不完全な数値と、机上の計算による結果にかぎられていることからすれば、事故のさらに底知れぬ影響を思わざるをえない。一九八二年に急性の白血病で死亡した一作業員の遺族が会社を訴えているが一九八一年には、除染作業にたずさわったという別の労働者で、ゴールズポロ(人口約四〇〇人)に住む五〇代のS氏が白血病の診断をうけている。それもアイリーン・スミスと私が住民のインタビューをするなかで、たまたま知ることができた事例にすぎない。地域は、事故による莫大な放射能の放出と、日常の労働の現場での被曝とに、二重にさらされているかのようだ。
私たちのインタビューには、白血病の発症件数を体系的に調べようという意図はまったくなかったのだが、白血病の診断事例は極めて多いように思われた。スリーマイル島の西一二キロ以内のニューべリー郡区とゴールズポロの人口約一万一千人の地区に、事故後から一九八三年の三月までに、たまたま知ったものに限って少なくとも一〇例の白血病の診断があった。それとはまた別に、スリーマイル島の北西約九キロの人口約二千人の住宅地ショープス・ガーデンでは、十代の女の子三人が白血病の診断をうけていた。詳細な疫学的調査が行なわれるべき状況なのだが、一九八三年のはじめには、まったく問題にもされていないかのように思えた。メアリー・オズボーンたち住民の訴えには、こういった背景もある。
私たちは、「科学」の名をかりた計算ゲームのような被害評価、「この事故による放射線量からは、住民への健康被害はほとんど無いに等しい」という宣伝にではなく、くりかえしくりかえし、事故当時の住民の体験へと、もどらなければならないだろう。
本についていた帯の文章
──少し前に、私は、ふつうの母親や父親が、原子力に関する“専門家”になる必要はないと気がつきました。本当に必要なのは「人間として持たなければならない、あたりまえの常識」だけであり、まさしくそれは原子力を推進している人たちに欠けていることです。
現地の主婦メアリー
──奥付
- 発行日
- 1988年11月15日 初版第一刷発行
- 編者
- 弘中奈都子、小椋美恵子
- 発行者
- 森芙美子
- 発行所
- 株式会社 阿吽社
- 印刷
- 中村印刷(株)
- 製本
- 吉田三誠堂
- 定価
- 1,200円
- ISBN
- 0030-112004-0256