「ことば」を考える
おはようございます。
90分しか時間がないんですよね。できるだけ考えていたことは吐き出したいと思っておりますが、場合によったら、途中で尻切れトンボになるかもしれません。
今日お配りをしたもののなかに、すでに配ってある資料にくわえて資料的なものがふたつほど入っていると思います。ちょっとそれを確認しましょう。ひとつは「平成十四年度『国語に関する世論調査』の結果について」というものです。これをまず確認してください。それからグラフがありますね。左上に「千石保『日本の高校生──国際比較でみる』(NHKブックス)より」と書いてあります。それから「ことばを考える──レジュメ」と書いてあるものがありますか。今日は一応このレジュメに沿って話をするつもりでいます。それからもうひとつ「ことばを考える──メモ」っていうのがありますか。このメモはあとで使います。それから、みなさんが事前に受け取っている資料というのがありますね。資料も一応ひっぱり出してみてください。それ以外には、みなさんが自分でノートを用意していれば、ノートをお出しください。
それでは、はじめましょう。今日の話はものすごくいやな話というか、日本の社会はこんなに恐ろしいのかということを言うことになると思います。それはじつはぼくの偏見かもしれないんですね。偏見でないといいと思うんですが……。わたしはこれが偏見ではなくて、本当に恐ろしい日本の社会の姿であるという確信を持っています。しかし、みなさんは「それは偏見だ。大丈夫だ。安心してくれ」というふうに言ってほしいと思っています。
「わたしたち」「おれたち」と「社会」
「わたしたちの社会……」と話されることがないこと
「わたしたち」ということばをみなさんは使います。それから「社会」ということばがありますね。しかし、この「社会」という言葉をみなさんがどういうときに使うかということを考えると、あきらかに「わたしたち」とか「おれたち」「自分たち」ということと、「社会」とのあいだには乖離──離れている、あるいは関係がない、結びつかないということ──があると、わたしの偏見は申しております。ぼくの顔見ていてもだめだよ。「そうかな?」って考えるんだよ。
「わたしたちの社会」っていう言いかたは、もう、そもそもしない。それはいろんなところにあらわれているわけですが、建前的には選挙をして国会議員を選んで、つまり国家社会を形成するために政治に参加するということが、決められている。だけど選挙には行かない、関係ないんです。というようなことにも、もちろんこの「わたしたち」と「社会」との関係はあらわれていると思います。
実際に自分たちがことばを使うときにも、非常にはっきりと反映をされているでしょう。レジュメに「あきらめ以前?」というふうに書かれていますが、あきらめているわけでもない。「社会」というものをつくったり、そこに参加するということを、ほんとうはしたいんだけれども、でもできないからあきらめているという状況でもなくて、そもそも最初から関係ないのかな、ということを、そのレジュメにメモしたわけですね。
そういうぼくたちあるいはみなさんの気分をあらわしていることばは、「めんどくさい」とか「関係ない」。それからもうひとつ、「人それぞれ」。これは強烈なことばですね。すぐ言うんですよ。これはなにも大きな社会について話しをしているときでなくても、ごく少人数でこれからどうしようかとか、いろいろな方針を考えようというときに、「人それぞれだから……」という話がでて、はい、それでおしまい、それ以上はなにも進行しないということがよくあるというふうに、ぼくは感じています。これはもう絶望的な社会だとわたしは思っております。
ところが、そうは問屋が卸さない。レジュメのその下に書いてあるところをみると、「仲間意識」とか「競争意識」とか書いてあるでしょう。これはいわば、それでもわたしたちは生きていて、こんな楽しいことがあるし、「おれはかっこいいんだ」「わたしはかっこいいのよ」ということを言うためには、「いけてる」とか「ださい」とかいうようなことばを頼りにして、じつは社会生活をしている。その社会生活の中身はなにか。あんまり言わないでおこうと思いますけれども、そこで強く働いているのはやっぱり仲間がいないとやっていけないということですね。その仲間はどういう仲間か。その仲間は「いけてる」とか「ださい」とかいうようなことばが頻発するような仲間。これで仲間を形成する。そういう感じになっているんじゃないか。
当然ながらそこには、競争意識──というのかな。最近はこれを差別化とか言います。なにを言ってんだと思いますけどね。要するに人と差をつけることです──が生まれます。人と差をつける、その差のつけかたが非常に難しくて、本気になって差をつけちゃうと仲間はずれになりますから、それは困る。そのへんは「人それぞれ」とか言ってごまかすんでしょうけども。そういう「仲間」のみなさんがしゃべることをよく聞いていると、けっきょくのところこの人たちは流行についてのおしゃべりをしているとか、だれが有名かというおしゃべりをしている。これがまたおもしろくないですね、だれが有名かって。有名なやつはいっぱいいていいと思うんだけど、きわめて限られている。そういう感じがします。
レジュメのその下に矢印が「←→」となっているのは、それと対置する、反対側に置くことができるような見方ですね。「社会」というのは、ぼくは「わたしたちの社会」でなければ、「社会」ということばは意味ないよと思っています。そういう「社会」はどういう社会かと言えば、これまで変わりながらつづいてきた社会。これは歴史というものをもっているということですね。それから未来もある。変えることもできる。だれが変えるのか。「わたしたち」が変える。そういう「社会」を考えたい。
ところが、これはみなさんの責任というよりは、たぶんぼくらの世代の責任で、歴史がなくなっちゃった。それから社会を本気になって変えようなんて、だれも考えられなくなっちゃった、ということじゃないかなと思っています。
しかし、そういう「社会」を考えるためのことばの使いかたをどうしてもつくりだして、維持をしていかないといけないというふうに思っています。「そんなことはわたしには関係ない」と思っている人も当然いるでしょう。
「日本」「日本語」「日本人」という意識
「最近、日本語が乱れています」ということがさかんに言われています。こういう言いかたをすると、最近言われるようになっただけで、昔はそんなこと言われなかったのかなと、みなさんお思いになるでしょうけれども、そんなことはない。昔から言われてた。「日本語は乱れている。こんなことでは困る」という考えは、昔からありました。ぼくが生まれる前からありました。
ところが、最近言われているこのことばの問題──ことばに問題があるよ、「日本語」が乱れているよということ──にはいままでとはまったくちがう意味があるように、わたしは思っております。
ちょっと振り返ってみたいんですが、なぜか「『日本語』が乱れている」というふうにやっぱり言うんですね。「日本語」というところに強調がおかれます。レジュメには「日本」「日本語」「日本人」というふうに書きましたが、どうしてもこういう括りで、意識をして、ものごとを考えようとしてきたようです。ところが、いま「日本語が乱れている」というふうに、あるいは「日本はどうなってしまうのか」「日本はこれじゃだめじゃないか」というようなことが言われるわけですけれども、現在言われている「日本語」「日本人」の問題と、例えば明治の時代に言われていた「日本語」「日本人」の問題はどうもちがうんじゃないか。このちがいはほんとうにおそろしいちがいなんじゃないか、ということが言いたいことであります。
ドイツの森鴎外、イギリスの夏目漱石
森鴎外っていう人の名前を聞いたことがあるよね。夏目漱石はもちろん知ってるよね。千円札に出てるもんね。この人たちは留学した人だよね。留学というのは、みなさんが少しは関心があるかもしれない「異文化体験」というものですね。これをこのふたりはするわけですが、ふたりともほとんど日本の政府が留学させたと言ってもおかしくない。官費で留学するわけですね。もともとこの人たちには高い能力があって、こいつらをヨーロッパに送って、ヨーロッパからいろいろなものを勉強させようというそういう計画があったと思います。
そのなかでこのふたりはヨーロッパに行くわけですが、ふたりともやっぱりたいへん悩むんですね。そこから日本に帰ってきて彼らがしたことは、みなさんもうすうすわかっていると思いますが、日本語で小説を書く。その小説の文体はいままでになかった。あたらしい日本語の世界をきりひらくんですね。それぞれちがう流儀ではありましたけれども、そういうことをした。もう二〇分も経ってしまったので簡単にしか言いませんけれども、これは「異文化体験」をして、そこでたいへん悩んで、それをくぐりぬけて新しい「日本語」を創りだすということをした人だというふうにとらえておくといいと思います。
この人たちは非常にはっきりと「日本」という意識をもっていた。「わたしたちの社会」「わたしたちの日本文化」という意識をもっていたと思います。「わたしたちの日本文化」とか「わたしたちの社会」ということばを使うのは、それをとにかく「いいもの」「すぐれたもの」というふうに、ただ肯定をするために使っているわけではない。問題を抱えているけれども、それが「わたしたちの社会」だというふうに考えていたと思います。
そのことをあらわしているひとつの文章をレジュメに抜き出しておきました。これはじつは夏目漱石がおこなった「現代日本の開化」という講演です。「開化」というのは「文明開化」ということばを聞いたことがあると思いますが、どうしたら日本はもっとひらけていくんだろうかという課題を抱えているということを、夏目漱石がしゃべっているんですね。
……わたしの解剖した事が本当の所だとすれば我々は日本の将来というものに就いてどうしても悲観したくなるのであります。
じつはこの抜き出した話の前の部分で、日本はもうだめであるというのにかなり近いようなことを夏目漱石はしゃべっておりました。つまりあまりに急激な近代化というのが、結局は中身をなくしてしまったということをしゃべっていたわけですが、その講演の終わりの部分でこんなことをしゃべっていました。
……外国人に対して乃公の国には富士山があると云うような馬鹿は今日は余り云わない様だが、戦争以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。
この「戦争」というのは日露戦争のことです。自分の国は自慢をしたいですよね。あるいは「わたしたち」っていうものを自慢したい。その自慢になにを使うか。「日本には富士山っていうものがあるんだ。すごいんだ」とか言って、富士山を使って自慢をする。たしかに富士山を見たら、やっぱり富士山ってすごいんだって思いますよね。だけど、そのこととたまたまそこに生まれてそこに暮らしているわれわれがどんなにすばらしいかということと、どういう関係があるんでしょう。しかしいまでも、どうもこの富士山というのは使いますね。日本はすばらしい国だということを言いたくなる場面がときどきでてきます。じゃあ、なにを自慢するかと言ったら、もう富士山くらいしか言うことないんですよ。そういうことが、じつは明治の時代にもあった。それを夏目漱石は「この馬鹿者どもが……」って言ってみていたわけですね。
ところが、「じゃあ、夏目さん、あなたはなにか解決するための名案があるんですか」と聞かれちゃったら、「名案はありません」というのが、この講演の結論です。名案はないと言っているけれども、しかし非常にはっきりと「これはわたしたちの社会、わたしたちの文化だ」という意識を彼はもっている。「しかし、うまくいかない」というふうにしゃべっているんだね。
さあ、そこでみなさんのなかにはそれをしたいしたいと言っている人がたくさんいるわけですが、「異文化体験」をするとしましょう。それでどうなるかということなんですが、じつは異文化体験をしても、たいていの人は帰ってこないといけないんです。なかには「異文化体験」なんて最初は気軽に思っていたけど、そこにはまってしまってそこに骨を埋めちゃう、そういう人もいます。しかし、多くの人は帰ってこなきゃいけない。それでそもそもなぜ「異文化体験、異文化体験」ってみんな言うんだろうって考えてみたら、自分の住んでいるこの社会、この文化がつまんないんだよ。もっとすばらしいところがあるにちがいない、そういうところへ行ってみたいと思っているんだよね。
みなさんは高校なんてもう三年ちかく通ったわけですが、そこがなかなか自分がいていいところ、そこにいれば自分が発揮されるところ、そういう場所にならなかった。なかには、「いやそんなことない。高校はすばらしいところだ」という人がいると思います。いてくれたほうがいい。けれども、全体として考えてみると、日本の社会のなかにみなさんの居場所がいままであっただろうか。おそろしいですね。そこから「異文化体験」をするところへ仮に行ったとしても、ろくなことにならないんです。レジュメではその下にいろいろ書いてありますが、もう時間がないからこれは省略します。
「日本語」の危機?
「日本語が乱れている」ということがさかんに言われるわけですが、これはすでにみなさんが読んでいる資料のなかに、読売新聞の日本語企画班というところがつくった本がありましたね。『新日本語の現場』(中公新書ラクレ 二〇〇三年)というこんな新書です。しかし、そこにどうしてことばが問題なのか、日本語が問題なのかということが書かれていますね。問題意識が書かれていますね。
みなさんこの本読んだ? そうしたら日本語が乱れているというか、要するに正しい使われかたをしていないということについて怒りをもっている人たちがいると書いてあったよね。怒りをもっている人たちというのは誰だろう。それは、たとえば中尾ハジメかもしれない。ちょっとちがうんだけどね(笑い)。つまり、おおむね若い人たち──というのは、みなさんですよ──は、日本語が乱れているなんて問題意識をもっていない。なかには、年寄りに迎合しようと思って「やっぱり乱れています」とかいう人はいるかもしれないけど、多くの若い人は日本語に問題があるなんて思っていないですよ。国語のテストは嫌だけれども、日本語に問題があるとは思っていない。そういう状況だというふうに思います。
「日本語ブーム」──危機感──何の危機?
戦争直後の「日本語」の危機──負けた国のことば──「日本語」
レジュメの一ページの最後のところですが、レジュメに書いていないことをこれから言います。日本語が問題にされたのはさっきも言ったように、昔から問題にされていたんだね。そのうちのひとつの非常に大きな危機の時期、日本語にとって──「日本語にとって」というのは変だと思うかもしれませんが、「日本語」というのはあるんだよね──危機の時代というのがあった。
そして非常にはっきりそれがあらわれ議論をされたのは、第二次世界大戦が終わって、日本という国が負けた……。負けた国がそれまで使っていた言葉は、これは大問題です。なぜ負けたのか。負けるにしてもこんなにひどい負けかたをしなくてもよかったんじゃないか。なんでこんなにたくさんの人間を犠牲にして、もちろん自分の国の人間も死んだ。中国でも山ほど殺した。どうしてか。
それは、ことばを信じて、いろいろ使っていたんだね。たとえばね、「八紘一宇(はっこういちう)」ということばがあります。時間がなくなるから、こんなことは白板に書いたりしません。「大東亜共栄圏」ということばは知っているよね。「八紘一宇」というのは、そのことばに非常にちかいことばです。意味わからなくても「八紘一宇」ってかっこいいでしょう。これを信じてやるしかないと、みんな思うんですよ。山ほどこんなことばがあります。戦争の終りのほうになってくると、ひどいことばがたくさんあるんだよ。「大和魂」は最初から言っていたかな。たとえば「神風」。みんななんだかきょとんとして聞いているけど、「神風」のために山ほどの人が命を懸けたんですよ。みんなで「神風、神風」って言って、特攻隊はどんどん自爆テロで死んでいったわけです。
そうすると、そういうことばを使っていたからこのくだらない戦争をしてしまったし、そういうことばを使っていたから、こういうとんでもない負けかたをしたというふうに多くの人が思ったことはまちがいないです。そういうことばでないことばを、新しい日本という社会がもつようにしなければならない、というふうに考えた人も山ほどいたと思います。なかには「日本語はやめてしまおう。すべて英語にしよう」という人もいたくらいです。いろんなことがありました。それが日本にとってはこの前の戦争の直後、その時代のことばについて日本人が議論をした、そのときの主要なテーマだったと思います。
六〇年代後半──七〇年代前半の「日本」「日本語」ブーム
さて、その次はどういう時代かというと、しばらくは一所懸命なんですね。何に一所懸命になったかというと、いつまでも戦争に負けたままの状態ではおれませんから、ひとことで言えば、経済社会を再建するために死に物狂いで日本人は働きます。ようやく一九六〇年、この年には池田勇人(いけだ・はやと)という人が総理大臣になって、彼は総理大臣になるために、ある種の公約というか、わたしはこういうことを目指しますということを言いました。彼の公約は「所得倍増」です。「所得倍増」というスローガンを掲げるんですね。これはいま言うところの「消費社会」──「消費社会」ということばがいま盛んに使われています──を本格的に始めようという宣言だったんですね。
一九六四年には東京オリンピックがありました。オリンピックなんて、みなさんは屁とも思わないかもしれませんけど、オリンピックをひとつの社会が成し遂げる──さまざまな国からの選手団を受け入れて、そういう競技会を各所で行い、観客を集める、世界からいろいろな人が見に来る──というのは、もうすごい大事業なんです。それを一九六四年にすることができた。そういう時代でした。
これで少し自信を取り戻した日本はなにをしたか。ことばに焦点があたったんですね。さっそく「日本語は乱れている。この乱れをなんとかしなければならない」というふうにのたまった政治家がいます。みなさんが資料で読んでくれた秋山基夫という人の「ニホン語は乱れているのがそれでいいのだ美しいのだという題にしておくか」という詩があったよね。それは、そのころの「日本語」をめぐる議論をひとつの素材にして書かれた詩です。おもしろかったかい? おもしろいな、と思った人いる? (手がちらほらあがったのを見て)はい、はい。なんだかわからなかった人? (こちらも手がちらほら挙がったのをみて)ありがとう、ありがとう。わかんないよね。基本的にこの詩は(読みすすめていくと)岡山弁になっていくんだよね。よく読んでみるとわかると思います。
「日本語」というふうに言われているけれども、どうして政府が日本語はこういうふうにあるべきだということを決めることができるだろうか。できるわけないだろう。そもそも自然言語なんで、そのルールさえも使っている人たちがつくりだしている。だいたい昔から変わってきたじゃないか。これからも変わるだろう。それを法律のごとく決めることなんかできるわけない。それが秋山基夫の基本的なトーンだったと思います。
「ニホン」「ニッポン」/逆コース、右旋回
レジュメの二ページ目を見てください。そのころはじつは日本という社会が誇りをもつべき時代に入った、というふうに考えられていたんですね。馬鹿馬鹿しい話ですが、「ニホンという情けない言いかたはやめなさい。ニッポンと言いなさい」というようなことが言われたんです。たとえば、「逆コース」ということばがありましたけど、あれだけとんでもない戦争の経験をして、もう戦争はしないというふうに考えたんじゃないだろうか。もう戦争はしないような社会のしくみ、つまり「民主主義」というふうに言われていましたが、そういうものをつくろうとしたはずじゃなかったのか。あの日本国憲法をみたら「戦争を放棄する」と書いてありますよね。「放棄する」んですよ。(戦争を)しないんじゃなくて、「放棄する」というふうに書いてある。それが、まったく反対方向に向かってもう一回進み始めているんじゃないかというのを「逆コース」ということばで言ったんです。それからあるいは「右旋回」ということばがありました。そんなことが議論をされた時代です。
石原慎太郎というおそるべき人物がおりますが、政治家のなかで人気投票するとトップなんですね。東京都知事選で、彼は七割得票しちゃったんですよ。七割ってすごいでしょう。木村拓哉よりすごいよね。じつはちゃんと計算すると、さっきの投票をした人は有権者の四割くらいです。
有権者の四割の七割が投票したんですから、どれくらいになる? 〇・四? 〇・七はいくつですか?
参加者: 〇・二八
だから有権者の三割弱だよね。なんじゃこれは、と思いますね。
話は横道にそれましたが、この石原慎太郎という人は一九六〇年くらいからもうすでにいろいろ活躍をしていました。この人はことばを操って小説なんか書いていたんだね。いまでも書いていますが。なかなかおもしろい小説ではありました。その人が大ベストセラーを書いた。カッパブックスという(本を参加者に見せながら)こんな本です。カッパブックスは、いまでも出版されていますね。そこに彼は『スパルタ教育──強い子どもに育てる本』(光文社 一九六九年)っていうのを書いた。これがバカ売れに売れてね。すごかった。あんまり売れたんで、つづいて『魂を植える教育──高く豊かな心を育む本』(光文社 一九七一年)というのをまた書いた。これもものすごく売れました。中身はなにかっていうと、要するに「日本のお父さんが情けない。だめだ。息子は叩かなきゃいけない」ということを書いた。こういうのを「家父長主義」と言います。それから家父長主義だけじゃなくて、強烈な権威主義です。
さあ、そのとき同時に売れた本が、レジュメにも書いてありますが、『冠婚葬祭入門──いざというとき恥をかかないために』(光文社 一九七〇年)というのが、これも大変なベストセラーだったんですね。冠婚葬祭というのは、要するに結婚式だとかお葬式ですね。そうというときに、どういうふうにしたら恥ずかしくなくできるかというノウ・ハウが書かれている。こういうのを因襲主義と言いますが、昔の古い土着的な伝統を守っているわけではありません。そういうものとは関係ない。新しくできた因襲主義です。
ぼくはこのふたつに代表されるものが、日本社会にあたえたダメージというのは大変なものだったろうなと思っています。ところが石原慎太郎が一所懸命お父さんの権威・権力を回復すべきだ主張したにもかかわらず、日本のお父さんの権威・権力はその後ますます低下して、いまや限りなくゼロに近い、というのも困ったことであります。横道にそれているようですが、じつはそれていないんです。ですが、あんまりこれをしつこくやるわけにいかないので、そのつぎに進みましょう。
その後、今度は「日本人論」というのがはやるんですね。それはどんなかんじだったかというと、なんで日本はこんなふうに経済的に成功することができたのか。その秘密はなにか、というのがひとつありました。それでちょっとつぎへとびます。
いまどきの危機──危機感──何の危機?
さあ、いよいよ今日の本題に近づいてきました。さっきの読売新聞新日本語企画班がやっているような、日本語はこんな問題をいま抱えているという問題意識があります。そこで槍玉に挙がっているのは、いままでの日本語の意味をまったくちがう意味にして若い人たちが使うようになっているということ。たとえば「確信犯」ということばはどういうときに使うか。「流れに棹さす」はどういうときに使うか。それから「役不足」はどうか。こういうのがいっぱいありましたね。それをみなさんまったく逆の意味で使っている、けしからん、というのがひとつ。これはあたりまえのことですが、これがもしけしからんことであるとすると、そのけしからんことをしているのは当然ながら年齢の低い人たち、若者だよね。じつはぼくもいまから三十年前、四十年前は若者って呼ばれる年代でありました。そのときも、「まちがった使いかたをしてる。役不足っていうのはそういう意味じゃないだろう。正しい使いかたじゃない」とか言われると、「なるほど、なるほど」と思って、それでぼくはまたまちがった使いかたをしている人たちをみつけて、「おまえ、その使いかたはまちがっているんだぞ」とか言って、差別化をはかったりしておりました。
「若者ことば」が「日本語」の危機?
しかし、最近のことばの問題というのはもっと強烈です。もっと強烈に「若者ことば」というものが問題にされています。
「若者ことば」ってなんだろう。(「若者ことば」というのが)ある、と言うんですね。それで『新日本語の現場』の目次のところをみると、「気になる若者言葉」と書いてあるでしょう。それと、もうひとつは「カタカナ語」と書いてあるでしょう。この「カタカナ語」のほうは、必ずしもいわゆる若者世代に責任があるというふうにはとらえられていません。このふたつが日本語を乱れた姿にしている主犯格だというふうになっているんですね。
さあ、「若者」というのはどういう人たちだろう。今日はもうばっちりだよね。「若者」というのはみなさんのことだよね。ぼくは若者ではありません。みなさんが若者です。若者というのは、たしかに「若者ことば」と呼ばれておかしくないようなことばを使っています。若者が使っていることばはすべてが「若者ことば」という意味ではない。だけれども、みなさんがあきらかに、世代のことばとして使っていることばがあります。それから、(世代のことばとしての)使いかたがあります。そういうものを指して「若者ことば」と言っているんだよね。それが日本語を乱している、という主張が世の中にあります。
今日お渡しした資料があると思います。下のほうをみてください。「1 言葉の乱れについての意識」というのがあります。これは意識調査ですからね。そうすると、言葉が乱れていると思う人は、「非常に乱れていると思う」と「ある程度乱れていると思う」と答えた人を合わせて、平成十四年度は八〇・四%です。平成十一年度は八五・八%ですから、乱れていると思う人が少し減ったんじゃないかと思うでしょう。こうなった理由は簡単です。一年前の若い人がそのままひとつ繰り上がった。その人たちは乱れてないと思っているんですから(笑い)、この理屈をずーっとつづけていくと、「全然乱れていると思わないよ」という時代が、あと二十年くらいしたら来るかな。来ないかな。
乱れている | 乱れていない | わからない | |||
---|---|---|---|---|---|
非常に乱れて いると思う |
ある程度乱れて いると思う |
余り乱れて いないと思う |
全く乱れて いないと思う |
||
平成14年度 | 80.4 | 17.0 | 2.5 | ||
24.4 | 56.0 | 15.8 | 1.2 | ||
平成11年度 | 85.8 | 10.3 | 3.8 | ||
32.7 | 53.2 | 9.6 | 0.7 |
さあ、資料の裏面をみてください。十六歳から十九歳、二十から二十九歳、三十から三十九歳とあって、一番上は六十歳以上となっている表がありますね。六十歳以上となるともうひとまとめですね。こんなことでいいのかと思うけれども、ひとまとめになってる。十六歳から十九歳というのは四年間の幅しかないじゃないと思うけど、そういうふうになっています。あとは十年おきだもんね。よくみると、すぐ一目瞭然わかると思いますが、(現在使われていることばが)非常に乱れていると思うと答えているのは、十六歳から十九歳では少ないですね。こういうふうになっております。
非常に乱れて いると思う |
ある程度乱れて いると思う |
余り乱れて いないと思う |
全く乱れて いないと思う |
|
---|---|---|---|---|
男性 16〜19歳 |
3.6 | 70.9 | 23.6 | 0.0 |
20〜29 | 14.2 | 50.4 | 32.7 | 0.9 |
30〜39 | 14.3 | 64.3 | 19.3 | 1.4 |
40〜49 | 24.7 | 62.0 | 13.3 | 0.0 |
50〜59 | 28.5 | 53.3 | 13.1 | 2.3 |
60歳以上 | 29.6 | 46.9 | 18.2 | 2.2 |
女性 16〜19歳 |
17.5 | 57.9 | 17.5 | 1.8 |
20〜29 | 10.5 | 10.5 | 14.0 | 1.8 |
30〜39 | 18.7 | 68.7 | 10.6 | 1.0 |
40〜49 | 25.3 | 64.7 | 10.0 | 0.0 |
50〜59 | 34.7 | 48.0 | 13.3 | 0.8 |
60歳以上 | 28.3 | 48.4 | 16.4 | 1.2 |
その下の読書量の結果もなかなかおもしろいんですがとばしまして、三ページ目、これも同じ世論調査の結果のつづきですけれども、「日本人の国語力についての課題」という質問で、世の中の人たちはなにが課題だと考えているかを調べている。そのなかの「これからの時代に必要な言葉の知識・能力」という質問で、いくつか回答があがっているんですね。まず「漢字や仮名遣い等の文字や表記の知識」、あといくつか項目があって、一番下が「説明したり発表したりする能力」となっています。いま、ぼくがみなさんの前でやっているのはこの課題だよね。説明したり発表したりする能力についての自分の評価はきわめて低い、なんでおれはうまいこと伝えられないんだろうといつも思っていますが……。
そういうことを調べたんですが、面白いのはその下のグラフで、この結果を年齢別に分解してみたんですね。取りあげたのは、「敬語等の知識」がこれから必要だと思っている人はどれくらいいるか。点線で示された折線をみると、十六歳から十九歳では二七%を超える二八%にちかい人たちが敬語などの知識が必要だと思っている。これはみなさんだよ。みなさんは「敬語等の知識」が必要だと答えなければいけない。少なくともみなさんのうちの三人にひとりはそういうふうに答えるはずだというのが、この数字の意味です。もうひとつの実線で示された折線はなにをあらわしているか。「言葉で人間関係を形成しようとする意欲」が必要だと答えている人の割合です。おもしろいよね。知識や能力についてどう思うかということを尋ねている質問に、「意欲」というのが紛れ込んでいるわけですね。十六歳から十九歳では、この意欲が必要と答えた人は五%をちょっと超えるくらいしかいなかった。
さあ、その裏の資料をみてください。「言葉の使い方──気になるかどうか」という質問です。これは「こんな言葉遣いは変だよ、おかしいよ」ということですね。なかには「まちがっている」という人もいます。ここに挙がっている例はふたつだけですが、ほかにもたくさん例はあるんですよ。ここに挙がっているふたつの例、ひとつは「お会計のほう、一万円になります」という言葉の使い方が、気になる人、気にならない人の割合が出ています。当然のことながら、十六歳から十九歳では気にならない人が六〇%を超えています。それからふたつめの例は「千円からお預かりします」という言葉の使い方で、十六歳から十九歳では気にならない人が七〇%を超えています。こんなもの気にならないという人に、気にしなきゃだめだよと言ってもどうにもならないですよね。
ただね、これからが問題なんだよ。いままでしゃべったことは、ことばが乱れているよということ、ことばのどこが問題だと日本の多くの人たちがどうとらえているかということを一応みたわけですね。もちろん「国語に関する世論調査」のなかには、これが正しい使いかたということを示すような部分もあるんですが、基本的にはみなさんはどう思っているかを訊くだけで、そう思ったらいけませんよとかいうことは言っておりません。問題なのは調査が問題なんじゃないんですね。やっぱりなにか言う人たちがいるんですよ。「けしからん」と言う人たちがいる。これが問題なんです。
さあ、レジュメに戻ってください。結論を言ってしまいましょう。わたしはね、日本語は乱れてもかまわない。だけど社会が崩壊するのは困る。そして、とりわけ若い世代が崩壊するのは困る。困ったことに、もう崩壊し始めているというふうに、わたしはとらえています。なぜか。今日お配りしたもうひとつの資料にグラフが載っているでしょう。これは千石保さんという、もう七十五、六歳のおじいさんの書いた『日本の高校生──国際比較でみる』(日本放送出版協会 一九九八年)というたいへん地味なタイトルのNHKブックスからつくった資料です。ただこの本には、「理念なき社会」というようなことが書かれた帯がついておりました。
彼はじつはアメリカ、中国、日本の高校生について、たいへんたくさんの人に──サンプルと言ったり、あるいは被験者と言ったりしますけれども──質問票をつくって、それをチェックしてもらって、事例を集めています。ものすごいたくさんの数の人たちを対象にして調査をしました。その結果、まず一ページ目の一番左「わたしは積極的な人間である」に日本の高校生、アメリカの高校生はそれぞれどう答えているかということをグラフにしたものです。この質問はみなさん自分でも考えてみてください。「わたしは積極的な人間だ」というのに、「とてもよくあてはまる」「あてはまる」「あてはまらない」「全然あてはまらない」「なんともいえない」のどれか。「よくあてはまる」と答えた人は、アメリカの高校生では三六%ぐらいかな。日本の高校生は一〇%にいかない。これは、崩壊しているんです、こういう結果が出るのは。さらに右のほうに目をずらしていくとよくわかるんですが、ひとつ決定的に効いている項目──「なんともいえない」──があります。(日本の高校生はこう答えている人が)多いんだよ。ほかの質問のところもみてごらん。「わたしは他の人々に劣らず価値のある人間である」という質問、「なんともいえない」と答えているのは四二・六%。
馬鹿か! と思うよね(笑い)。どうする? あとほかの項目もみてごらん。ほんとに泣けてくる。泣けちゃいますよ。それで、若い世代のことばっていうのは、こういう世代のことばなんですよ。ことばをことばとして、これはおかしいとか、正しいのはこっちだとか、いやこうすべきだとか、そんなことをときどき政府だとか新聞社が言ったってなんにもなんない。ねえ。それよりこっちをみてくれよ。そういうことばを使っているというふうに、けしからんと言われている人たちが、自分たちをどうとらえているのか。なんでこんなふうにしてしまったの? こんなふうにしたのは、あえて言えば大人の世代ですよ。おれの世代だよ。あえて言えばね。だけど、みなさんはこれに満足するか? 「わたしは積極的な人間でない」──そんなことに満足するか。
さあ、いよいよ本題の本題にだんだんちかづいてきたね。若者っていうのは、ものすごい勢いで自分たちのおかれている状況が変わってきている。昔からいっしょじゃないんです。変わったんです。ぼくが若者だったときには、大学に行く人は十八歳人口の二〇%にならなかった。みなさんのいまのこの時代は五〇%ちかくは大学に行くんです。「なんで行くんですか?」と、ひとりひとり聞かれたら困るよね。これは困るようにできているんです。ひとりひとりにきくべきような質問じゃないんです。社会の構造というのがあるんだよね。社会の構造がむしろ決めてるんです。
そのことから簡単に自分たちが逃げることができる、というふうに考えるのは馬鹿げてる。できっこない。産業社会が変わってしまった。ぼくらのときには、中学校を出たら金の卵でしたよ。働く場が山ほどあった。製造業が待ちかまえてた。いまやもうそんなものないんです。かつては高校生のアルバイトは新聞配達がナンバー・ワンですよ。夏休みなったら、やっぱり工場に行って働いた。いまはそんなものないんです。親父の世代もリストラされるでしょう。親父の世代をリストラして、若い人たちを職場に迎えいれるなんて馬鹿なことはしない。
これから起こることはなにか。これから起こることは、若年者の失業率のさらに急激な上昇ですよ。もう何年も前からこう言っているんだけどね。だれも相手にしない。
プータローじゃなくて、なんだっけ? アルバイトばっかりして生きている人なんて言うの?
参加者: フリーター
なにが「フリーターはけしからん。勤労意欲がない」だ! 冗談じゃないよ! 働く場所ないじゃないか! ないんですよ。そこにちょっと昨年の数字──「十五歳から二十四歳の『若者の失業率』(一〇%)」──を書き入れておきました。国全体では五%くらいです。これから若い人たち、要するにみなさんの失業率はアップします。上がります。どこに身をおいたらいいんですか。ないんです。大学はがんばって、そういうみなさんのために居場所を提供しなきゃいけないんです。そういうことになっているんだよね。困ったね。だから、これはことばが危機なんじゃなくて、危機に直面しているのはみなさん自身なんです。なんかちょっとわかりにくかったかな。
「記号」あるいは「情報としてのことば」ではなく「行為としてのことば」/「思想としてのことば」を考える
「行為」は、「世界」に「はたらきかける」こと──相手、関係、介入
さあ、その次に行ってみよう。レジュメの「2 『行為としてのことば』/『思想としてのことば』を考える」というところがありますね。これはあんまり深入りをしません。このテーマにはあまり深入りをしませんが、「ことば」というのはそもそもどういうものであるか。「ことば」が「記号」であるということを否定するつもりは、ぼくは全然ありません。「ことば」は「記号」です。まちがいない。だけども「記号」としてだけとらえるということには、とんでもないまちがいがあると思っています。なぜか。「ことば」は、わかりやすく言ったら、内実をともなわなければ、なんの意味も値打ちもない、と思うから。
じゃあ、内実とはなにか。これはむずかしいですね。いろんな内実がありますね。「ことば」なんていうものは、そもそも別な「ことば」に置きかえることができるし、それ以上のものではない。端的に言えば、日本語を英語に置きかえることができるじゃないですか。英語を日本語に置きかえることができるじゃないですか。しかも、単語を単語と置きかえることができるだけじゃなくて、文章、文法さえも置きかえることができる。すごいんですよ。だけども、なにを言いたいか、なにを考えているかということを抜かして、置きかえることができるということだけに焦点を合わせてしまうと、ろくなことにはなりません、ということをレジュメに書きました。わかりやすいかもしれない、わかりにくいかもしれない例をちょっと言ってみましょう。
「なぜ」←→「なぜ」の欠如/「ノウ・ハウ」だけの世界
ちょっと太い字で「なぜ」と書いてありますね。それから「←→」の矢印の右のほうに「『なぜ』の欠如/『ノウ・ハウ』だけの世界」と書いてあるでしょう。「なぜ」という問いを発して、そのことに答えようとすることと、ノウ・ハウだけの世界は別だというふうに考えられると思うんですね。これは時代によって、いろいろぶれることがある。いまは「なぜ」がはやっています。どこではやっているかというと、大学のようなところではやっているんですよ。ぼくらの時代には「『なぜ』なんて馬鹿な問いをするな。『いかに』だろう」というふうに言われていました。なんのことだかわからないよね。その次に行こう。
「なぜ大学へ行くのか」←→「ノウ・ハウ」的に存在してしまう「動機」
一番下に「なぜ大学へ行くのか」書いてあって、「←→」を挟んで「『ノウ・ハウ』的に存在してしまう『動機』」っていうなんか変なことが書いてあるよね。「ノウ・ハウ」っていうのはこういうもんなんです。「なぜ」とか、「ほんとうにどうしておれはこんなことしたいんだろう」「なぜおれは死にたくないんだろう」「なぜおれは生きたいんだろう」、こんな問いに答えるのはむずかしいよね。ものすごくむずかしい。だけど「なぜ」という問いはそこに向かってしまう。そういうところがあります。「そんなことを考えてたら、おまえは生きられない」というふうに、ぼくらの時代には言われました。ぼくらの時代に言われたことは、「『ノウ・ハウ』っていうのがあるんだ」と。「それをこなしていったら、答えることができる」と言われつづけた。言われつづけて何年たったかな。もう四十年くらいたったかな、ぼくは(笑い)。いま言われているような、すべてなにかすでにできあがったシステムがあって、そのなかで適当に「ノウ・ハウ」を知っていれば世の中を生きられるという感じは、じつはぼくの実感からすると、最近できたものではないです。ぼくらの世代が四十年かけて、そういうふう(「ノウ・ハウ」を知っていれば生きられるというふう)に自分自身なってきた。そういう社会です。
そこではどうなるか。レジュメの下に例が書いてあります。「志望理由書」っていうのは、どういうものか。これは理由をきくわけだよね。「なぜあなたは大学で勉強しようと思うのか」「なぜ京都精華大学を選んだのか」書きなさい、と言われるんですよ。そうするとどうなるか。みなさんのやりかたは、ぼくらが身につけた「ノウ・ハウ」の世界を極限まで推し進めて、こういうふうになっちゃう。それらしい科目名などの語、ことばを取りだして、「貴校」とか「御校」とかいうことばを適当に組み合わせて文章らしきものをつくる。京都精華大学はほんとうのみなさんの動機を知りたい。ほんとうの動機を知りたい。「ノウ・ハウ」的に答えられるこういうものは、ほんとうは知りたくないんです。「知りたくない」と言われたって、そんなのどうすればいいのって、みなさんうろたえちゃうよね。そういう世界……。この対比はちょっとわかりましたね。
さあ、そうすると、さっき出てきたことをちょっと振りかえって考えてみよう。若い世代の人たちが、敬語などの知識をものすごく求めている。あれはどういうことですか。あれは「ノウ・ハウ」ですよ。かたいっぽうで、人間関係をつくっていくために言葉を使おうとする意欲はいらないんじゃない、というふうに考えている。システム社会は、そんな意欲はいりませんよね。ほんとうはそれでは社会にならないんですが、しかし、そういうふうに考えている。これがむしろ若い世代の危機だろうと思っています。
さて、いろいろありますが、(レジュメ──3「行為」としての「ことば」をとらえる観察、想像、思考、思想──を)バーっととばして、五ページをあけてください。悪いことがいっぱい書いてありますね。「学校教育」最低だって書いてあります。最低の中身は、あとでこれをもう一度ちゃんとみて、なにが言いたかったのか想像してみてください。それから、「消費社会」。これも最低だって書いてありますね。それから「システムとしての社会」。これも最低だって書いてありますね。それで、こういう最低がいろいろ積み重なった結果、どういうことが起こっているか。こういうことの結果、起こっている「若者ことば」という問題として、そのあたりのしょうもないことが書いてあります。
帰結としての、若者の常用語彙のいくつか──関係の拒否、行為の放棄、思考の停止
たとえば、「帰結としての、若者の常用語彙のいくつか」とあって、これのもっている効力はなにかということがその横につづけて書いてあります。「関係の拒否、行為の放棄、思考の停止」(笑い)。とんでもないよね。だけど、ほんとうにこのことばをぼくはよく聞きます。しょっちゅう言ってる。「うざい、うざったい」、「きっしょ、きしょい」、「むかつく」。「うざい」「きしょい」、これはものすごいすぐれた発明だと思いますね。みごとに、この気分をあらわしている。その意味では、これはもう広辞苑に載せたほうがいい。そう思います。ただ問題は、「なんでそんなに多用するの?」「なんでそんなことばを多用するの?」ということ。もう少し言うと、ほかのことばはもうほとんど使わなくなっちゃった。わかりやすく言うために極論を言っていますが、ほかのことばを使わなくても、これらのことばだけで、会話がなりたっちゃう。
裏のレジュメ六ページをみてください。さあ、「だるい」っていうことばの言い方がね、ぼくは言えないんですけど……。「だっる」ってどうやって言うの(笑い)。ほんとうにこれもすばらしいことばだと思います。「まじ」っていうのも言いますね。しかし、繰り返して言いますが、こういうことばばっかり聞こえてくる。これが問題だ、と思います。
システム社会を生きるための、究極的な「対話もどき」──システム社会の鏡像
その下に「対話もどき」とか書いてあります。これはね、おもしろいんですよ。みなさんが、責任とか意欲とか、あるいは自信、あるいは自分にたいする高い評価──たとえば、わたしは馬鹿だけど、勇気があるとかね──そういうものをもって、なにかに参加しようとしているか、していないか。これが大問題です。ところが参加しようと思っても、その社会がすでに、あんまり価値のない、しかしノウ・ハウだけはどうやらあるらしいという社会だったら、その対応はどうなるか。
いわば、大人の社会を代表するのは、たとえばぼくです。中尾ハジメです。若い世代を代表するのは、たとえば○○さんです。それでぼくが一所懸命○○さんにしゃべりかける。たとえば「資料ちゃんと開けなきゃだめじゃないか」と言う。そうすると、○○さんは「えっ」って言う。ぼくはさらに「だから言っただろう。資料開けろよ。これはこういう意味があるんだぞ」と言う。すると○○さんは「はい」って言うんですよ。この「えっ」と「はい」のあいだに○○さんの頭のなかになにも進歩がある必要がない。○○さんは「えっ」と「はい」、「えっ」「はい」を繰り返していればいい。ぼくはシステム社会を代表していても、やっぱりまだ一所懸命しゃべっているわけです。たとえば「大学っていうのはこういうところだぞ」とか言うわけです。そうすると「えっ」と言われて、聞いてないなって感じがするんで、一所懸命言うと、また「えっ」とか言われちゃう。こっちがさらに「だから……」とか言うと、○○さんは「はい」と答える(笑い)。ほんとうにこれで一日会話はなりたちます。だけどこんなことはしたくない。みなさんもしたくないと思うんです。でもシステム社会というのは、そういうもんだということはよくわかる。だからためしにやってごらん(笑い)。そういう話でございます。
さあ、あと(残り)五分か。「バイト用語」っていうことばができました。ぼくは「バイト用語」ということばが使われるまえから、「マニュアル語」ということばでそれを表現していたことがあります。社会のなかで、人間が関係をつくって──友だちでさえ、夫婦でさえ、教師と学生でさえ──社会のなかに存在をするとき、どういうことばを使うか。「マニュアル語」のように、ノウ・ハウだけでいくこともできます。そういうことが最近わかっておどろいているんです。「マニュアル語」でぜんぶ小説を書いてみようかなと、ときどきと夢みたいなことを考えていますが、時間がないからそんなことしませんけど……。
「こちらコーヒーのほうになります」ってやつね。ひどい客は「そんなもの見ればわかるだろう」とか思うかもしれませんが、あれは、なんにも教えなかったら接客ができない、だから「こういうふうに言いなさい」と用意しておかないといけないということだよね。そうすると、そういうふうに馬鹿だから──ごめんなさい──ほんとうにそういうふうに言うんですよ。もっといろいろ言いかた考えろよ、適当にやったらいいじゃないかと思うんだけど、みごとにそのマニュアル語で、みなさんやるんですね。どうなっちゃったのか、という感じがします。
新しい「社会」を担う若者という希望
さて、全体として、「ことばが危機だ」なんて言いかたをするのは馬鹿げている。それよりもいまの若い世代がどういう状況におかれているかということを考えろ。しかも困ったことに、それをできるのは、みなさんをおいてほかにいない。若い世代しかできない。大矛盾のように思うかもしれませんが、それはなぜか。われわれは、いま滅びていこうとしている(笑い)。というか、ぼくはもう年です。みなさんがこれから大人になる。それで、そのこれから大人になろうとする人以外に、こういう問題を解決できる人たちはだれもいない。わかった? そうだよね。どうするか。
大学というのは、じつはうまい具合にできているんですね。大学に入ると、大学のなかでこのことを考えることができるし、取り組むこともできる。そういう場所として大学はあります。一所懸命つくった日本の社会かもしれませんけど、こんなにものを買わなければやっていけない社会、これは「ありえない」でしょう(笑い)。ねえ。
それはどうしてか。産業はものをまだつくれる。まだつくれますが、それをやりつづければ、空気を吸うことさえできない。気温が上昇する。ほんとうに、もう沈んじゃっている国があるんですよ。たいへんなことがいろいろ起こっている。つまり、人類というのがいままでのようなかたちではもう存在できなくなるかもしれない。それでも、消費社会を進めなければならないというふうに思われているんです。これは大問題ですよ。
その大問題をどうするの? それも、もういままでの社会を進めてきた人たちのノウ・ハウでは解決できない。ノウ・ハウっていうのは、新しいことは考えられないんですよ。あるシステムのなかのやりかただけはわかっている、というのがノウ・ハウです。「なぜか」なんて、そういう馬鹿なことはけっしてきかない。
さあ、そういうことをやるために大学はある。だけどみなさんが、そういう大学のための訓練を受けてくる機会なんてまったくあるはずがない。だからみなさんは、京都精華大学に入るんだったら、これからまったく新しい世界のなかに入ってきて、いままで使わなかったような考えかた、いままでしてもみなかった考えかたとか、あるいは調査の方法とかいうことを、これからみなさんが探し出す。大冒険ですよ。失敗したら命はないぞという大冒険をこれからしようと思っているのだ、と考えてください。
(レジュメに)いろんなことが書いてありましたけれども、ことばについて考えたことになったよね。なったって言えよ(笑い)。じつはそうでない考えかたももちろんあります。ある種、ことばを記号として考える考えかたにも、それはそれなりの世界があります。ただ言いたかったことは、日本語がいま非常に問題になっていると言われているけれども、それをことばに限ってとらえてみても、どうにもならない。そういうことじゃないだろう。そういうことじゃなくて、積極性とか、自信とか、冒険心とか、そういうものを失いかけているということがむしろ問題なんだろう、と。その責任は、おまえ(若者)たちがダメだからということだけではぜったいにない。長いあいだかけて、たいして長くないかもしれませんが、少なくともぼくの時代──ぼくは一九四五年生まれですけどね──は、若い世代がいまこうであるように、こうなるように、わざわざやってきた感じがします。それに逆らって、なにかするかしないかはみなさんにかかっている、というわけです。
これでおしまいです。