「偏差値」からの離脱

京都新聞2002年10月25日夕刊「現代のことば」掲載

「偏差値」による大学受験の秩序づけが完成してから、すでに二十数年がたったと言ったらいいだろうか。今日の「センター入試」の前身にあたる「共通一次試験」がはじまったことと無縁ではないだろう。あの「共通一次」導入は、受験予備校の開発した「偏差値」の勢いに国立大学が押し負けた結果のように映ったのだ。そして今日「偏差値」と言えば、一般的な統計技法の用語であるよりも、ただちに大学入試、高校入試、中学入試のことを意味するほどである。世界にさきがけ日本の学校教育に導入された前代未聞の大原理である、と言ってもおかしくない。他のいかなる教育哲学も影がうすくなってしまい、「偏差値」こそは教育の手段であり、また目的でもあるかのようにまでなった。

これほどまでに強力な「偏差値」であれば、昨今問題化している「学力低下」に大きく関与しているのではないかと疑われ、詳細な調査研究の対象になってもよさそうなものだが、そうはなっていない。「偏差値」が学力低下の主犯格と疑われるのは、ひとことで言えば、直接的に人間を媒介しなければ実現しようのない教育の目的や手段をもののみごとに隅のほうに追いやってしまったことにある。そのことを口にだして批判する人がほとんどいないのは、すでに「偏差値」が人間の手をはなれて神の力のようになってしまったからだろうか。大学で勉強するのに一番大切な勉学意欲などは、「偏差値」からはまったく見出しようがないのは明白だ。それでも多くの大学は「偏差値」の呪縛から逃れられずにいるのはどうしてだろうか。

大学に入学しようとする受験生が「偏差値」によってランクづけされるのは、大学の側もそれに対応する難易度、すなわち受験生のそれとまったく同じ「偏差値」によって、もれなく、また否応なく、ランクづけされているからである。そこで起こっていたことは、じつのところ、大学が学風と呼ばれるその個性によって学生を選考することでもなければ、学生が大学を選択することでもなかった。一方の側に、ほとんど固定的な大学の「偏差値」上の序列があり、他方に受験生の「偏差値」上の位置づけがあり、それがただ重なりあうということにすぎなかったからである。

このことは、十八歳人口の減少とともに、秩序正しく「偏差値」上の下位大学から陶汰が起こりはじめていることに、端的に表されている。大学は固有の特色などによって選ばれていたのではなかったのだ。また、最上位クラスの大学でさえ、それぞれの教学の理念を堅持すべく、自身の眼力によって学力優秀な学生だけを選りすぐっていたわけでもない。ほとんど例外なく、一定の学生数を確保しなければならないという経営上の理由から、どの「ブランド大学」もその「偏差値」を年々低下させているのだ。

神の見えざる手ならぬ、「偏差値」の見えざる手によって、日本の教育は統御されているかのようだ。これを教育の合理化と言ってはばからない人は「偏差値」信者なのだろう。私には、教育の自動機械化という、途方もなく壮大な悪夢に見える。その責任は、何と言っても、大学にあると考えたほうがよい。「偏差値」からの離脱を目指す大学がどれほど出現するか、そのことに日本社会の教育力の未来はかかっているにちがいないからだ。