京都新聞1998年03月19日夕刊「まいとーく」掲載 いまどきの若者<6>
対話ができなくなった
場所はあるファースト・フードの店。なかなか注文をきめかねる客がいる。カウンターのむこうには、例によって能率至上ふうのきまり文句しか繰りかえさない、若い高卒ふうの店員さん。彼女のイライラは隠しようがない。ようやく注文がきまると、イライラの表情のまま店員さんは厨房のほうへ。たぶん思わず口をついてでてしまった言葉が、「なに考えてんのか」。
マニュアルどおりに、にこやかに応対できなかったのを見とがめ、聞きとがめたのが、これまた若い店長らしき男性。店員さんに厳しい注意を小声でするが、これまた口をすべらせて、「ほんとに、なに考えてんのか」。そう、これは店員さんにむかっていった言葉。客にまで聞こえてしまったので、じつはこれもマニュアル違反。
ことがらを分解していえば、ひとつは能率至上ふうのきまりが対話的関係に優先すること。もちろん能率はマニュアルによって確保されることになっているので、熟練に頼る必要はない。年季のはいった客あつかいだけでなく、とっさの機転というようなものさえ、つまり個性と呼びうるようなものがでる幕はあまりない。もうひとつは、ことがうまく運ばなければ、このあまり年齢のちがわない若者たちの職場でさえというべきか、だからこそというべきか、責められるのはマニュアルではなく、マニュアルに従わない者ということになる。当然、要領のわるい年輩の客は、なんだか責められているような感じになる。
いまどきの著者は、というのはずいぶん昔からのセリフだ。若者には根性かない、とかいうときは年輩者が文化的価値を疑っていないし、それゆえたいていは若い者を鍛えてやろうという構えが、まだある。あるいは、たんに昔からのしきたりを知らないことを嘆いていう場合もあるが、これをほんものの頑固おやじがつぶやく場面には、おやじ自身の信念やら悲哀やらの味があって、わるくなかった。また、わるさをしたガキどもに腹をたてたときの、やり場のない気分を、これで表すのもなかなかよかった。
最近は、年輩者がこういう言葉を使おうという場面もほとんどなくなってしまったようだ。ファースト・フード的なものに包囲されてしまっているのだからしかたがない。かわりに、よく聞くようになったのは、子どものことをよく知っているはずの、学校の若い先生が、子どものことがわからなくなったとか、学生同士が、わずか一、二年ちがうだけで、たがいになにを考えているのかわからない、というようなセリフだ。そんなことをきくと、ついつい、いったいなにを考えてるのか、といいたくなってしまう。
が、よくよく考えてみればこれは、私たちが、とりわけ私たちの学校制度が、因襲の束縛から自由になるつもりで依拠したものが、じつは対話による学問や芸術ではなかったことの帰結ではないか。むしろ、あのファースト・フードの店の光景に象徴されるような、ただの能率至上主義のようなものにすぎなかったことの帰結ではないだろうか。