学校で培養された洗脳語(2)

京都新聞1998年03月12日夕刊「まいとーく」掲載 いまどきの若者<5>

集団化を無理強いする

多くの人が問題があると気づいているのに、だれもそのことに焦点をあてて考えようとはしないタイプのことがらがある。あるいは真面目にとりあげようとはしないことがある。私たちの学校制度が結局のところ、子どもたちを子どもたちだけの世界へと囲いこみ、年長者が子どもたちにとって、生きた文化的、道徳的なモデルとなる条件を最小限に切りつめてしまったことも、どうやらこの手の問題だ。

「シカト」という言葉が、ニュアンスを変えながら大人のなかにも部分的にはやっているのはユーモラスでもあるが、若者問題へのあきらめが表明されているようでもあり、心地よいとはいえない。シカトは、標的になっただれかを、集団的かつ意図的かつ積極的に無視し仲間はずれにすることだ。もう十年ほどはつづいただろうか、この言葉が日常的に使われる子どもたちの世界をとらえておこう。話しかけない、話しかけられても口をきかない、近くにきたら物理的に避ける、さらにはその子の椅子や机にもさわらない。

こういうことが成立するためには当然ながら、いいだしっぺもいて、また内心こまったと思いながらも集団の側に身をよせ、その葛藤をサディズムへと転化してしまう子どももいる。おおかたの子どもたちは、こういった集団形成に抗するだけの個の強さをまだ自分のものにしていない。このサディズムに手を染めれば、あとは自己正当化の論理しか頭にうかばなくても不思議はない。そして、標的となった子どもには、たよるものはなにもなくなってしまう。それは底なしの感じだといっていい。

一世紀まえのフロイドは、人格が形成されるもとのところに、親子関係のありようを見た。私たちがいま目の当たりにしている子どもたちの同輩集団での関係のありようは、それに負けないぐらいの比重をもっているかもしれない。そう思わせるほど、シカトの後遺症は大きく、根深くあとをひく。シカトは、断じて、無邪気なたわむれを意味しない。その言葉は、標的の味わう恐怖のようなものを意識した攻撃の合図だ。そして、もう一方で、集団形成への強制力を意味している。

もうひとつだけ、洗脳語の例をあげよう。「ジコチュウ」という烙印の言葉だ。語源は「自己中心的」にあるが、おまえはジコチュウだといわれる子どもは、派手で目だつようなことはあまりないし、大人からみてわがままだとも思えないことが多いので、奇妙だ。じつは、自己中心的なだれか(子どもは、大人にくらべれば、たいてい自己中心的だ)が、自分の気にいらないことをしただれかをジコチュウというのだ。

よってたかってそういわれれば、やっぱり自分がわがままだから、そういわれるのだと思う子がいても不思議はない。従順なだけで自分を表現することができなくても、卑屈になってでも、集団にくっついていたほうが、独りぼっちの底なしの不安よりましだからだ。