京都新聞2003年06月23日夕刊「現代のことば」掲載
ほんの数年まえ、「ちょべりばー」とか「ちょべりぐー」とかいうような言葉が、高校生や中学生の限られた一部に使われるようになったというか、流行ったことがあった。問題にされたのは、その言葉自体の奇妙さではなく、子どもたちがきわめて数少ない語彙だけしか使わずに仲間関係を成立させているかに見えるという奇妙さだった。大人たちに通じないだけではなく、「ちょべりばー」「ちょべりぐー」などといくら繰りかえしても、心の内にある悩みを打ちあけることも、少し気のきいた悪戯の相談もできるはずがないからだ。あの仲間関係はいったい何なのだろうか。反抗的若者の集団か? ただの過剰な同調関係か?
もう「ちょべりばー」を聞くこともなくなったので、こんな細やかな問題意識は流行らなくなったかもしれない。しかし、言葉をめぐる話題の流行がなくなってしまったわけではない。最近よく聞くようになったのは、「こちらアイスコーヒーになります」とか、もっとご丁寧に「こちらアイスコーヒーのほうになります」という奇妙ないいかたについて、日本語としておかしいというような批評だ。
もちろん、「なります」の後には「よろしかったでしょうか」が連結している場合が多く、またまた奇妙な感じがする。さらに「千円からお預かりいたしますよろしかったでしょうか」といわれて一瞬とまどうが、ちゃんとお釣を渡してもらえることになっているので、苦情をいう人はいない。飲食店で、店員さんが客に話す言葉は、「アイスコーヒー」のところが「カレーライス」になったり、「千円」のところが「一万円」になったりするだけで、「こちら、のほうになります」「からお預かりいたしますよろしかったでしょうか」はいつも変わらないし、気がついてみればそれ以外の言葉をしゃべるのを聞いたことがない。店員さんは、結局のところ、客と対話しているのではないようなのだ。
きっと、どこかのファーストフードの会社がろくでもない接客マニュアルをつくり、それが広がったにちがいない。そう思っていたが、たとえそうであるにしても、ほとんど全国的なといっていい、この広がり方はただごとではない。だから、真剣に、ひとつの小さいが深刻な問題として考えてみようと思う。あるとらえ方によれば、この奇妙な言葉づかいは「バイト用語」といって、数年まえから顕著になった若者世代の「新語法」であるという。複雑かつ曖昧な社会に、とにもかくにもそれらしい振りをして、敵をつくらずに生きのびるための、世代固有のアルバイト・マニュアルだというのだ。
なんだか奇妙だが、やけに丁寧そうに聞こえてしまうこと。いんぎん無礼の悪意は感じられないが、分かりあったなという感じもしないこと。ある意味で孤立してしまった世代の防衛的マニュアルであるならば、こういった感じはなるほどと思えるのだ。