東海村臨界事故から1年

2000.9.30

東海村臨界事故から1年 東海村のウラン燃料加工工場で臨界事故がおきてから1年になる。あの事故がどれほどの深刻な意味をもつものであったか、振りかえっておこう。

おぼろげだが、記憶をたどってみよう。事故が発生したのは、9月29日の午前10時半ごろだった。病院に運びこまれる被爆作業員の姿は昼のニュースで見た人がいたかもしれない。その日の午後には報道各社が一応の取材体制をつくりあげ、国中の耳目はこの出来事に集中した。夜半までには、首相官邸が総指揮をとる緊急時体制もできたことが宣言され、10km圏内を通る幹線道路や鉄道などの封鎖、圏内への配達などの業務は行われないように措置された。

この10km圏内への立入り制限や、圏内の住民に建物内にとどまり外出をしないようにという指示は、あとになって、あれは不必要な過剰な対応であったと非難されることになった。これは、おろかな、不当な非難であったということを銘記しよう。臨界をこえた核燃料をコントロールできず、いつ大惨事に発展するかわからないという事態であり、だからこその対応策だったのだ。つけくわえれば、あのように臨界を終息させることができなかった場合、はたして10km圏内の屋内退避で充分であったかどうかも、きわめて疑わしいのだ。

2名の死亡と公的に確認される限りで数百人の被爆者があったが、JCO社員の特攻的作業によって事態は大惨事にはいたらなかった。しかし、考えてもみよう。私たちはあの日、10km圏内への立入り制限を目の当たりにしたのだ。自衛隊の部隊も出動の準備をしていたのだ。たった16kgの濃度19%のウラン燃料が引きおこした危機の状況だった。

私たちが目の当たりにしていたのは、核の恐怖の、小さな、小さな、一部だったのだ。純粋なウランを3kgほど含有しているという燃料ゆえに、あの防災体制が、それも不完全なものではあったが、必要だったのだ。

もし純粋なウラン3kgの全量が、核爆弾の場合のように、瞬時に反応──つまり爆発──すれば、TNT火薬60キロトンの爆発に相当するエネルギーをだすとされている。広島に投下された原爆の破壊力がTNT20キロトンといわれている。すなわち広島原爆につめこまれたウラン235の総量のうち瞬時に核分裂連鎖反応を起こした量は1kgだったということになる(反応を起こさなかったさらに大量のウランは、核分裂生成物質──死の灰──とともに四散したのだ)。

現代の核爆弾には、TNTにして10メガトン──広島型の500倍の破壊力──相当の水爆もあれば、TNTにして1トン相当の小型原爆もある。50gのウラン235が反応する小型原爆であれば、そこに使われるウランの総量はどれほどだろうか。3kgを超えることはないのではないだろうか。こういった核兵器技術の問題はおいておくとしても、私たちは東海村臨界事故の16kgのウラン燃料が、どれほどの恐るべき潜在的な破壊力、あるいは死の灰となる潜在的な毒性をかかえたものであったかを類推することはでき、あらためて戦慄しないわけにはいかない。ウラン燃料の窃盗や強奪といった問題ももちろんあるが、それ以上に、巨大な原子力産業体制の、さまざまにある大小の現場で起こりうる核燃料事故の怖さである。

かりに、あの容器のなかにあったわずか16kgの、その1/3──純粋なウラン235にして1kg──が核分裂反応を起こし、全量が工場の外へ、大気中へと放出されたとしよう。反応時の中性子線の放出に加え、風下にあたる地域の人びとは広島原爆に相当する核分裂生成物質──死の灰──をあび、呼吸し体内に取りいれることになったのだ。

10km圏内の屋内退避でさえ、いかに不十分な対応でしかなかったか、容易に想像できるだろう。外気が入りこむ家屋であれば、人は死の灰からにげようもないのだ。放射能──死の灰──をあびたまま被災地から脱出しようとする多くの人びとを、除染し病院に収容する体制などありはしなかったし、今でもありはしない。

あれから1年たった今年の9月、ようやく茨城県と県下の市町村はJCOなどの「小規模の原子力関連事業所」との通報連絡協定の範囲を拡大したという。事故当時、JCOの工場から250mしか離れていない隣接町の那珂町役場に連絡がはいったのは、発生から2時間以上もたった、正午をはるかにすぎた時点だった。法律にしたがい施設所在自治体ではない那珂町へは通報連絡の義務がなかったからである。今回は、半径10km圏内のすべての市町村へと通報連絡の範囲をひろげたのだ。

しかし、これで十分だろうか。10km圏とはせいぜい、「小規模の」原子力関連施設から事故によって放出される放射性物質に汚染されうる範囲を示しているにすぎない。それも、安全を見てのことではない。実際に放射能が流れうる状況を、あらゆる気象条件などを想定して、はじきだした10kmではないのだ。かりに、死の灰を衣服につけたり体内に取りこんだりすることが、10km圏内のどこかの市町村に限られたとしても、さらに「原子力関連施設」から放射能が流れてくる可能性の高い10km圏内の市町村では、医療をはじめ支援の体制をとれるだろうか。

しかし、それでもなお茨城県と県下の市町村による連絡通報協定の範囲拡大はひとつの進展である。原子力発電所などの「大規模の」原子力関連事業所については、原子力安全委員会の指針であいかわらず防災計画(住民の防災訓練など)を持つべき地域の範囲が半径8kmから10kmのままなのは、なぜだろうか。原子力発電所がその巨大な原子炉の内部にかかえるウラン燃料の潜在的危険は、桁ちがいに大きい。標準的な電気出力100万キロワットの原子炉が1年間運転されれば広島型原爆にして1000発分の死の灰をためこむことになるのだ。

JCOの事故から1年たった今でも、あの日テレビを通じて繰りかえし流された、10km圏内への立入り制限の通告は忘れることができない。