「地球環境問題」といういい方には、ときどき、なんだか他人事みたいな感じがしてしまう。また、あるときは、慈善家のセリフのように聞こえてしまう。とりわけ、この日本に住んでいるわれわれが、「環境問題」について語るとき、そんな感じになってしまう。すぐ隣の北朝鮮の赤裸々な窮状を知っていても、あれは政治の問題であって環境問題ではないかのように語ってしまう。
北朝鮮の窮状とは、過剰伐採による森林資源の枯渇、土地の侵食、そして農業の崩壊ではないのだろうか。外部から食料を運びこまなければ、その社会の人びとが充分な栄養を取ることができない、そういう窮状である。もちろん緊急の食料援助はあるが、とても充分ではないし、農業の再建にむかうための充分な問題意識は、少なくとも表面にはうかがわれない。
さて、日本社会はどうだろう。最悪の不況だといわれても、年の自殺者3万人を超えても、日本は飽食の社会だ。それは、日本がありあまるほどの食料を(お金の力で)外部から手にいれているからだ。このことについては、また、あとで触れたい。
そして、韓国はどうだろう。約20年まえ、スーザン・ジョージが『なぜ世界の半分は飢えるのか』で、食糧事情のよい国として取りあげていた韓国は、この20年間でずいぶん変わった。いわゆる飛躍的な経済成長をとげ、いまでも食糧事情は良いが、1980年に総人口3千8百万の3分の1近くを占めていた農業人口は、総人口4千6百万人の現時点で、総人口の10分の1以下になっている。1970年ごろの穀類自給率約70%は、80年ごろには50%、90年ごろには40%と低下している。米については大きな変動はないものの、小麦の生産量は劇的に減少し、現時点では、20年まえの5分の1、約74億トンでしかない。
韓国と同時期に驚異的な経済成長をとげたマレーシアも、穀類自給率でみれば、1970年ごろの約60%から、80年約50%、90年約30%と低下している。当然ながら、70年からの20年間で、韓国もマレーシアも穀類の輸入量を3倍前後増大させている。まだ日本ほどではないが、韓国もマレーシアも、稼いだお金で外から食べるものを手に入れる道にはまっているように見える。
日本の穀類自給率は、米だけをみれば99%だが、全穀物では25%前後である。食料自給の割合は全体的に悪く、豆腐や味噌、醤油の原料になる大豆は90%以上を、果物、肉類、卵は50%前後を輸入にたよっている。野菜ですら20%近くを輸入している。これが、飽食日本の勝手口の姿だ。
なるほど、日本は緑の豊かな国だが、この社会の勝手口のむこうには「地球環境問題」としての「食料生産力の限界」が横たわっているのが見えないだろうか。
たとえば、われわれは魚を食べる洗練された文化をもっていることを誇りにしている。農水省の数字によれば、海藻類をのぞいて年間1千万トンを超える魚介類を日本社会が消費している。FAOによれば全世界の漁獲量は貝類、海草を含んで(クジラは除く)1億トン未満だ。ということは、世界人口の50分の1に当たる日本のわれわれが、確実に世界の水揚げの10分の1を消費しているということになる。
1人1日当たりの消費量でいえば、肉類と魚介類をたして、日本社会では約300gで、あの食べ過ぎを批判されるあのアメリカ社会の1人1日約400gとさほど変わらなくなっている。比較のために中国をあげれば、この数字は約140gである。
中国の人口は、この50年間で2倍以上増加し、12億を超えている。農業人口の割合はさほど減ることなく約8割といわれる。食料の生産にも全力をあげ、穀類でこれを見れば、1960年から1995年までで約8倍に近い増産を達成している。しかし、たとえばレスター・ブラウンが『誰が中国を養うのか』(今村奈良訳、ダイヤモンド社、1995年)で警告するように、工業化を進める中国の農業にも限界が見えてきているように思われる。
中国の人びとにしてみれば、われわれ中国人が養うにきまっている、余計なお世話だということになるにちがいない。しかし、飽食日本のわれわれは、この「地球環境問題」にどうやって取組むのか考えなければならないのは明らかだ。