それでもなお国際主義を語らなければならない

『木野通信』No.34 巻頭言, 2001年3月

この半世紀間、制度としての日本の大学がたどってきた道程を振りかえってみれば、それは国境のなかに閉ざされた存在であったといわれてもしかたのないところが目につきます。もちろん、研究者としての大学の教員には、他の国の大学で学んだり他の国の研究者と共同したりする人たちの割合が比較的多かったにちがいありません。とくに研究の対象が他の国の事情である場合には、これは当然であったかもしれません。しかし、こうした研究者としての大学教員の国境を超えた活動がありえたのは、日本の大学制度が外国に向かって開かれていたからというより、その理由はさまざまあっても他の国々が日本からの学生や研究者を受入れてきたからだったといったほうがよいように思えます。

他の国の研究者や留学生の日本への受入れいについては、この閉鎖的な傾向はさらに強く、国際社会のなかでの日本の経済的な優位性にずっとおくれ、ようやく最近になって受入れ政策が始動しはじめた印象です。(ただし、教員や研究者の受いれよりも、留学生の受入れという方にずっと大きな比重がおかれているように思えます。) 大学制度と書きましたが、大学の慣習といったほうがよいものまで含めてのことです。そして、この大学の慣習は、より広い社会の偏狭な内向きの精神風土を色濃く反映していたことも間ちがいないでしょう。

一方日本の大学教育がその対象としてますます多く受入れてきた若い人たちのあいだには、学校でのイジメに端的に表されるような閉塞的な社会状況、また教科書の文字どおりの暗記に限定され思考の広がりを励ますことのない教育の閉塞的状況への不満が蓄積されてきたのではないでしょうか。経済社会が有無を言わさずグローバル化するなかで、実質的に国境のなかに閉じこもりがちな大学のこの制度的・慣習的な障壁と、若い人たちの閉塞感とが重なりあって、今日の文化の危機を形作っているかのように思えるのです。

京都精華大学は32年まえの開学当初から、「日本と世界に尽くそうとする人間の形成」という岡本清一初代学長の言葉に集約される国際主義を、その教育理念のひとつとしてかかげてきました。たしかに、芸術・人文の両学部への留学生の受入れや交換プログラムなどの実現によって私たちの大学の国際主義は多くの他大学に先行してきました。そのことのために多くの教職員が想像を超える努力をしたこともまだ記憶に新しいところです。それでもなお、立ちどまることはできないのです。文化的危機を眼前にして国際主義をかかげる大学が有為に生き残っていくには、従来の制度や慣習から十分に脱却しているとは言えないという自覚が私たちにはあり、物心両面でより一層の改革へと踏み込んでいかなければならないように思えるのです。

新世紀の入り口に向かおうとする大学の可能性は、なににもましてその国際性の発揮にあると考えられ、京都精華大学はそのための大きなポテンシャルをもっていると信じられるからです。