あなたは何人ぐらいの教員に名前と顔をおぼえてもらっていますか

『木野通信』No.33 巻頭言, 2000年7月

「あなたは何人ぐらいの教員に名前と顔をおぼえてもらっていると思いますか。」

これは、いわゆる大学の自己点検評価を私たちの京都精華大学で本格的に実施するようになった1995年、自己点検・自己評価の運営委員会があみだした、たいへん面白くかつ有意義な評価方法の一端です。「教職員との関係性」を評価しようとする質問の一つで、他の二つは「親しく話し合える教職員がいましたか」「何人ぐらいの教職員の名前と顔を思い出せると思いますか」でした。

「あなたは何人ぐらいの教員に名前と顔をおぼえてもらっていると思いますか。」 ほんとうに見事な設問だと思います。「教職員の名前と顔を思い出せる」かどうかだけでは、学生の真面目さのようなもの、あるいは一方的な関心だけを問うことに終わる可能性がある。 しかし、教員に名前と顔をおぼえられている実感について尋ねることによって、教職員サイドの働きがはっきりと対象となっているわけです。

教職員との関係性を尋ねるこれらの質問への答えと大学生活の満足度とのあいだに相関関係があることを明らかにすることも、ねらいだったと思います。そして、じつはこの関係性こそが、32年まえの開学以来なかば幸運にも持続してきた精華大学らしさの重要部分であることを運営委員会は意識していたにちがいありません。現に、こんな調査をした大学は京都精華大学だけでしょう。この卒業時のアンケート調査は3年間続けられその結果は、それに安住してよいかどうかはおくとして、おおむね安定したものでした。

簡単に紹介すれば、平均して1人の学生が名前を顔をおぼえている教職員は約9.5人。自分の名前と顔をおぼえてくれていると思う教員の数は約4.5人、ということでした。けっして自慢できそうな数字ではないとも思えます。なにしろ、卒業するまでに履修する科目の担当教員だけでも20人以上はいるにちがいないし、その教えている側も自分の担当する授業を履修しているはずの学生の名前をほとんど呼ぶことがないことを表しているからです。しかし、他大学の人たちにこのことを話すと、うらやましがられることが何度もありました。よくよく考えてみれば、なるほどこれは大学教育のマスプロ化や、匿名的な存在としての大学生の急激な増加という傾向に抵抗して、人間形成あるいは人間尊重という教育理念をなんとか維持できてきた京都精華大学ならではの数字なのかもしれないと思えてきました。

たとえば、学生1人が自分の名前と顔をおぼえてくれていると思う教員の平均値が4.5人だということは、そして乱暴ですが非常勤の先生方の数を便宜上除き専任教員数90で考えるとすれば、そして卒業時のみならず各学年の終わりにもこのような数が得られるのだとすれば、3000人の全在学生の数から逆算すれば、4.5×3000÷90=150となり、なんと卒業生を除いた在学生だけで一人の専任教員が平均して150人の学生の名前と顔を知っているということになります。

これは、実感からいって、まちがいなく非常勤の先生方が個々の学生と知名関係をつくりだしていることが大きく貢献しなければ不可能なことです。しかし、それでもなお、京都精華大学では平均して専任教員はおそらく100人程度の在学生を名前で呼ぶことができるといっていいのではないでしょうか。

願わくばこのことがさらに前進することはあっても、後退することがありませんように。

いまから32年まえに京都精華大学が英語英文科と美術科の短期大学として出発したとき、岡本清一初代学長が打ちだした教育理念には、「自由自治」「国際主義」「人間形成」とならんで「凝集教育」がふくまれていた。凝集教育とは密度の高い教育のことであり、短期大学の2年間で4年制の大学に匹敵するという目標意識に、この言葉の力点はあったのだという解釈ももちろんあります。しかし、実際的にはこの「凝集教育」の意味すること、あるいはその一側面は、少人数教育であったと、私自身をふくめて多くの人が思ってきたといっていいと思います。顔のみえないマスプロ教育への批判的立場であったはずです。

いわば建学の理念にあたるこれらの言葉の運命は一様ではありませんでした。「自由自治」は、その意味するところは直接民主制に近いものから無責任な攻撃的批判の自由放任まで様々に変化しながらも、おおいに使われつづけてきた言葉だと思います。「国際主義」も、実質はともかく、目指すべきものを指す言葉として生き残り、さらに現実化しつつあるといってよいでしょう。が、「凝集教育」という言葉のほうは、少しさみしい運命をたどったようです。

なんといっても、開学直後にこの学園をみまった財政的危機が、有無をいわさずにこの言葉を使いにくくしたのだと思います。端的にいえば、当初の専任教員1人あたり15人という学生数では経営はなりたたず、専任教員1人あたりの学生数は30人をこえるようにしなければならず、また全体の学生数も年々増加させなければならないという状況が以来30年間続いていたのだといっていいでしょう。3000人を優に超える大学になっているのです。したがって、周辺の他大学とくらべればむしろ良好な学生/教員比率ではあっても、「凝集教育」という言葉や「少人数教育」という言葉がほとんど聞かれなくなって不思議はありません。

それでも、京都精華大学キャンパスの雰囲気は、いわゆるマスプロ大学のそれからは対極にあるように感じられます。これはもちろん、幸運としかいいようがないかもしれません。しかし、この大学の実現しているものを客観的な数字におきかえたとき、この幸運は実質をともなっていることがわかる気がします。もちろん、「人間形成」あるいは「人間尊重」という教育理念と無関係でないことですが、冒頭に紹介した学生と教職員が名前で呼びあうことがどの程度実現しているかを、数字的に評価した結果のことです。