第13回「ジャーナリズムとプロパガンダ」を考えていると、教育についての相反するふた通りの考え方を発見することになった


第13回「ジャーナリズムとプロパガンダ」を考えていると、教育についての相反するふた通りの考え方を発見することになった:もくじ

はじめに

さて前期は今日で終わりです。今日のレポートは、先週の続きを少しお話しした後、40分程度で書いてもらおうと思います。

大学と高校の違い

先週は、何をしたかといいますと、「プロパガンダ」と呼ばれているものがどういうものであるかを皆さんはしっかりと読んでくるはずでしたが、読んできた人はほとんどいなかった。前回に限らず資料を前の週に渡して「読んできてください」という約束になっていますが、見事に読んでこない。こういう問題がありましたね。どうしてそうなるんでしょう。

さて「大学」というところは、「高校までとは違うんだ」ということになっていますよね? ……「ちがわないだろう」という顔をしている人もいますね(笑い)。ちょっと確認しておきましょうか。手を挙げてくれる? ……よし。じゃあ訊こう。どういうふうに違う?

塩澤:どういうふうに違うか、ですか?

中尾:うん。

塩澤:選択の余地がある。

中尾:「選択の余地」!? 何を選択するの?

塩澤:登録する授業とか、……

中尾:はあ、なるほど。「大学は選択ができる」、まずここが違う。それ以外には、大学と高校の違いはあるかな? まだほかに違いがあると思うひと、手を挙げて。お。どこが違うの?

学生:(よく聞こえない)

中尾:「自分の論を持つ」。「論」ってなに? 誰か彼の意見をサポートする人いない? たぶん「自分の」というところがポイントなんですよね? 「自分の」というのは、つまり学説っていう意味かな? ところで小林さんは、「科目を選択できる」ということ以外に高校との違いがあるとは思っていないのかな? 思ってるの? 何で手を挙げないの? 意見を求められたらかなわん、とおもってんの(笑い)?

小林:授業を基本にして自分がやりたい○○の知識を○○がちがう。学校だったら、○○。

中尾:なるほど「自分で調べる」。小林さんの言ったことの一部しか言ってませんが、「自分で調べること」も違いの一つ、だと。中学生は自分で調べないのかな?

小林:○○、やらなきゃいけないこと、というのが学校から決められて、それを○○

中尾:つまりそれは塩澤説と同じで、まず選択できるということだよね? う〜ん、そうか。高校の先生と、大学の先生は、どこか振る舞いが違いませんか? 塩澤君、どう?

塩澤:遅刻すると怒る。

中尾:いや、俺だって怒るよ(一同笑い)。

塩澤:そうだけど、大学になるとそこらへんは自己責任の部分が大きくなる。

中尾:そりゃ確かに自己責任だけど、「自己責任」、「自己責任」、「自己責任」。……う〜ん、そうか。まあ、みなさんいろいろ違いがあると思っておいでのようですが、もうちょっと誰か言いたいことのある人いない? 大学の先生っていうのは冷たいからね、だから「そんなのしょうがないよ。FはFだよ」、そういうとことか? なんだろうね。飯田さん、何か言って。

飯田:……。

中尾:一人ひとりを見たら、いろいろそれなりの違いを言えるかも知れませんが、総体として大学の授業として皆さんに何かしようとしていることと、高校の先生のそれはどこか違いませんか?

学生:大学でやっていることは……自分で考えることが……だけど、高校は、先生が教えることが……になっている。

「自分で考える」ということは、既存の考え方を脱却すること

中尾:「自分で考える」。……いいこと言うね〜(笑い)。「考える」ってのがいいね。つまり塩澤君の言っていることがあたっているとしたら、授業という場所で考えないといけないんですよね。

この授業の授業評価になるとおもうんですが、「自分は考えたな〜」と思う人は、手を挙げてくれる?(挙手の様子を見て)ほんまかいな(笑い)。まあ、これは確かに一つに理想ですよね。十分に実現するのはものすごく難しい。ついでに伺いますが、何で自分で考えないといけないんですか? じゃあ「論」のひと。たぶん「論」という言葉をもってして君が言おうとしていたものは「自分で考えた何か」のことだよね? なんで自分で考えなきゃいけないんでしょう。答えるのはちょっと難しいかな? 皆さんはそんなバカな、と思うかも知れませんけど、自分で考えなきゃいけないのは、すでにある種の考え方があるからですよ。その「すでにある考え方」があって、自分も含めて多くの人が、すでにある考え方でしか考えられない。だから「なぜ考えなければならないか」というのは、考えがないからじゃなくて、すでにある考え方があって、そのすでにある考え方では、どうも役に立たない、とか面白くないということだと思うんです。で、高校とか中学とかでこれをやったらちょっと困るよね。考えてごらん、みなさんはようやく20歳になったか、近づいたか、……中にはもう少し年齢のいっている人もおられるでしょうが、そんなかんじですよね。でも、10代の人たちが、すでに世の中で通用している考え方を知らないとしたら困るよね。と、すれば「自分で考える、自己責任で考える」、言い方をかえると「今まで考えられている考え方でない、考え方」を10代の人が始めたらどういうことになるかね? 僕なんかはそれでもいいんじゃないか、と思うんですが、だけど大学に来たら、これまでの考え方とは違う考え方があるということを、考え始めなきゃいけない。それは簡単には獲得できない。だけども塩澤君が言うように大学の授業は考えなきゃいけないんです。といっても何も材料がなければ考えられません。そこでひとつは大学の先生というのは、変人です。違う考え方をしよう、というのを生き甲斐にしているんだよね。そうすると、ここでもう一つの問題が出て来るんですけど、「どういうふうにしたら、違う考え方をとらえることができるのか」。これはものすごく難しい。今まで自分が考えていた考え方と、違う考え方をとらえることは難しいです。あたりまえだよね。だから考えるということは、そういう難しいことをする、ということなんです。できるだけ皆さんが今までとは違う考え方をするようにしたいんだけど、しかしそれは「洗脳」という方法でやってはいけないんだよね。「洗脳」「詰め込み」ではいけないんです。「この文章を覚えなさい」というような方法ではいけない。……だよね? ところが、皆さんの中の多くは、勉強ということは、あるいは授業を受けるということは、先生が言ったことをそのまま覚えることだというふうに思っていますから、早く先生が、先生の考え方を言ってくれないと困る。しかし先生のほうはどうかというと、言っているつもりなんですね。自分の考えを(笑い)。そしてそれは暗記はできない。暗記をするようなものではない。理解をしないといけないようなものなんです。そういう難しさがありますね。

「伝言ゲームモデル(情報伝達モデル)」と「双方向的コミュニケーションモデル」

配付資料

「プロパガンダ」を、「ジャーナリズム」との関わりのなかでとらえ、そのことによって逆に「ジャーナリズム」の性格づけを試みようとしたが、もうひとつの対照軸としてあげた「教育」に多くの学生の関心が集中した。そして、さらにもう一つの準拠枠をつくるためにあげた「伝言ゲーム・モデル」と「双方向コミュニケーション・モデル」の対比のなかに「教育」を位置づけようとする議論が多くみられた。

双方向的コミュニケーション・モデル
(思考・理解モデル)
伝言ゲーム・モデル
(情報・伝達モデル)
モデルを超越(場外乱闘)
教育というものは、社会で生きていく中で必要になるであろう知識を知っている人が知らない人に教えること。知識を受け取る側でその知識が必要なければ伝わらず、必要ならば伝わるということであり、そこには成功も失敗もない。 教育において知識の伝達は一方向的に行われるが、どのような知識を持とうとするか、教育されるものに選択があることが重要。 皆が言うようなことをただ強化したことしか思いうかばなければ、そして、それでは考えたと言えないとすれば、いったいどうすればいいのか。 小、中、高と受けてきた教育はコミュニケーションと言えないもの。 人と人のコミュニケーションもままならない時代。教育もジャーナリズムも腐ってしまっている。
内容を正確に伝えることが教育。しかし、伝わり方は時代とともに変わり、したがって内容の変化も当然ある。 伝言ゲーム的なものは教育でないとすると、今まで私たちの受けてきたものは何だったのか。 義務教育や高校の「国語」などは、時によってはプロパガンダ。 教育はおもしろいもの。方針、環境によって、内容の受け取り方も変わる。
教育は、それが行われる時点では一方通行であるが、将来は必ず「帰ってくる」もの。* *「帰ってくる」とは、ありがた味が理解されるの意?だとすれば、教育の時点では、理解される必要はなく、また理解されることもないが、親や先生が死んでから、なるほど教えてもらっておいてよかった、というようなことであろうか。 何かをわかりたいと疑問をもつという過程があることを考えれば、教育は伝言ゲームとはまったくちがう。
教育は、上の世代から伝えるもの。伝えられた世代は、次の世代に伝えるので、内容は自然に時代によって変わる。** **伝言ゲーム・モデルにしたがっているとは必ずしも言えない。ここでは、伝える側に能動性があり、伝えられる側は受動的であるように想定されているとして分類した。 コミュニケーションは、双方向的なやりとり。教育もコミュニケーションでなりたつ。
教えられた人間の中でどう理解するかによって、内容は変化するのが教育。したがって教育は伝言ゲームである ←これはどちらに分類すべきかわからない。「したがって」以降を中尾がつけ足し、それによって、分類。→ 教えられた人間の中でどう理解するかによって内容は変化するのが教育。したがって教育は伝言ゲームではない
教育のむずかしさは、プロパガンダにならないようにすること。プロパガンダのむずかしさは、疑問をもたせないようにすること。
教育をコミュニケーションにしてしまうと、悪い影響を与える可能性が高まる。 教育は、教育するものとされるものの間に、反発などの感情がおこるコミュニケーションの成立がある。
教育も、ジャーナリズムと同じように、受け手に「考える」「想像する」ということが起こらなければ成立しないコミュニケーション。
試験の前に急いで暗記したことほど頭に残らないことはない。
中学の英語のテストは伝言ゲームと同じで、教科書を暗記したら100点が取れた。 ←だからよし、とする。今は50点もとれそうにない。→ 中学の英語のテストは伝言ゲームと同じで、教科書を暗記したら100点が取れた。
伝言ゲームは、理解しなくてもよいが、教育は受ける側の理解がなければ成立しない。
?この資料を見ても、「プロパガンダ」の持つ意味が多すぎ、とても疲れる。 ←無意味な綴りの記憶であれば、とても疲れます・・・・・・ ?この資料を見ても、「プロパガンダ」の持つ意味が多すぎ、とても疲れる。

出欠を確認するためのシートに皆さんが感想を書いてくださっています。これ、おもしろいよね。べつに感想を書くのが義務なわけではないんですが、ちゃんと皆さん書いてくれています。これらの感想を見ると、教育ということについて、明らかに二通りの考え方があることが解ります。書かれていることを、書いた人が本当に信じているかは別の話です。……が、しかし書かれていることを見ていると、それがまったく2つの違う考え方、教育という言葉について異なった捉え方があることが解るんです。そしておそらくこの2つの意見は議論できない。それくらい違う考え方があると思われます。おおざっぱに2つに分けてみました。考え方という言葉は「モデル」という言葉に置き換わっています。

「伝言ゲームモデル」……というのは、たまたま皆さんの中に伝言ゲームが好きな人がいて、何回か書いてくれたので、それを使っています。あるいは「情報伝達モデル」という言い方をしてもいいかも知れない。

もう一方では伝達ではなく、「やりとり」だ、ということを言う人たちがいる。「やりとり」ってなにをやりとりするんですかね? これがもしただ「情報」をやりとりするようであれば、「伝言ゲームモデル」と何ら変わらないのですが、どうもちょっと違うようです。それを「双方向的コミュニケーションモデル」──僕はこの「コミュニケーション」という言葉は好きじゃないんですけども、こういう言い方をすると分かりやすいかな、と思って使いました──というように言ってみましょう。もうちょっと補足すると、「考える」──教育の中身は「考える」ということである主張をする──モデルです。

「伝言ゲームモデル」にしたがっているとおもわれるものを縦に並べてみました。それから「双方向的コミュニケーションモデル」というふうにとらえることができるものを、右から2番目の縦の列に並べてみました。その二つの間にあるものは、どちらともとれる、おそらく両方の見方を併用しているんだろうなと思われるもの、またあるいはどちらだかわからないものです。「伝言ゲームモデル」は縦の列を三つ使っていますが、真ん中にあるもの……これは明らかに伝言ゲームモデルだな、と中尾がとらえているものなのですが、……さっき出てきたね。「選択」。選択できるということが重要である、という主張ですね。しかしいくら選択しても、伝言ゲームモデルだろうな、と思います。というわけで、塩澤君用というべきか、それとも他の誰かさん用かわかりませんが、ひとつ取り出しておきました。

註がついていますね。「教育というのは将来帰ってくる」と書いている人がいる。そして、それはおそらくそれはこういう意味だろう、ということを考えて書いておきました。次の註は、これはなかなか難しい。ここでは「伝える側に働きかける力があって、受け取る側というのは、ただ受動的に受け取っているだけだ」というとらえ方であると解釈し、伝言ゲームモデルに分類できると考え、そのようにしてあります。その次の註は、「したがって」以下をかえることでどちらともとれるな、というようなものです。この文章に心当たりのある人は、自分がどちらの意味でその文章を書いたかを思い出してみてください。「中学の英語の授業は伝言ゲームと同じで、教科書を暗記したら100点が取れた」。ここで「だから教育が成立している」ということであれば、伝言ゲームモデルでよろしいということだね? しかし「過去の勉強の中身を全然思い出せない」といっているとしたら、、その勉強方法に意味がなかったと考えているわけですから、双方向的コミュニケーションモデルの勉強に意味がある、という主張をしていることになる。

「暗記」と「考える」ということは違う

最後のやつ、これはなかなかいいですね。百科事典による「プロパガンダ」の説明についてだね。「プロパガンダの持つ意味が多すぎてとても疲れる」なぜこの人は疲れるのか? ……暗記しようとしたら疲れるんですね。到底暗記できないと思っていても、教育というのは、結局のところ言葉を自分の中に植え付けていかなきゃならないと考えていたら、それはたいへんですよね。「無意味綴り」の心理学の実験があるのですが、普通の文章ではなくて、50音をごちゃごちゃに混ぜて、それを抑揚なく読む。それがある一定の長さになると覚えられなくなるんですが、不思議なことに始まりのいくつかの音と最後のいくつかの音は覚えておくことができる。間は覚えられない。そういう「無意味綴りの記憶」というものがある。人間というのは難しいもので、意味がわかったらある程度の再生ができる。「再生」というのは、Aさんが言っていることをBさんが聞いて、そのAさんのしゃべっていることをBさんが理解できれば、Bさんは再生できる、ということです。意味がわかればね。しかしそれが伝言ゲーム的であれば、いい成績はとれない。

そういうものです。で、むつかしいのは、これまで述べたようにとれば、確かにその通りかもしれないが、もしかしたら全然違うことを言っているのかもしれない。というわけで別枠においてあります。何れにせよ、みなさんは一度これを読んで、皆さん自身がどういうふうに「教育」について考えているか、とりわけ「大学教育」がどういうものだと思っているのかをもう一回、よーく考えて欲しい。さっき言ってた「自分の論」、「自分で調べる」あるいは「自己責任」というのは、いくら「自分で」という言葉を強調していただいてもけっこうですが、大学でないと、つまりこういう場でないとできないでしょ? 文字通り「自分で」ということを「孤立して」というふうに読み替えてもいいんだったら、大学に来る必要はなくなります。むしろ損ですよね。わざわざ金を払ってねえ。

もう一つ重要な意味があります。いちばん最初に言いましたが、結局は考え方なんです。自分が今までと違う考え方を獲得できるかどうか。それはなかなかむつかしい。簡単じゃないけど、もう少し言うと、いままでは自分の責任で考えてきたといえるか、ということを一度考えてみて欲しい。

「選択」という言葉のうちにおこるすり替え

みなさんは「ジャーナリズム」という科目をとることに決まっているのです。が、おそらく皆さんの中には「これは自分が選択したものではない」という意識が強いと思うんだよね。つまり「選択科目」でないですからね。だけどね、皆さんはまず大学を選択して、学科を選択したはずなんです(笑い)。「それをお忘れなく」とでも言うといいのかもしれませんが、どうしても毎日を暮らしていると、だんだんと惰性の中を生きるようになって、それでその惰性の中のひとつの基準の中から「これは私が選択したもの。これは私は無理やりやらされているもの」という考えが出てくるんですよね。不幸です。

おそらく皆さんは「ジャーナリズム」という言葉について、聞いていることもあるでしょうし、講義概要さえ読まずに「ジャーナリズムっていうのは、こういうものだ」というようなものを持っていたと思います。さっき言ったようなことから言えば、みなさんはその考えかたをかえなければならないはずです、そして、いろんな変え方がありますよ。中尾ハジメがしゃべっているように変えるというのもその一つでしょうしね。しかし少なくとも中尾ハジメが考えているジャーナリズムというのが、「ああ、自分が思ってきたジャーナリズムとは、こういうふうに違うんだ」

ということがあれば、「違うふうに考えうる」ということが言えることがわかりますよね。それはこの科目の目標です。そしてその目標が達成できたのかどうか、よくわかりません。わたしがいままで受け取っている感じから言うと、あまり達成できていないように思えます。

では、いよいよ、今日のレポートを書いてもらおうと思います。こうやったほうがいいよね。自分がレポートを書く時間を、自分の生活の中に自分の責任の中で確保しなきゃなんないというのはたいへんなことで、「ここで書きなさい」といわれたほうが、よっぽど楽だと思います。……これは、本意ではありませんが。

さて、どれくらい書いてもらうかといいますと、紙をお渡ししますが、裏までかいていただいても書かなくても構いません。時間は17時50分まで。

学生:……っていいんですか?

中尾:もちろん。見なきゃいけないものは一杯あるでしょうね。たとえば年表みたいなもの。朝日の11月3日の新聞とかもとてもいい材料になるでしょうね。……かっこのなかに、中尾ハジメがどういうふうにとらえているか、が書かれてありますが、その方法については書いてないよね。だからみなさんはその部分を書いてくださっても構いませんし、まったく違う方法上の特徴を読み取ったならば、それを書いてくれても構わない。ただみなさんが読み取ったというふうに主張する方法を、皆さんの指示に従って、もう一回石牟礼道子を読み直してみて「なにいってんだこいつは?」ということは当然ありうるよね。

「受講生に対する要望」というのがあります。

事前に配布する多くの資料を読むという授業時間外の作業に手抜きをしないこと。わからないことがあれば調べるなど、事前の準備をして出席していただきたい。また、必ずこの科目専用のノートを一冊用意していただきたい。

……これをちゃんとしてたら楽勝のレポートですね。

以降レポート制作

授業日:2003.07.01;ウェブ公開:2003.08.24:更新:2003.08.24;
協力:川畑望美