知性の自由:グラムシとオーウェルとチョムスキー

「明日の世界を創る─大学の役割」ノーム・チョムスキー講演会「通訳者のあとがき」
京都精華大学創立30周年記念『自由を求めて』(1999年11月)より

────あるグループの利害にしたがって世論が形成されている。多くの人びとが疑いや批判をさしはさまずに日々のやりとりを、大衆の生活を、そのグループの合意の枠内で行うようにするのが「専門家」の役割だ。

────つまり、支配的グループの利害にしたがって、その社会で正統とされる考え方、振るまい方があり、そういった「正統性」を維持したり、強化したりするのが「専門家」のはたらきだ。

────「専門家」は社会的な地位であり、その地位をめざすには、支配グループに権力が集中しているという実情を暗黙のうちに熟知していなければならない。

というようなことから、チョムスキーさんは本論にはいった。グラムシが、どこかで、そのように書いた、また別の立場からだと断りながらも、キッシンジャーもそのようにいったという。また、ジョージ・オウェルもひきあいにだして、「専門家」による「教育」がうまくいけば、考えないほうがいいことがあるのを分からせることになる、という挿入まであった。

これは、チョムスキーさんらしい……皮肉いっぱいというべき語り口だったが、満席の場内から聞こえた笑い声は、大きくはなかった。あれは、事柄が深刻であったせいか、それとも、グラムシとキッシンジャーとオーウェルのうちに、乱暴にいえば、敵味方の区別をできなかったからだろうか。

私の感じ方からすれば、ノーム・チョムスキーが、他ならぬアントニオ・グラムシを、そしてジョージ・オーウェルを、その思想と、おかれた立場を、わが身に引きつけて語っていることに疑問の余地はなかったのだが、説明しなければ不親切だという声が学生諸君からはあった。この、あとがきを借りて、余計なことをといわれるのを承知のうえで、またおそろしく中途半端になることも許してもらうことにして、あの講演の脚注となるようなものを残しておきたい。

『動物農場』を書いたオーウェルは、その反ソ連的な内容ゆえに出版を拒否されたことについて、問題なのは政府の干渉というより、いわゆる自主規制だと語っている。1945年の『動物農場』につけられず1972年9月15日の新聞『タイムズ文芸付録』で初めて発表されたという、オーウェル自身の序文から引用しよう。

....この種の仮面をかぶった検閲は、演劇、映画、放送といった分野ばかりか単行本や雑誌の世界でも、まかりとおっている。いつでもその時期の正統思想、つまり正しい考えかたをする人間なら当然すんなり受け入れるはずだということになっている思想が存在する。具体的にあれを言うなこれを言うなと禁止されるわけではないけれども、ちょうどヴィクトリア朝時代にレディの前でズボンという言葉を口にするのは「いけないこと」になっていたように、それを口に出すのは「いけないこと」なのである。世間の常識となっているこの正統思想に反抗したものは、あざやかに口を封じられてしまう。そのときの流行でない意見は、大衆誌でも高級誌でもまずまともに取り上げてはもらえないのである。

現在世間の常識となっている正統思想が求めているのは、ソヴィエトにたいする無批判な礼賛である。これは万人の常識であって、ほとんどの人間がこの常識にもとづいて行動している。ソヴィエト体制についての真剣な批判とか、ソヴィエト政府が明らかにしたがらない事実の暴露といったものは、まず活字にはしてもらえない。 ....

(小野寺健編訳『オーウェル評論集』岩波文庫より)

「口にだして言う」ことではうまくやっていけない種類のことがある、とオーウェルがいい、チョムスキーが引いたのは、この文脈でのことである。オーウェルが当時の正統思想からはずれていたように、チョムスキー自身もまた世界最強のアメリカの内部に身をおきながら、その正統から大きくはずれている。そして、この意味での「正統性」をつくりだしている職業や専門家が爆発的にふえたのが20世紀の特徴だという。もちろん、大学とよばれるもののうち大きな部分は、これに貢献することになっていることも認めないわけにはいかない。なるほど、事柄は深刻である。

とりわけアメリカでは、一方で膨大な研究資金を国から得て、その成果を私的セクターへと還流する大学が、経済開発の中心にある。この点にかぎれば、そしてまたアメリカとの比較では、日本の大学ではこの傾向はそれほど大きくはなかったといえる。しかし、戦後から今までの経済社会の成長、それにともなう専門家の増加と、大学の拡大とは平行関係にあることはまちがいない。

しかし、たとえ大学が、たとえば肥大した「公衆の心のコントロール」部門に深く関わっていたとしても、ただちに大学を無くしてしまうことも、多種多様な「専門」によってなりたつ社会を一挙に無くしてしまうことも、とるべき選択肢ではありえない。京都精華大学にかぎらず、大学一般が存在しつづけることを目指さなければならない。もちろん社会も生きつづけなければならない──これは、私のつけくわえたいことだが、チョムスキーさんも異論はないと思う。

というのは、社会はそこにあり、私たちはそれによって生きているからだ。もちろん、私たち自身を変えていくことを、社会を変えていくことを語るな、考えるなといわれても、私たちは考えつづけるにちがいない。この矛盾したように見える存在のしかたを、たとえばこの人、ノーム・チョムスキーは身をもって、おどろくべき勇気をもって、実践しているように思える。

これもまた、あまりにも単純化したいいかたにすぎるかもしれない。そこで、グラムシが文化と教育について、知識人の形成について、彼自身が他ならぬ大学によって手に入れることのできた知識と理解のしかたを駆使したことを思いだしてみよう。

たしかにアントニオ・グラムシは知識人をさして「正統性をつくりだす専門家」であるとどこかでいったにちがいない。たとえば、

すべての企業家とはいわないまでも、少なくともその……エリートは、自分の階級の拡大に有利な諸条件をつくりだす必要からいって、社会一般を、すなわち国家機構にいたるまでの社会の複雑なサーヴィス機構の全体を組織する能力をもっていなければならない、──あるいは、少なくとも、経営と外部との一般的関係を組織するこの活動をゆだねることのできる「番頭」(専門職員)を選抜する能力をもっていなければならない。それぞれの新しい階級が自分自身とともにつくりだし、その前進的発展につれてきたえあげる「有機的」知識人は、たいていのばあい、この新しい階級がうみだした新しい社会的タイプの本源的諸活動の或る部分的諸側面の「専門化」とみることができる。

(竹内良知訳「知識人の形成」、『グラムシ選集3』合同出版刊より)

と書いている。とりわけこのタイプの知識人層は、たしかに特定の利害グループのつくりだす社会の枠組に正統性をあたえる大小の役割を、多かれ少なかれもつものと見ることができる。彼は、企業家エリートにかぎらず社会を支配しようとする諸グループは、自分らがつくりだす「有機的」知識人のみならず、聖職者、文学者、哲学者、芸術家といった「伝統的」知識人を自分たちの側に獲得しようと闘争することも描きだし、「知識人の部類」が未曾有の拡大をみたことを近代世界の特徴とした。

グラムシが独房の壁に向かいあいながら、それを突きぬけ、描きだした社会の姿だが、そこには知識と理解の探求を強く感じることはできても、ニヒリズムの陰はまるで見あたらない。もちろんグラムシは「新しい」社会の、「新しい」知識人や、「新しい」教育のヴィジョンを求めていたのだが、すでに存在する大学──それは今日のアメリカの、あるいは日本の、大学とは、姿のうえでは少なからずちがっていたとしても──に、大学的なものに、必須ともいえる価値を見いだしていたように読みとることができる。

事実、1919年グラムシたちが自ら創りだした工場評議会運動のための週刊誌『オルディネ・ヌオーヴォ』は、啓蒙主義的な次元をこえ、いわゆる歴史、文学、哲学にいたるまでの、広がりと深さをもったものだったといわれる。労働者が、大衆が、質の高い文化の担い手となるためのグラムシ流マルクス主義のヘゲモニー論の産物であるという図式だけで、評価することは私にはできない。これは、あまりにも大学に身をおくものの我田引水かもしれないが、むしろグラムシは身をもって大学を、大学的なものを、生きたのだと思う。

監獄のなかから義姉のタチャーナに宛てた手紙の一節を引いておこう。

...知識人に関する私の研究は、意図としては大規模なものです。 ...(中略)...しかも、私は知識人という概念をいちじるしく拡大し、一流の知識人だけに関係するような従来の概念に限定されません。この研究はまた、国家の概念の明確な定義をあたえるものです。国家は、ふつう、政治社会(すなわち、与えられた時代の生産様式と経済に人民大衆を適応させるための独裁、すなわち、強制的機関)として理解されていて、政治社会と市民社会との均衡(すなわち、教会、組合、学校、等々のような、いわゆる民間組織を通じて行使されるところの、国民社会全体にたいするある社会集団のヘゲモニー)として理解されていません。そして、まさにこの市民社会においてこそ、知識人は働いているのです...(中略)...。知識人の機能に関するこのような概念によって、中世のコムーネ自由都市、すなわち自分自身の知識階層を生みだすことができず、したがって、独裁のほかにヘゲモニーを行使することができなかったある経済階級の政府、の崩壊の原因が、あるいはその原因の一つが、明らかになるのだと私は考えています。 イタリアの知識人は人民的=国民的性格をもたず、カトリック教会をモデルとしてコスモポリタン的な性格をもっていました。レオナルドにとっては、フィレンツェ要塞の設計図をヴァレンティノア公に売ることは大したことではなかったのです。したがってコムーネ都市国家は同業組合的国家ですが、この国家は、この段階を超えて、マキアヴェッリがむなしく指摘していたような完全国家になることができませんでした。 ...

ある点から先へは研究を進めることができないために、私が研究をやめたとか、あるいは意気沮喪しているなどとは思わないでください。私はいまもって創造能力を失っていません。重要なものを読めば、かならずそれが私の思考を刺激するのです。このテーマで、どんなふうに論文を書きあげたらいいでしょうか? 私は、機知に富んだ書き出しと結び、それから、私の考えでは、目の中に拳固でも叩きこんだように抵抗できない論法を想像しながら、ひとりで悦にいっているのです。 ...

(上杉聰彦訳『愛と思想と人間と』合同出版刊より)

たしかにグラムシは、イタリアのリセ中学校と総合大学のあいだには「合理的な」つながりがないことを問題視してはいた。つまり、権威主義的に暗記を強制されるようなリセから、知的な自律と自主性の世界である大学への移行が、「ぶっきらぼう」かつ「機械的」だというのだ。しかし、このグラムシによる評価から自明のこととして取りだすことのできるのは、大学への肯定である。

大学でのグラムシは、言語学を専攻していたのだ。もちろん歴史や哲学も学んだ。ウムベルト・コズモらの文学畑の教授陣からは、とりわけ強い影響を受けたといわれる。ヘーゲルの弁証法を知るのは、ウムベルト・コズモによってだったという。タチャーナへの同じ手紙には、グラムシが新聞に書いていた文を集めて選集をつくる許可をコズモ教授が求めてきたが、おそらくは熟慮のすえ、断ったことが書かれている。そして、その手紙の最後には次の予告がある。

....この次の手紙で、ダンテの『地獄編』第十曲に関する試論の主題を要約しましょう。その概要をコズモ教授に送ってもらうためです。教授は、…・ダンテ学の専門家として、私がまちがった発見をしたのかどうか、すなわち、すでに書かれた同じような無数の注釈につけ加えるべき小論を書く価値が本当にあるのかどうか、を私に教えてくださるでしょう。

(上杉聰彦訳『愛と思想と人間と』合同出版刊より)

大学教育の根幹には、明日の世界を創りだそうとする行動につながる、世界の理解がなければならない、しかも、多くの場合、理解すべき問題は隠されており、それを発見し、調べ、理解するのが大学の役割だというチョムスキーを、私はこのグラムシに重ねあわせることができる。また彼自身が、「この男の頭脳の働きを今後二十年間とめなければならない」と獄中に送られながら死にいたる十年間それをやめることのなかったアントニオ・グラムシを、ひとつの模範としていることを私は疑わない。

講演の大部分は、いわゆるアメリカによる世界秩序への批判、あるいはとりわけアメリカの大学が私的経済セクターの利害にあまりにも取りこまれていることへの批判──そのこと自体たしかに流れに抗する勇気のいることだ──に費やされ、ノーム・チョムスキー自身の血となり肉となっている自由な知性の場としての大学のありようが、理念的表明以外には必ずしも表に現れてはいなかったように思える。が、これもまた贅沢すぎる注文だろう。それをするのは私たちの仕事ということにならざるをえない。圧倒的な勢力のまえに異議をとなえている彼の姿のうしろに、知識と理解の世界を、ありうべき大学の生き生きとした姿を、想像することは難しいことではないだろうから。

たしかに、ノーム・チョムスキーさんは、生き生きと、若々しく見えた。