第3回 ジャーナリズムの、いったい何に焦点をあてようとしているのか

まず、大学では今までの仕方とちがう勉強をしなければならないこと、いままでの考え方をやめて別の考え方を獲得しなければならないことが山ほどある、などなどのお説教が延々と続いた後、ようやく本論に入る。

ジャーナリズムのプロセスと、ジャーナリストの方法

あまりにも当然でばかげていると思ったかもしれませんが、「体験」っていうのがあると言ったよね(2002年度前期 環境ジャーナリズム I 参照)。それで、ここに「ジャーナリズム」があって、ここに「みんな」がいる。(ボードに図を描く)……次元が違うことを、こういうふうに組織化をしたよね。これ(左側の部分)を「体験」とか「出来事」と言いましたね。ここ(中央の部分)に「ジャーナリズム」があるよと。実際の空間・時間の中ではこんなふうにあるわけがない。それでは、これは何か。概念ですね。こっち(右側の部分)は──なにか奇妙ですが──「みんな」というふうになってたよね。

さてそれで、みなさんが取り組んだ課題は「石牟礼道子の方法」だったね。それはこの図の上ではどこのことでしょう。「ジャーナリズム」(中央)を「ジャーナリスト」ということに置き換えれば、石牟礼道子というジャーナリストの方法ってことになるね。さあ、どういうふう考えたらいいか。これは、いったい誰の体験?──「出来事」って何、「体験」とは何、という問題があるんですが……。例えば、「取材」っていう言葉があるでしょ。ジャーナリストは取材をしなければならない。でもこの「取材」は、今まで皆さんが考えていた「取材」かどうか──これを考え直さないといけないかもしれない。しかし、とりあえず「取材」っていう言葉があります。「取材」はある種の「体験」そのものだってこともあり得るよね。つまり「取材」って呼ぶことができないほど命がけであったり……。逆にあくまでも「職業」で、「おまんまが食える」からやっているにすぎないというふうに考えているなら、やはり「取材」と呼んだほうがいいかもしれない。とか、言葉のニュアンスはいろいろですが、ここでは一応、「取材」という過程があることにして、それは「出来事」や「体験」のほうに向かう行為と考えられる。ちょっと乱暴にここで(「体験」・「出来事」へ接近するプロセス)区切ろうかな。こういうプロセスがある。これは「時間の経過」という軸の上で、そういうふうにならざるを得ない。

どういうことか言うと、例えば「本を書く」ということで考えれば、……印刷されると、こっち(「みんな」の方向へ)に移されるんですね。これは、本の場合には「出版」というような言葉で呼ばれます。本を作るっていうのは、「取材」があって、それから文章を書く。だけど簡単に文章にならない。というか、文章になってもごみ箱に行っちゃうのもある。それから、文章にする前に頭の中で考えたことは、頭の中のごみ箱に捨てなきゃいけないようなことも出てくる──ものすごい「無駄」かもしれない──というような時間、プロセスがある。

しかし何かまとまったものが出来てきて、このまとまったものを、この人は自分で「編集」するかもしれない。あるいは「編集者」って人がいて、その人が編集するかもしれない。で、ようやく「原稿」が出来上がってそれが「印刷」に回るかもしれない。

そこである種の「別れ」がでてきます。ここ(「みんな」)へどういうかたちで回るかということが決まらなければ、「印刷」には回りませんね。売れない本だったら、そういうものは出版されない。そういう「プロセス」がここには入っているね。

それで、元へもどりますが、ジャーナリストは、ここのプロセスがどうなるかっていうことを頭の中に持たないで「取材」をするだろうか。

で、今度はジャーナリストが何かを書いてくる……。皆さんもレポートを書いたけど、皆さんの場合は、締め切りだから出さなきゃいけないということで一生懸命やったかもしれない。学校や大学的な状況でなくても、やはりそういう時間を意識する必要があるでしょう。ここ(「ジャーナリスト」)は、ものすごいいろんなことを考えなければいけない。そうすると、「石牟礼道子の方法」と言ったときに、皆さんはジャーナリズムの──それをあえて分けて考えたら──どちら側のプロセスに関わる「方法」だと思ったのだろうか。皆さんがレポートに書いた「方法」は「取材」よりのことだったのだろうか、あるいは「出版」よりのことだったのだろうか。というようなことを考えていただきたい。

それから、今、主として時間の流れをどこで「あっち」にするか「こっち」にするかという問題だとぼくは言いましたが、時間の流れでなくて、そのプロセスがどこで起こっているかということを考えたときに……。どこでと言っても必ずしも物理的空間ではないよね。それから、ジャーナリストが自分のものとして持っているジャーナリズム。「持つ」と言ったって物理的に持つことはできないから、物理的概念じゃないね。──「みんな」ってのもあやしいね。物理的概念でないかもしれない。……そういうふうに考えて分けたときに、「石牟礼道子の方法」として自分が取り上げたのは文体だから、「取材」でもなく「出版」でもないだろうというふうに考えるかもしれない。もしそういうふうに考えたら、この「場」には「ジャーナリズム」という名称がついているが、もっと違う呼び方ができないだろうか(中央の部分を指しながら)、というとこも考えてほしい。

創造の場としてのジャーナリズム

例えば、「創作」という言葉があります。「創作」という言葉が、よく使われるのは、必ずしもこういうことを意味していないね。「創作」という言葉が使われるのは、「出来事・体験」が抜けてるか、あるいはここ(「ジャーナリズム」)のなかで直接的にこれ(「出来事・体験」)が創造されて、「みんな」で伝えられることを意味して、「出来事・体験」の取材がなくても頭の中でいろいろでっちあげることができる。そういうようなことをいう場合が「創造」、「創作」には多いです。しかし、「出来事・体験」の取材がある場合でも、編集したりとか、どういうふうに表現しようか考えることは、結局ここ(「ジャーナリズム」)でやらなきゃいけない。というふうに、機械的に、考えなしに流れることは、ありえないわけです。

前回の授業で焦点を当たのは、どういう文体で書かれているのかとか、様々な文体が使われているけれども、それ全体をどうやって統合しているかだったので、たぶん皆さんが書いた課題レポートは、かなりそれに引っ張られて「創造の方法」というところに焦点が当たっている、という感じもします。

メディア状況──一方向的メディアとインターアクティブ・メディア

次に、ここに「出版」と書いてある。つまり、皆さんが手にとって読んだのは本ですね。皆さんが対象にしたジャーナリズムは「出版」なんです。今日的メディア状況だったら、もちろん出版はありますが、出版以外にも──いわゆる「印刷物以外」にも──いろいろ考えられる。そのことをちょっと考えてみて下さい。

ただここで大変困ったことになってくるのは、それは……インターアクティブ・メディアinteractive-media。「出版」というのは、もちろん皆さんが「本を読む」ということ自体──そこにいない著者について──この人はこんな考えがあるんだということを読むという主体的な行為がないと成り立たない。そういう意味では読者にも主体性があるのですが、中には著者にお手紙を書いちゃう人がいるかもしれないが、本の出版には「アクションの一方向性」っていう問題があります。インターアクティブ・メディアというのは、一方向じゃない──そう簡単にそういうふうになるとも思いませんが、なんとなくそういうことが言われ始めている。

それから実際に「本を読む」ということが、例えば皆さんの場合大変みたいだね。つまり、メディアの状況が変わってきたということに原因を求めていいのかわからないけれども、大学にいる学生諸君が本を読まなくなったということは現状認識としてある。認めざるを得ない。そうすると、……こうゆうふうになってないんじゃないか? ジャーナリストがいて、重要な「出来事・体験」が出版を介して皆さんに伝わるようになってない。じゃあ、ジャーナリスト以外の何かが、出版以外の何かが伝えているのか。伝えているようには思えない、という感じがします。

例えば、去年の9月11日のニューヨークでのあの出来事で、何人くらい亡くなったの?

竹内:2千数百人。

中尾:2千数百人といわれているよね。君はこれを何で知ってるの?

竹内:テレビ。

中尾:ようするに、(ボードの図を指して)こういうことがあるんだろ。

それで、ブッシュ大統領ははっきりと「報復する」と言って、報復攻撃をした。いろいろあるうちの、主要には空爆。空爆で何人殺したのか聞いている?(一同首を傾げる)

戦争が始まる前には、そこを空爆するようなことをすれば、難民がたくさん出て、難民の中にたくさんの犠牲者が出るだろうということは言われていた。だけど、報復戦争ということを言い、ニューヨークでの死者の数を言ってるんだから、もう一方の死者の数も言ってしかるべきだけども、そこにはジャーナリズムが働いてないということですね。

ある数字によれば──これはフランスの『ルモンド』に出てきたことですが──、空爆だけでやはり数千人の死者である。それから、空爆と並行して、今度は掃討作戦をします。これは北部同盟と一緒になってやるわけですが、北部同盟とタリバンとの戦闘で何人くらい死者があったか誰か聞いてる?(また首を傾げる)

さらに言えば、タリバンは何人が捕虜となり、何人が戦死したのだろうか? 確認はされていないんですが、北部同盟とアメリカ・イギリス・その他の連合軍とタリバンとの戦闘で死んだタリバン側は、おそらく3千人くらいではなかろうかと言われています。それからさらにその後、本来ならば捕虜になって生き永らえることができたはずの人たちを、束にして、例えばコンテナに詰め込んで、それを外からバカバカ撃ってしまって、これが5千人くらいではなかろうかと言われています。……問題は、こっちへ伝わってくることと、伝わってこないことがある──ということはわかった?

そこでもう一回立ち戻ってほしい。石牟礼道子に戻ったときに、「水俣病」とは一体何か? あるいは、『苦海浄土』がそこで伝えようとした「体験」とは一体何か? という問題です。皆さんは、それは伝える値打ちがあったと考えるか、なかったと考えるか。

ジャーナリズムが伝えるべき出来事とは、瞬間的な出来事ばかりなのか

ついでに言いますが、「出来事」という言葉が表すのは、普通は「瞬間的」なことです。ほんとに瞬きの間という、そういう狭い意味ではありませんけども、「瞬間」なんですね。例えば、9月11日は、世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んだあの場面、あるいは、それを少し延長したとしても、犠牲者が発見されるその段階まで。もうちょっと遡った方でいうと、あのテロを実行した人たちがその前の数日間どういう足取りであったか、ということまで。つまりテロをした人、あるいはそこで犠牲者になって実行犯と一緒に死んだ人たちが、それまでどういう人生を送っていたかとか、どういう考えを持っていたかとかいうことは、「出来事」というこのくくりからははみだしていることが多い。

最近のメディア状況というべきか、あるいは私たち自身の意識というべきか──つまり皆さんが本を読まないことを含めてですが──そのことと、瞬時に起こった「ちょっと刺激的な出来事」を「出来事」と呼び、それだけを「ジャーナリズム」が「報道」する、ということとなにか対応しているような感じがなくはない。

「環境ジャーナリズムが今日のメディア状況のなかで展開する可能性」という課題

しかし、こういうことをもう少し明確にはっきりと描くことができなければ、「ジャーナリズム」という問題の研究には相当何か抜けているって感じがする。欠落している。というわけで、この一点だけでも、今まで「ある考え方」をしてた、その「考え方」を変えなきゃいけない。「ものの見方」を変えなきゃいけない。……というようなことを、次から次へとノートしなきゃいけないし、しかもそれを曖昧な言い方ではなくて、つきとめたという感じで言わなきゃいけない。これは簡単な課題ではないけれども、そういう課題がある。

そのことは、困ったことに、「講義目的」の中に書いてあるのです。「環境ジャーナリズムが今日のメディア状況の中でどのように展開する可能性があるかを検討する」と。だから前回は、「そこまでは到底いけそうにないけれども、そういう課題があることを覚えておいて下さい」と言いました。相変わらずそういうふうにしか言いようがないんですけれども、「課題」というのは何を意味しているかというと、今言ったようなことです。

メディア状況は、変化してきた、変化しているが……

さらに話は、どうしてそこへ行くのかなと皆さんが不思議に思うようなところへ行きます。今日のメディア状況がいかなるものかということを言うためには、これまでのメディア状況をおさえておく必要がある。少なくとも、それがどうしてこういうふうに変わってきたか、ということを少しは理解できるようにならなければ──あるいは違う言い方をすると変化ということを捉えなければ──ならないんだろうと思います。変化をとらえるというのは……。変化は時間とともに起きるわけですけど、ある一つの状態だけを描いても、変化は描けない。なんかちょっと逆説的ですけども、既に捉えられる状況がある、それを一つの比較の基準として、そこからこういうふうに変わるんだ、というふうに捉えることができる。けれどもまたそれも変わってしまう、というのが変化です。

変化をとらえる──大学での勉強の「常套手段」のひとつについて

さっき、大学での勉強の「常套手段」と言いました。皆さんはあまり重要に思ってないかもしれないけども、勉強には常套手段があります。例えば、皆さんに与えられた課題は「石牟礼道子の方法」でした。なぜその勉強の手段を使うかということが必ずあり、そのことを考えてほしいんですが、考えた上での「常套手段」は、まず石牟礼道子という人を、例えば『人物事典』とか、それから皆さんが比較的よくできるのは、Googleyahoo!か何かで検索する、そうすると山ほど出てくるんだよ。

山ほど出てくる中から、石牟礼道子が書いた本はこういう本がある──書名、そしてそれがいつ出版されたか、出版社はどこか──ということをリストに作り変える。ここまでやれば、もう「手段」というように言ってもいいんだね。ぼくが皆さんを観察したことを言うと、「石牟礼道子の方法」という課題が与えられて──もちろんそれは『苦海浄土』における「石牟礼道子の方法」であったけれども──、そのことを考えようとするためにはまず石牟礼道子の作品リストを作ろうなんて思いついた人は一人もいなかったのかなぁ……ということだよね。

前期には、例えばジョン・ハーシ—はこんな本を書いていた、こんな順番だった、ここでかなり社会的な評価を勝ち得てる、もしその評価を勝ち得ていなかったらあんなセンセーショナルなことは出来なかったであろう、とかいろいろ考えましたね。作家っていうのはやっぱ人間ですから、人間はいろいろ考えてね生きなければならないし、ということも考えましたよね。

他にも勉強の「常套手段」は様々あります。ここで皆さんが教師と学生との関係を、ある意味で共に研究者であると考えていなければ、そういう「常套手段」がいくら提示をされていても、自分でそれを駆使するということには、なかなかならないと思います。

やっと、『沈黙の春』について

さて、今日は『沈黙の春』を読んできたよね? 持ってきた? 出してくれるかな? 『沈黙の春』持って来た人掲げて見せて。(持ってきてない人が多い) プリントした資料を持ってきてない人は……山ほどいる……普通、教師は「ばか野郎」とか言って怒らなければいけない。いささかそういう気力を失いかけていますが……。

日本で、最初はね、『生と死の妙薬』というタイトルで出版されました。生きる、死ぬ。「妙薬」というのは、妙(たえ)なる薬──言葉で表せないほどすばらしい薬──という意味なんだよ。分かった?

出版社は新潮社。これが出版をされたのが──日本でのことですが──1964年だよね。それで、おばかなことを聞きますが、アメリカでSilent Springが本で出版されたのはいつでしょう? 誰か……知らない? イアンターアクティブ・メディア時代の皆さんはそういうことには関心が無いのかも知れませんが、1962年です。その年の9月のことです。出版社はどこでしょう? 書いてある? ない? Rachel L. Carsonとしか書いてないかな? ホートン・ミフリン(Houghton Mifflin)という出版社です。何で?──そんなことはどうでもいいじゃない──と皆さんは思うかも知れませんが、「高校生」だったら全部許してあげますが、大学生は知らなければならない。暗記する必要は無いよ、だけども出版社というのがあって、そうしないとこっち(「みんな」)へは行かないんだよ。そして、いつであったか……。

創造活動には時間がかかること

それから、──これはまた話が戻って混乱するかも知れませんが、ジャーナリストの中で創造活動が行われるわけですよね──石牟礼道子さんは、何年間かけて『苦界浄土』を書いたのか。そういうことを考えてみよう。それで、レイチェル・カーソンは何年間かけたか。どこかにそんなこと書いてあるかな。書いてないかもしれないね。……かもしれないけど、我々が注目しなければいけないのは何かというと、この「ジャーナリズム」というプロセスなんだよね。ジャーナリズムにはこういうプロセスがある。このプロセスが何かを考えかければいけない。そうすると、何年間かかったのだろうかという問題があるでしょう。皆さんはその本を一週間かけても読めなかったのかも知れない。ある人は一日で読めたのかも知れない。つまり、「長さ」があるんですよ。その「長さ」っていうのは、いわば物理的に計ることが出来る時間。この本を作り出すために物理的時間としてかかった長さはどれくらいだったのだろうか、ということは当然考えることのできるテーマです。

もう少し言うと、まだ皆さんは死ぬなんて考えないかもしれない、でも人間は死ぬんです。いつ死ぬか分からないかも知れないですけど、平均的な長さを皆さんが生きるとして、そのうちのどれだけの時間をジャーナリズムの仕事にかけるのか──他の仕事でもいいのですが──そういうことを考えないわけにはいかない。

それからまた違うことを言いますが──何でいろいろ違うことを言うのかって?──これは簡単です。つまり皆さんは「考え方」そのものを変えたり、あるいはジャーナリズムということを考えようとしている。ジャーナリズムを考える、あるいは分析するという行為ですが、その分析をするためにはどういう切り口で分析をするのか、何を分析しようとするのか──「側面」と言っていいし、あるいは「ものさし」と言ってもいい──それが必要だよね。

例えば、ジャーナリストってやつがいるんだということに気がつくと、それがどんな人物であるのかを調べたり──経歴ってやつだよね──それから、どういう作品を書いているのか、どういう仕事をしてきたのか、どういう出版社と手を組んでいたのか──全部重要だよな。そして、たとえば、今たどり着いたのは、「時間」というような問題でした。

ジャーナリストの仕事は、闘いであること

それからもう一つ考えてほしいことは、例えば『苦海浄土』という本は、それ自体が、社会的な争いだよね? 戦いだよね? 武力を用いての戦争ではないけれども、社会的な衝突を起こしたわけですよね? あるいは、既に起きつつある衝突の中に、さらにその衝突を鮮明にするというようなことがあったと思います。片一方にあるのは、皆さんが知っているようにチッソという企業だよね。チッソという企業にはたくさん味方がいたということが、読むと良くわかる。どの程度の戦いであったか、ということを想像しなければならない。いわば、水俣で犠牲者を出しながら、チッソはなぜ操業を続けたのか。あるいはチッソには従業員、社員がいて、その人たちは給料を受け取ってるんだよね。あたりまえのことです。でも、労働者の給料のためだけに水俣病があれほど続いた、深刻化したというのは、考えてみておかしい。であるとすれば、水俣とはどういう戦いだったのか?

レイチェル・カーソンの闘い

今度は、『沈黙の春』はどういう闘いだったのか。もし皆さんが、農薬の被害とか農薬の持っている危険性をただ訴えたものというふうに捉え、ただ農薬の危険性を訴えた本ですよと受け取ってたら、それはやっぱり違うよね。戦争してたんだよね。……という問題があります。

そこの問題にもう少し絞り込んで言っておきます。一番最初に『沈黙の春』が世の中に姿をあらわしたのは、『ニューヨーカー』という「雑誌」だったんです。1962年。本で出るのは9月ですが、『ニューヨーカー』に出たのは1962年の6月16日。それから6月23日、それから6月30日の3つの号に連続してSilent Springとして載ります。これは後から本が出るわけなんですが、分量的には9月に出る本の3分の1になる──「要約版」てやつかな──。その要約を3回に分けて『ニューヨーカー』は載せたということですね。まず雑誌に載せてから単行本になるというのはそんなに珍しいことではありません。これはかなり徹底してるね。どういう風に徹底しているかはあとで説明しますが、日本でもあります。例えば、連載誌・新聞で連載小説ってあるでしょ。連載が、例えば半年、1年とあるとすると、次は「本」になって出るわけです。雑誌に毎月毎月かなりの長さの原稿を書いて、その雑誌の連載が終わると今度は出版社から単行本ででるとということがよくあります。

物書きには、売れる、売れないはものすごく重要なことです。ここの問題は売れるか売れないか。売れない物書きはどうするか。あっちこっちの雑誌に「書いたもの」を持って行く。自力で出版計画を立てようが無いからなんですね。もちろん、後になって、やっぱりもうそろそろ人生も終わりそうだから、それを何とか本にして出しておきたいという場合もあるでしょう。その他様々な理由で本にして出版する場合があります。

レイチェル・カーソンの場合、さっき「徹底している」といったのは、最初から「本にして出す」ということが計画をされていたからです。ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』の場合もそうだったと思われます。Silent Springの場合にも、非常にはっきりとそうでした。ホートン・ミフリン社から、9月ぐらいから本にして出版するために、カーソンはずーっと原稿を書いてたんですよね。その原稿を書いていよいよ出版できるという段取りになったときに『ニューヨーカー』で、いわゆる「簡略版」というか「要約版」を3回に分けて出した。僕は「カーソンが」という主語を使いましたが、「ニューヨーカー誌が」そういうふうに考えたんだよね。雑誌がそういうふうに考えていた。あるいは、ホートン・ミフリンという出版社がそういう筋書きを考えた。みんな考えていた。

「常套手段」としての作品リストの効用

それで今度は作品リストのとこに戻ってくると、どういうことになるかな? 作品リスト的なものをちょっとは部分的にでも作った人がいるかい? レイチェル・カーソンには他にどんなものがある? ないですか? 他にどんなものがあるの?『センス・オブ・ワンダー』The Sense of Wonderってものがあるよね。それから、『われらを巡る海』Sea Around Us、そして『潮風の下で』Under the Sea-Windっていうのがあるよね。ほかにもいくつかあります。

そして、──これから言うことは重要だからメモするといいと思いますが──1907年にレイチェル・カーソンは生まれています。ペンシルバニア州で生まれたんだよね。それで、11歳ぐらいのとき──1918年ですが、子供向けの雑誌があったのですが、“A battle in the cloud”(雲の中の戦争)というものを書いて、その雑誌に載りました。つまり、小さいときからものを書くのが好きだったんだね。それから、1925年には、ペンシルバニア州のピッツバーグの女子大に入学をします。つまり、皆さんぐらいの年齢の時には、最初は英語専攻──つまり「文学」とかを専攻したのですが、「生物学」に転向したんです。1929年には卒業します。それから、ジョン・ホプキンス大学で大学院の学生になるんだね。そのときの専攻が動物学だった。さて、1929年という年を考えてみると、もうだいぶ前、僕が生まれる前です。──そのころの大学とか、社会の状態をいろいろ想像してみるといいのですが──1930年には大恐慌があるね。大変な不況が起きます。そういう時代でした。で、彼女はその年には研究所の助手になるんだね。助手になると給料がもらえますから、ホプキンス大学はメリーランド州にありましたが、そこへお母さんとか妹たちを呼び寄せます。今ふうに言うと、アルバイト的な仕事──大学の「非常勤講師」みたいなこと──をしながらやっておりましたが、やがて1932年には動物学の修士号をとります。1935年、合衆国政府──日本で言うと農水省にあたるところですが──「漁業局」の仕事をするようになる。どんな仕事かというと、ラジオのシナリオ──いわゆる広報番組でしょうね──を書く仕事をします。1937年に、Underseaという本を書きます。本が出版されます。出版される前にこれは、『アトランティック・マンスリー』という雑誌に“Under the Sea Wind”という文章を出すんだね。これが大変評判を呼びます。ほかの雑誌からも記事の依頼があって、カーソンがもの書きとして認められてくるというのがこの時代です。1941年に、『潮風の下で』Under the Sea Windという本を出しています。この1941年というのは、太平洋戦争がはじまるんだね。結局ほとんど売れなかった。1945年、Reader’s Digest『リーダーズ・ダイジェスト』という雑誌があります──今でもあるのかな?これはアメリカの全国的に販売網を持ってる雑誌。ここに、DDTについて書きたいといったのですが、出版社は関心を示さなかった。1945年のことです。

そのころ、書こうと考えている作品がありました。Sea Around Us『われらを巡る海』というのがありますが、これを書こうとします。ずいぶん長い時間かけて書いてるんですが、1951年に『ニューヨーカー』Sea Around Usの一部を出します。これがすごかったんですね。まず、『ニューヨークタイムズ』という新聞がありますが、この大新聞がこれは大変いい本だと批評を書くんですね。それで、約半年間の間ずっとベストセラーの上位にランクをされていました。それで、最初はぜんぜん売れなかったUnder the Sea Windをもう一度出した。これも売れて大ヒットした。これが1952年のことです。それで、いろんな大学が名誉博士号を出すということがありました。こんどは1955年、海シリーズだよね、The Edge of the Sea『海辺』というのを出して、これもその年に出版された本の中ではトップにランクされるということが起きます。

ここまでの経歴が、実はものすごく重要だと考えられます。1958年のことですが、友達から手紙が来る。それは別のところにも出されていた手紙なんですが、マサチューセッツ州に住むオルガー・ハキンスという女性から「自分の土地を鳥獣保護区にしてた、そこで鳥がたくさん死んだ」という手紙でした。殺虫剤の散布があって虫が死んだというよりは、鳥が死んでしまったという出来事がありました。これが1958年。今、皆さんが読んでいる『沈黙の春』はそれから書き始められたわけです。1960年には、ガンであるということが分かります。乳がんの手術をして乳房を切除しました。その1960年にはお母さんも死にます。という、なかなか人生の中では大変な出来事があったわけですけれども、それからさらに2年後の1962年『ニューヨーカー』に、まず3回連続で彼女の記事が載るんです。という順番になっています。

出版社にとっては、これは確実に売れます。『ニューヨーカー』もホートン・ミフリンもレイチェル・カーソン自身も、どうやってここのプロセスを作るか、乗り越えるか、ここの仕掛けをちゃんと考えたわけですね。

『沈黙の春』と化学産業界

さあ、振り返ってみよう。「石牟礼道子」さんの場合は、どうもそういう状況はなかった。ただし、日本にそういう状況がなかったというわけではなくて、石牟礼道子さん自身に、例えば、レイチェル・カーソンのような経歴がなかったということがあるよね。『黒い雨』のことを思い出してみるとわかると思いますが、なぜ井伏鱒二が書かなきゃならないのか、ということをいろいろ考えてみてください。どれくらいたくさんの人に、どれぐらい読んでもらえるか? そこだよね、問題は。だから、アフガニスタンでこんなことがあったっていうことをいくら知っていても、ここ(「ジャーナリスト」から「みんな」への回路)が成り立たなかったらどうにもならない。

チッソの話を最初にしましたが、レイチェル・カーソンは、個別的にどこかの会社が工業排水の垂れ流しをして、その結果何かが起こったということに焦点を当てて書いたのではなくて、殺虫剤──農薬──についてだよね。それから除草剤、その他農業に使うような化学物質の製造にターゲットがある。そうすると、アメリカの化学会社を全部敵にまわさないといけない。で、彼女は1958年には自分がしてることがどういう戦争であるかをよく理解していました。そういうことは詳しくどこかに書いてあるわけではないですが、『ニューヨーカー』に記事を出す前に、既にホートン・ミフリン社とは出版の契約があった。そのことは『ニューヨーカー』も知ってたに違いない。いよいよ『ニューヨーカー』に記事を出すことになる前に──どれぐらい前かはっきりしないんですが──、ホートン・ミフリン社の弁護士と相談をします。どういう相談かというと、必ずや化学会社が束になって反撃に出るだろう……で、「反撃」はどこに向けられるだろうか? 当然のことですけど、「みんな」に伝わらないようにする。伝わらないようにするにはどうしたらいいか。ジャーナリストを殺してしまえばいいかもしれないけど、殺しても出版されたら具合悪い。出版されないように化学会社は一生懸命やった。アメリカだけじゃなくて、いわゆる産業サイド、企業サイドが、例えばレイチェル・カーソンに代表されるような環境ジャーナリズムをどうやってつぶすか、ということの大掛かりな例としては一番最初のケースだと思います。レイチェル・カーソンは弁護士と相談をして、例えば何が起こるかわかりません──出版社に火をつけられたりするかもしれないし、「名誉毀損」で訴えられるかもしれない──その場合カーソン自身が損害賠償を請求されないという契約書をかわすというようなことをしました。

いま言ったことも、全部「方法」の問題です。ジャーナリズムの過程のどこに焦点をあわせるか、それぞれの部分に方法があるということを皆さんはいろいろ考えてみてください。次回は、今回の続きをちょこっとだけやりますが、『公害原論』についてやりたいと思います。

授業日: 2002年10月1日; テープおこしをした学生:寺町歩