第12回 前期授業の反省と後期授業にむかうささやかな展望

手前右から、『苦海浄土』(1972)の石牟礼道子、『谷中村滅亡史』(1907)の荒畑寒村、『公害原論』(1971)の宇井純。

東京大学の都市工学科の助手であった宇井純は、1970年大学を一般の人々に開放する「自主講座・公害原論」を開き、悪質な公害企業とその「御用学者」を批判し続けた。写真は1976年10月の自主講座6周年記念講演のときのもの。手前右から、『苦海浄土』(1972)の石牟礼道子、『谷中村滅亡史』(1907)の荒畑寒村、『公害原論』(1971)の宇井純。

『[現代日本]朝日人物事典』(1990)より


■ふたつの新聞のトップ記事から

たとえばこういう新聞をみなさん読んでると思いますが、2日前の七夕の日曜日の読売新聞のトップは、「CO2排出権、カザフから取得契約、日本 年 六万二千トン」です。みなさんは、こういう記事を見たら、一言二言いえないと具合が悪いよね。環境社会学科だからね、なにか言わなければならないでしょう。そして、いろいろ議論をしなきゃいけないことだと思います。で、同じ日曜日の朝日新聞の朝刊の第一面トップは──原爆症の認定の方法が変わったんですね。それで、原爆症であることを認めてほしい、という申請がいっせいに大量に起こるであろう。「大量」と言っても実はたいした数ではないんですが。これもやっぱり、みなさんは一言二言、言わなきゃならないですね。しかし、「“何か言え”ったって分かんない」、という感じを持ってるんじゃないかなと思います。この壁をどうやって乗り越えるか、バカにできない課題だと思います。皆さん達だけじゃなく僕も実はそうなんですが、かなりの「壁」がある。だけどね、「壁」があるとばかり言っていたら負けるからね、知ってるような顔をして、それでひそかに調べるんだよね。そういう方法が、たぶんみなさんがとるべき方法だろうなと僕は思います。

で、まず、その「排出権」という言葉を聞いたことがないという人、ちょっと手を挙げごらん。(幾人かの手が挙がる)おー、正直でいいなー。じゃあ「京都議定書」という言葉を聞いたことがない、という人、手を挙げてごらん。(手は挙がらない)これは、みんな聞いてるんだよね。「京都議定書」は知ってる、だけど「排出権」という言葉の意味は分からないという人には「京都議定書」の中身がわからない。そういう問題です、「排出権」というのは。まず、「権」というのは「権利」ということですよね? では「排出する権利」を認めるというのはどういうことでしょうか? まずここでつまずく人がいることでしょう。

■どうやって炭酸ガスの排出量が分かるのか?

カザフスタンと日本がこれから炭酸ガス排出権取引きの協定を結ぼう、あるいは、実施しようとしている。で、その協定の中身が何かというと──カザフスタンに現在ある火力発電所があります。この火力発電所は、化石燃料を使っていますから当然、炭酸ガスがたくさん出てきます。日本の火力発電所ももちろん炭酸ガスをたくさん出しています。量的に言うと、日本のほうがはるかに多い。……日本という一つの国家社会が、一年間で排出している炭酸ガスの量が測れることになってます。どうやって測ると思う? 大気中の炭酸ガスの内日本が排出したものをどうにかして機械で測るんだろうか? 大気というのは、中国のほうから流れてきたり、シベリアの方から流れてきたりするでしょ。もう、混ざっちゃってんもんね。わかんない。

日本という社会が経済活動をするなかで、炭酸ガスを排出している。たとえば、火力発電所は石油や天然ガスを燃やす。するとその中で、炭素が酸素と結合する。「燃やす」ということは、そういうことだよね。炭素と酸素の結合。それで、炭酸ガスが出るわけでしょ。だから、どれぐらいの石油を燃やしたか、ということが分かれば、あとは、どれぐらい効率よく燃やしたか、ということがわかれば、あるいは、もう一つは、炭酸ガスをどうやって工場の外、あるいは発電所の外へ排出していくかが分かれば、どれくらいの量の炭酸ガスが排出されたか計算できるよね。基本的にはそういう計算によって、日本はどれぐらい炭酸ガスを排出したか、ということが決められたんです。そして日本の削減目標は、1990年をかりに「100」とすると2010年──2010年てことは2008年から2012年までの間を平均して採るわけですが──には「マイナス6.0」つまり6%減らしなさいと。知ってるよね? それで今は2002年だから、この1990年の基準からどんどんどんどん下がってきているだろうというふうに期待したいんですが、実はそんなことはなくてですね、逆にどんどん上がってもう120近いところまで来てるんじゃないかな。それをさらに94まで減らさなきゃいけないから、実はとんでもない離れ業をしなくてはならないのですが、この6%減らすうちの1.6%については「排出権取引」ということでまかなってよろしい、というふうに決められているんです。

■「排出権取引」?

「排出権取引」とは、どういうことか、さっき途中まで言いかけたけど、例えばカザフスタンの火力発電所は、日本の火力発電所ほど技術が進んでいないので、たくさん炭酸ガスを外へ出している。で、この外へ出る炭酸ガスの量を減らす技術を日本がカザフスタンに教えてあげる。それで減った分量は日本の削減量として考えてよいということだね。先ほど書かれていたように、海外で減らした1900万tを日本が減らしたというふうに考えていいよと。1900万tは、1990年の日本の炭酸ガス排出量の1.6%です。で、カザフスタンとの間で契約が成立した炭酸ガスのt数は、6万2000t──ケタが全然違うね。で、あとどれくらいこういう契約をしなければならないのかっていう問題があります。

で、このことを考えようと思ったら、たとえばまず──6%から1.6%を引いた4.4%は別の方法で減らさなきゃならない。その4.4%っていうのは何tになるか、1.6%が1,900万tだから計算したらわかるね。誰にも教えてもらわなくてもできますよね。 新聞記事を見たら、まずそういうことをしてみる。それからさらに──90年から減らしていって2010年にはこういうふうにしたいという目標がある。で、その進行状況、つまり現実はどうなっているのかということを調べてみるといいですね。調べてみると分かるのは、恐ろしいことに、2002年にはじつはもう120%くらいになっているんだよ。「ここから減らさなきゃなんないんだから、こんなんじゃ間に合わないんじゃないか」とか、いろんなこと思うようになるよね。つまり、こうやって、何かやっぱり自分がものも言えるようにしなきゃしゃーない。

■原爆症の認定方式が変わった?

それから今度は朝日新聞の方に行きましょう。まず「認定」ということはどういうことか? ある人の病気が原爆が投下された時の被爆によるものだということが認められないといけないんだね。それを認めるのを「認定」といいますが、誰が認めるかというと、政府が認めることになる。「認定」ということは、つまり、国家社会がある種の保証をするんだよね。社会の責任として、この人たちが病気になったのは、保障してあげないといけない。そういう「保障してあげないといけない」という考えがあるから、「認定」するのですが、どうしたら認定できるのか、という大問題があります。もうすでにみなさんは、環境社会学科のほかの授業の中で、日本の各地で起こった公害が結局は保障を獲得するということによって一応の決着を見たりする、ということを勉強してきたよね。で、それは被害にあって、例えば体が動かなくなってしまった人、それからさらには、そのことによって亡くなってしまう人たちにとっては、やはり社会が保障するのが当然だということになる。そうでなければその人たちの生活、あるいは残された人たちの生活は本当にとんでもないことになるでしょう。しかしこの「認定」というものは大変な問題をはらんでおります。とりわけ、放射線被曝によるいろいろな病気の発生は、体の中に放射性物質が残らない場合が山ほどある。例えば、原爆が落ちたその瞬間に、爆心地から2キロ以内の地点に、いたか、いなかったか、ということをひとつの基準にするんだね。じゃあ、2キロ5メートルの地点にいる人はどうなるんや、とか(笑)。これはどう考えても、誤解を恐れずに言いますが「ジャーナリズム的な観点」から見たら、その2キロメートルというところに線を引くことが納得できない。そんなのおかしいじゃないかと言う。だけど、線を引かなかったらどうするのかっていうことも考えなければなりません。国家社会の場合にはそういう観念が当然働くとも思われますが、しかし逆にそんな論理を働かせないような方法もあるんじゃないか……、ということをあれこれあれこれいろいろ考えた。いまは非常に大雑把な言い方しかしませんけれども、その原爆症の「認定」の方法を変える、ということがあった。で、それならば再び申請しようという人が、今回は70人ほどいるようです。実際にそういう立場にいる人は、ほんとはもっとたくさんいるでしょう。

それから、もっとえげつないことを言えば、もうすでにたくさんの人が死んでしまった──つまり、原爆症の「認定」を受けずに、病気のために死んでしまった人は本当に山ほどたくさんいる──ということが背景にあります。さらに「認定方法が変わったから」といって、申請する70人の人たちすべてに「認定」が下りるわけでは、必ずしもないでしょう。「認定」されなければ集団訴訟をする、というふうに考えて申請をする、ということが新聞の記事の中身でした。

このことの背後にある大問題は、「科学」とか、あるいは「科学者」とか、この場合「医者」、あるいは「役人」とか、その人たちがとる「客観的方法」というふうに呼ばれるものが、本当に「客観的」なのか、また「客観的」ではあっても、何か重大な欠陥があるのではないかとか、抜けているのではないかとか、そういう問題があるよね。僕らが見た資料の中では……。ウイリアム・ローレンスという人の名前を覚えていますか? バーチェットの書いた本の中にちょこっと出てくるよね。そのローレンスという人は、今は新聞記者ですが、原子力開発の側についた新聞記者でした。ローレンスという人が、一貫して1945年以降したことは、核実験をした場所、つまりアメリカの砂漠であったりするわけですが、その核実験の風下で、いわゆる「死の灰」──フォールアウト falloutといいますが、核実験の雲が流れてきて、いろんなものが風下に降っちゃうんだよね。降下物──「死の灰」を浴びた人たちがそのせいで自分がガンになった、などといろんなことを言っても、先ほど挙げた種類の人たちは、それは核実験とは何の関係も無いという主張を繰り返します。証拠がないだろう、と。その問題と、この日本での原爆症の認定の問題とがぴったりと重なり合います。……というようなことが、朝日新聞記事の一面トップを飾りました。

で、これは環境ジャーナリズムの本論ではないけれども、明らかに関係していることだよね。それで繰り返し言いますけれど、「“ジャーナリズム”がいったい何なのかわからない、自分はもう負け犬や」というふうにならないように、各自で食いつく方法を開発してほしい。たいしたことはないんです。まず「記事を読む」ということからやったらいいんだよね。で、その記事の中で分からないことがあったら、それを分かってそうな人に、食い下がって聞くんだよ、うるさがられるくらいにね。そういうことをしてください。あるいは「そんなこと調べたら分かる」ということもたくさんあります。そういう作業をやっぱりみなさんの中でするようにして下さい。

■前期授業でやり残したこと

それでは「環境ジャーナリズム」の本論に戻ろうかな。この授業は後期になると、やっぱりペースアップをしなければならない。ものすごいペースアップをしなきゃいけない感じがします。しかし、前期にはいささか「原子爆弾をめぐるジャーナリズム」ばかりやりましたけれど、そのことによって少しはジャーナリズムの幅も分かっただろうし、それから、なぜジャーナリズムがあるのかっていうことも分かったに違いない。あるいは「ジャーナリズム」というものがないとやっぱりこれは困る、ないととんでもないなというのもわかったと思います。まあ、無駄ではなかったという、自己正当化をして(笑)……。それで後期に入ったら何をしたいかとなるんですが、前期のうちにやるべきことなのにやってないことが、三つほどありました。

1.「足尾鉱毒事件をめぐるジャーナリズム」は、「ジャーナリズム」を学ぶ資料の宝庫だった

ひとつは「足尾鉱毒事件をめぐるジャーナリズム」。「足尾鉱毒事件」は明治にあったのですけれど、そのことは今でもジャーナリズムの話題のなかで、テーマになって続いている。これもやりたかった。その論点のひとつは、明治のジャーナリズムがどういうものであったかということ。あるいは、その時のジャーナリズムを取り巻いていた状況──誰かの言葉を借りて言うとですね、「ジャーナリズムが働かない状況」というのがある。そのことが分かるような例でもある。それから一口にジャーナリズムといってもですね、実にいろいろな視点があったし、ありえた。今の言葉でいう、生態学的なものももちろんあったし、それから病気の原因が鉱毒であることをどういうふうにしたら追求できるかという、たとえば医学者あるいは農学者たちの仕事がある。その仕事がどういうふうに世間に伝えられるかというモデルもそこにあります。それからさらに、これが一番重要というか大きい括りになりますけれど、住んでいた人たち、被害にあった人たちが、どういう目に遭ったか──これはひとつの村がそのことによって強制的にそこから追い出されたんだね。谷中村という村が強制的になくなってしまった。で、それを伝える仕事は当然ながら、ひとつの大きな政治的な意見を表明することになりました。つまり中央政府と対決しなきゃいけない──そういうジャーナリズムが明治期にあった。で、前期にそれをやろうと思っていたけれどもできなかった。これは後期にまわすこともできないんですね。後期にまわせないので、皆さん各自色々本を読んでおいてください。どんな本があるかってことは、前期の初めに言ったよね。

環境ジャーナリズム2001の第一回、第二回授業で、『谷中村滅亡史』について触れていますので、参照してください。

2.『苦海浄土』について、もっとやりたかった

それからその次ですが、『苦海浄土』については資料を配っただけで終わっちゃってるよね。これはね、やりたいんですよ(笑)それで、やりたいけれども、やっぱりみなさんが読んでないとさっさと進まないのでね、夏休み中に必ず手に入れて読む。講談社文庫、石牟礼道子の『苦海浄土』、552円。ちょっと値上がりしたんだ。600円位で買えるんですから、これは買って読んでください。

3.『公害原論』をやらないわけにはいかない。

その次に、宇井純の『公害原論』。これもここに書かなくても皆さんの持ってる資料中にあると思いますが、亜紀書房というところから、『公害原論』、1、2、3巻まであります。別巻もあるのかな。3巻か4巻ありますが、1巻だけを扱います。これはたぶん手に入れることが難しいので皆さんに買って読めとは言いませんが、これはやらないわけにいかないのでやります。

前期にやり残したことは、色々ありますが、本でいうと、足尾鉱毒事件をめぐるもの、つまり荒畑寒村の『谷中村滅亡史』は、やり残してしまった。石牟礼道子の『苦海浄土』はやり残したけれども後期にやるので、これはみなさんが買って入手して読まなくてはいけない。それから、宇井純の『公害原論』については、後期に持ち越してやります、ということだね。

■「後期」の先触れを、少し

あとの後期の予定は、これは当初予定してあるとおりを、いささか急ぎ足でやろうと思います。現時点で「環境ジャーナリズム」って言われているようなものをできるだけ幅広くやりたいと思っています。

『苦海浄土』それで、今日の最後になるんだけど、皆さんもし『苦海浄土』を持っていたら、ちょっと目次を見てください。第一章「椿の海」。資料が渡っているのは、この第一章についての分ですね。第二章は「不知火沿岸漁民」。第三章は「雪女きき書き」、第四章「雨の魚」、第五章「地の魚」、第六章「とんとん村」、第七章は「昭和四十三年」。それぞれ、その中にまた節があり、色々なタイトルのついたものがあります。そして「あとがき」があって、「改稿に当って」というもう一つの「あとがき」があって、石牟礼道子についての解説文のようなものが、渡辺京二という人によって書かれています。そのあとに「資料」、「紛争調停案契約書」、「地図」、「八代海不知火海沿岸地図」、それから「水俣病患者の発生地域」というふうに書かれている。……というような構成です。

まず、「椿の海」というところをちょっと見てください。

年に一度か二度、台風でもやって来ぬかぎり、波立つこともない小さな入江を囲んで、湯堂部落がある。

湯堂湾は、こそばゆいまぶたのようなさざ波の上に、小さな舟や鰯籠などを浮かべていた。……

鰯籠なんて知らないって人もいるでしょうけれども、でもなにか想像しないとしょうがないよね。想像してみてください。

子どもたちは真っ裸で、舟から舟へ飛び移ったり、……

この「舟から舟へ」というのも想像してみてください。

海の中にどぼんと落ち込んでみたりして、遊ぶのだった。

これは、ちょっとイメージできるよね。

夏は、そんな子どもたちのあげる声が、蜜柑畑や、夾竹桃や、ぐるぐるの瘤を持った大きな櫨の木や、石垣の間をのぼって、家々にきこえてくるのである。

櫨(はぜ)の木なんて知ってる人いる? 知らないよね。知らないということをちゃんと自覚した上で、でもこんなんじゃないかなとかね、瘤があるんだなー、「ぐるぐるの瘤」ってとか考えながら、まぁ読むんだよな。さあ、それでしかし、この後で、「石垣の間をのぼって家々に聞こえてくる」というところで、みなさんのなかには、さっきの子供たちの遊んでいる、そういう水のあるところからのぼってくる、上の方に石垣がずーっとつながってて、そこを声がくるんだなーという、ある種の遠近感を持った風景が一挙に出てくるでしょ。こういうのを「文章力」っていうんです(笑)。

村のいちばん低いところ、舟からあがればとっつきの段丘の根に、……

根っていうのは、根っこ、要するにふもとってことかな。

古い、大きな共同井戸──洗場がある。……

これまた不思議なもんだよね。これをね、映画でやるなら物凄く間の抜けたことをしないとこういうふうにならない。今、わずか一行でもってある種の転移、トランスポーテーションをしたわけだね。

四角い広々とした井戸の、……

ほら、カメラは井戸の中に入っちゃったんだよ。

石の壁面には苔の陰に小さなゾナ魚や、赤く可憐なカニが遊んでいた。……

こういう、つまり遠近のある風景は読者が──これは不思議だよね。「遠近」が風景の中って言ったけど、実は読者が──自分の中でそういう風景を、読みながら作っていくわけだよね。こういうことは、ジャーナリズムの事実とはどういう関係があるのか(笑)。だけどジャーナリストは、例えばこういうようにしてですね、風景描写をしなきゃしかたないんだよ。そういうところがここだよね。

このようなカニの棲む井戸は、やわらかな味の岩清水が湧くにちがいなかった。

「湧くに違いなかった」……つまり湧くんじゃないの、とか思いますよね。そうすると今度は、単純にそこに客観的な風景が提示されるだけではなくて、著者あるいは読者自身がね、いろんなことを思う、そういうことまでここに書き込まれています。

ここらあたりは、海の底にも、泉が湧くのである。

これは、カメラだったら、急に海の底のほうへ振ってはいけない。しかし、私たちのいわば想像力、それから物を書く人の想像力は、こういうふうに──「イメージ」と僕らは呼んでいますが──「イメージ」が読む人、書く人の心の中で自在に形成されるということがあるね。

今は使わない水の底に、……

今度はまた井戸に戻ったね。

井戸のゴリが、……

「ゴリ」っていうこれはね、たぶん「澱(おり)」、水垢かな?

椿の花や、舟釘の形をして累々と沈んでいた。

「舟釘」ってなんでしょうね? ぼくも「舟釘」っていうのがなんだか知らない。けどね、想像しちゃうんだよね。こういうものじゃないかな、とか。それで、だけども、新聞を読むときと同じでね、なんかこうだろうという仮説を立てながらでないと、読めないですよ。そういうもんなんです。あとで修正されても構わない。しかし、文章というもの、概ね方向性は、二手ある。全く「観念」を表すような文章、つまり、「削減率」とか「排出権」とかで書かれているのは、「観念」の世界ですね。そういう「観念」でもって議論を持つような方向も、明らかに、言葉にはあります。しかし、もう一方には、今我々が読んでるこれみたいに、「イメージ」の方向というものがある。どっちかだけでなければならないということは決してないですが、それ以外に僕らが使う言葉ってなんかあるかな。ない? 僕がこうやってしゃべってることは、「観念」の世界だね。「ジャーナリズムの観念」。しかし、そのジャーナリズム自身は「観念」だけでできあがっているわけでもない。こういうわけで更に続けますと、

井戸の上の崖から、樹齢も定かならぬ椿の古樹が、……

「樹齢の定かでない」といわれても読者はあまり困らない。

うち重なりながら、……

「うち重なり」ってどんなのだ(笑)……それが何本も生えてんだよね。それが、一つがまたその上に枝を伸ばして、重なっているような感じなんでしょうね。

洗場や、その前の広場をおおっていた。黒々とした葉や、まがりくねってのびている枝は、その根に割れた岩を抱き、年老いた精をはなっていて、……

どんな「精」? 考えようによっては、おかしいよね。「なんだか超自然的なものを想定しているんじゃないか」という批判を皆さんここで入れるかもしれない。でもそうでもないみたいだね。

その下影はいつも涼しく、ひっそりとしていた。井戸も椿も、おのれの歳月のみならず、この村のよわいを語っていた。

さあ、ここまでのいわば風景、しかもその風景は非常に小さな微細なところから鳥瞰図的な大きなものまで、それからその風景を見ている人間が視覚的感覚以上のものを持ってはじめて読み取れるようなことまで、全部書き込んでしまったわけですね。

湯堂部落の入り江の近くに、薩摩境、肥後藩の陸口番所、水口番所があったはずであった。……

さあ、歴史地理になってきましたね。

入り江の外は不知火海であり、……

今度我々の視線はさっき見ていた入り江の外に向かうことになります。で、水平線の向こうに行くんだね。

漁師たちは、

「よんべは、御所ノ浦泊りで、朝のベタ凪の間に、ひとはしりで戻って来つけた」

などという。

ここで、漁師が出てくると同時に、その海と漁師たちの関係、あるいは距離、ということがここに書き込まれている。

御所ノ浦は、目の前にある天草である。……

見えるんだね。その「天草」に向いて、今度は方角を言ってますね。

その天草にむいて体のむきを左にすると、陸路も海路も薩摩と交わりあってしまうのである。

天草がこっちにある、それを左に向く、90度の関係。つまり、南の方は薩摩。「陸路も海路も薩摩とまじりわりあってしまう……」

入り江の向こう側が茂道部落、茂道のはしっこに、洗濯川のような溝川が流れ、これが県境、……

県の境だね。

「神の川」であり、河原の石に乗って米のとぎ汁を流せば、越境してしまう水のそちら側の家では、かっきりと鹿児島弁を使うのだった。

米のとぎ汁は川を流れて向こう側の人のところへ行くが、そこでは鹿児島弁でしゃべってる。こういうふうな解釈はだいたいわかる。その次、

茂道を超えて鹿児島県出水市米ノ津、そして熊本県側へ、国道三号線沿いに茂道、袋、湯堂、出月、月ノ浦と来て、水俣病多発地帯が広がり、百聞の港に入る。……

ここではじめて「水俣病」という言葉が出てくる。それから

百聞から水俣の市街に入り、百聞港に、新日窒水俣工場の工場排水口がある。

こういうふうになってきて、それで、お話はどんどん先へ行くのです。こういう表現の方法を石牟礼道子は使う。普通これは「文学」だろうと言われる方法です。で、こういう語り口あるいは文体が、ジャーナリズムの文体であっていけないということはどこにもないと私は思います。で、あとは後期のお楽しみ。

授業日: 2002年7月9日; テープ担当学生:福井康晴、藤井沙織、法水咲恵、星明花