第4回 われわれが広島・長崎を知るのはジャーナリズムによってであることと、ジャーナリストにとっての分水嶺の話

ジョン・ハーシーとウィルフレッド・バーチェットたぶん従軍記者だった頃のジョン・ハーシーは、ジャーナリズムの世界の中で、ある種の「優等生」だったと思います。後に「ヒロシマ」の載った『ニューヨーカー』30万部を1日にして売り尽くしてしまう……。その出来事のあと、やはり彼は変わったのではないでしょうか? 金儲けや大衆受けめざすでもなく、かといって、大変な文学作品を書くことでもなかった。それはいったい彼にとってどういう変化だったのでしょうか。

写真:ジョン・ハーシー(左下)
ウィルフレッド・バーチェット(右上)

ただ従軍記者としての仕事をまっとうするだけで、ピューリッツア賞を得られる世界。そんな世界に背を向けたジョン・ハーシーは、やはり私たちと同様に血の通った人間にほかならない。彼の人生を変えた出来事を追うことは、私たちの人生を変えることにつながるだろう。


■資料・文献のリストをもとにレポートを書く

中尾ハジメ:今まで渡してある資料がありますね? そのなかにジョン・ハーシーの『ヒロシマ』があるでしょ? これが出版されたのが1946年です。それから、蜂谷さんの『ヒロシマ日記』があるね。これが出版されたのは、ハーシーの『ヒロシマ』よりも後です。それから、皆さんにお渡しした資料は・・・(学生が中尾ハジメの資料確認に追いついていない様子を見て)資料のリストを作っておきなさいって言ったでしょ? 作ってないの? 早く作れよ。「文献のリスト」や「資料のリスト」が必要なので、作ってください。そしてその「資料リスト」には、なにも僕がこの授業で渡したものしか載せてはいけないということはないんです。自分たちが調べて、これはいいなと考えたものもあるといいね。できればリストだけではなくて、それぞれの資料を、自分はどのように読んだのか、そこから何を読み取ったのか、ということをノートする必要があるね。ほかにも資料はいろいろあったとは思いますが・・・。それで、来週までに宿題をやってきて、レポートを提出すること!

レポートの課題を言います。その課題の一つは、お渡しした資料たちを見てもらえると分かるのですが、資料には時間的な幅があります。つまり古い資料と新しい資料がありますね。バーチェットなんかは1970年代かな? 加えてまだこれから紹介をするものもありますが、いままでのところで、この「時間的な幅」についてお話ししたいと思います。広島・長崎に原爆が落ち、それは「報道」あるいは「ジャーナリズム」の仕事になって、世間に伝わりましたね。今、僕たちは、戦後57年たって振り返る立場からみると、それは、全部が一つの流れのことのように思えるかもしれないし、それに矛盾も何も感じないと思います。ところが、逆に、45年の8月に生きていた人は、広島をどういうふうにとらえたんでしょうか。・・・広島・長崎に落とされた原爆についてとか、その被災の状況がどんなだったのかということを、僕らは今「知ってる」というふうに思ってるよね? そうだよね? しかしほんとうは今ぼくらが振り返って見ていることが全てかどうかはわからない、だけども、まあまあこんなもんだろうと思っていて──じつはこれ、一人ひとり聞いてみたらイメージは少しづつ違うんだと思いますが──自分たちは広島・長崎を「知ってる」と思ってるよね。もう一回繰り返すよ、「知ってる」と思っているだろうけれども、けれども! 今まで3回の授業の中で、だいたい時間の流れにそって・・・まず(原爆投下の)次の日の新聞になにが書かれていたのか、例えばそういうふうに見てきたよね。もちろんいまの私たちと同じようにジャーナリズムなどを経由してとらえるしかなかったんだけど、そのとらえかたが、どんなふうに変わってきたのか、変わってこないのか、あるいは、矛盾があるのかないのか、ということをよーく読んでよーく考えて──自分がどういう切り口でその違いを発見できるかということを、よく考えて──次週までに提出してください。たくさん書く必要はありません。ワープロでA4一枚書いたら充分だと思うけど、自分が違いを見つける論点、それを明らかにしてください。いいかい? 解らない人は言ってください。

学生:どんな論点ですか?

中尾ハジメ:そんなこと自分で探さなくちゃだめだよ。たとえば、その朝日新聞の中にいくつかの違う観点をもった記事がありましたね。同じ新聞紙面の中に、明らかに違う観点がありました。それから今度は、たとえば、広島というのは(ハーシー『ヒロシマ』、蜂谷『ヒロシマ日記』、バーチェット『広島TODAY』など)本になっていますよね。それから、今日皆さんが読んできたはずの『黒い雨』だとか『重松日記』も本になっています。『重松日記』が出版されたのはつい最近のことです。それらはすべて原爆について書かれたものですが、各々の本はそれぞれ違う視点を持っていますね。そこで皆さんがしなければならないことは、視点が違うってことを言うだけではなくて、皆さんが広島を自分の力でとらえようとしたときに──振り返って、今とらえようとしているわけですが──そういう違う視点をみてしまう。そのときに、なんか矛盾を感じるでしょう。「なんか違うなあ、矛盾するなあ」と思うでしょ? それを自分のものにするためには、その違いを、自分で、なんかの形で、理解しなきゃならないね。納得しなければならない。そのためには、ここに違いがあるとか、そこに違いがあるということを、皆さんが読み取らなきゃできない。わかった? その違いはですね、じつは人が読みとる問題点と自分が読みとる問題点が、また違うので、一人ひとり同じとはかぎりません。変わってくるかもしれない。

■授業の前には資料を読んでくること!

さて、『黒い雨』をちゃんと呼んできた人は手を挙げて。4人しかいない・・。じゃあだめだ。今日はやめておこう。それで、『重松日記』のほうは読んできた人いるかい? はいはい。これも少数。それじゃだめだね。しかし次週のこの時間には、皆さんはA4一枚にワープロで、ということは1,200字から1,600字くらいのレポートを提出する。そのレポートの中味には、やっぱり『黒い雨』と『重松日記』のことを入れないとうまいこといかないもんね。いっしょうけんめい読んでください。

■ジャーナリズムがなければ…

では皆さん、資料のなかからバーチェットの『広島TODAY』をひっぱり出してください。ちょっと、三つか四つ、ほんとうはぜんぜんややこしくないんですが、一見ややこしいようなことを言うから、気をつけて聞いててね。一つはね、広島で1945年の8月6日に、ほとんどその日のうちに亡くなってしまった人はどのくらいいますか? よくわからないけど、たとえば10万人とかいう数ですね。あるいは15万人とか言われる数。一瞬のうちにそういうことが起こった。あたりまえでバカバカしいかもしれないけど、知ってるよね。次の日、8月7日の新聞には、広島に少数機がきて、焼夷弾と爆弾を落とした模様であると書かれている。これは7日だね。その新聞を読んだ人、あるいはその新聞を読んだ人から話を聞いた人は、どのくらいいたか考えてください。で、それはすごいことだと思います。10万人が死んでしまう、一瞬で。しかし、それを伝える仕掛けがなければ、誰もそのことを知ることができない。そういうふうになっているということを、よく考えてみましょう。考えてもしょうがないけど、気がつくとそういうことなんですね。しかし、それはやっぱり大変なことだから、その次の日(8月8日)の新聞になるともう少しなにか書かれているね。それが、どんな書かれ方であるか、ということを考えてみる。

これは考えるようなものでないかもしれないのですが、でも、ジャーナリズムというものは、結局そういうことするんだよね。そのジャーナリズムを成り立たせているものはなんだろう。様々あるけど、やっぱりジャーナリストがいないと成り立たない。たとえば、レスリー・ナカシマも書いてる。バーチェットも書いてる。日本の人たちも、おそらく探してみたら、書いている人がいる。

丸一年が経過して、ジョン・ハーシーという人が、こともあろうにニューヨークで最も売れている週刊誌に、他の記事はまったく載せずに、彼の書いた「ヒロシマ」という記事を載せた。そしてそれはその日のうちに30万部が売れてしまって、増刷をしてくれという注文がでるほどだった。増刷したかどうかは知りませんが、『ニューヨーカー』はそれで儲けようとすることはしなかったと思いますが、いたる所でそれが外国語に翻訳されて、ラジオで朗読されて、それから本にもなって山ほど売れます。

それだけのことなんです。それだけのことなんだけど、そうして初めて、原爆を落とした国──アメリカ──の人たちにも伝わったんだね。それまでは伝わらなかったんだよ。

で、(これから言うことは)考えるということとちょっと違うかもしれないのですが、やっぱり、ある種の考えるということだと思いますが・・・。(ホワイト・ボードになにやら長方形を描き、そこに「出来事」「体験」と書きながら)直接に「ある出来事」を体験した人たちがいます。それは生死に関わることですから・・・(次の長方形を描きながら、最初の長方形と同じ大きさであることを指して)数の上では、こんなに多くないのですが・・・極少数ですが、しかし、これがないと、ここが存在しないと、(さらに三番目の長方形を描き)ここへ伝わらない。人々には伝わらないんです。「伝わる」という言い方が正しいかどうか、実は疑わしいね。伝わるんだろうか、伝わるんじゃなくて・・なんて言ったらいいんだろう・・・広島で起こったこと、ジョン・ハーシーがその人たから聞いて、紙の上に書いたこと、それは「伝わる」という言葉で充分(表される)だろうか。変なこと言ってるなって思うでしょ? でもね、ほんとに「伝わる」って言葉でいいんだろうか? 皆さんが読んだのは・・・ジョン・ハーシーがいろんな人から聞き取ったことを、彼独特の文体で整理して書いているんだね。それを、また谷本さんが日本語に翻訳をして、それを法政大学出版局が印刷屋にたのんで、それをまた精華大学の誰かがコンピュータに打ち込みなおして、できた。それを皆さんが読んだ。それはたとえば「情報が伝達された」ってことでは、なんか違うような気がするね。そういうことじゃないような・・・。(出来事があったのは)もう57年前。それは皆さんも読んだし、当時アメリカの人たちも読んだ。世界の人たちはそれをまたラジオで朗読されるのを聞いた。そんなことが行われていた。それは、「伝達」なんだろうか? これは「情報の伝達」なのか? これは「テーマだな」と思って考えてください。そして、(真ん中の、二番目の長方形を指して)重要なのはここだ! ジャーナリズムがないとこんなことは起こらないということ、です。いいかい? この話は、一応おわり。

■ウィルとジョンの「分水嶺」

そして、次の話。バーチェットの『広島TODAY』を出して。さあ、まず、表紙の下に書いてあることを読んでみて。3行目の「その日私は人生の分水嶺に立っていた」。なんだ、これは? 「人生の分水嶺」ってなんだろう? 分水嶺って、ようするに、雨がふって、その水がこっち側に流れるか、あっち側に流れるか、水を分ける嶺ですね。人生の分水嶺に立っていたというのは、その日以降、彼の人生はある側にしか行かないようになってしまった、ということだね。それは、どういう側ですか? これを読んで、どういう分水嶺であったか、皆さん見当をつけてください。見当つけなきゃだめだよ。それを、ちゃんと、しっかり読んでおくこと。

ヒントはね、(ウイリアム・)ローレンスという人の名前がでてくるでしょ。ローレンスのような立場に立てなくなっちゃたんだね。バーチェットという人は、これは考えてみなくてもわかると思うけれども、日本と戦争をしていた連合国の側に立つ人だよね。いわゆる従軍記者です。そこら中へ行って、死ぬ思いをしながら、記事を書いていた。だいたい、それまで従軍記者として書いていた戦場の報告はどういうものであったかと言えば、いかに激しい戦闘であったかとか、いかに味方の軍は勇敢に戦ったかとかいうことを書いたにちがいない。

それで、皆さんが知っているところへちょっと戻ろう。ハーシーも従軍記者だったよね。興味深いものを見つけたから、お配りします。(──資料を配布──)いま配ったのはね、こういう本(実物を見せながら)からコピーをしたの。こういう本とは何かというと、Lifeという雑誌がありました。Lifeというのは、写真がたくさんのっているんだよね。そのLifeを振り返って、自分たちがどういう暮らし、どういう歴史を、送ってきたかということを、(代表的な記事を編集して)本にしたんだね。1940年から1950年までの分が一冊になっています(This Fabulous Century, Vol.V, Time-Life Books,1969)。こういうページです。これは、ハーシーが書いた記事だね。ドイツの潜水艦──Uボートと言いますが──と、アメリカの駆逐艦が、戦闘したときの模様を書いている。ハーシーという人の文体は、やはり無駄がないといえば無駄がないかもしれませんが、それを読むと感じ取れると思いますが、ハードボイルドだね。反対側のページに載っている写真は、砲塔のところで敵の弾に当たって死んでいく兵隊の上体がぶら下がっている。

次に、皆さんはメモをしていないと思うから、これを配りましょう。(──資料を配る──)裏表があります。裏のほうに、これだけであるはずはない、もっとたくさんいろんなものを書いていると思いますが、彼の書いた本、それから記事が三つほどありますね。ひとつは、”This Is Democracy”という記事。それから、ジョン・F・ケネディーの魚雷艇救助活動の記事。それから、「ヒロシマ」という記事。ほかの、イタリックになっているのは、本として出版したものだね。よく見とくように。来週までに宿題しないといけないんだよ。

バーチェットは、分水嶺と言った。そこで、自分の人生が変わってしまった。ハーシーにも、分水嶺だったんじゃないのかな。もし、皆さんが関心があるんだったら、皆さんが調べなきゃ。ぼくは、(ハーシーにとって「ヒロシマ」を書いたことは)分水嶺だったような気がします、こうやって(ハーシーの仕事を)ならべてみると。Men on Bataanというのは、マッカーサーの軍隊について書いたのだよね。Into the Valleyというのは、ガダルカナルでの戦闘、とりわけアメリカ軍部隊が日本軍の罠にはまってしまったときの、ものすごい苦しい戦闘を描いたものだね。それで、『アダノの鐘』のもとになっているThis Is Democracyというのは、シシリーでのアメリカの軍政がどんなにかっこよかったかということが書かれているでしょう。それから、ケネディーの魚雷艇の話。これは、当然、英雄的な物語になっている。で、44年のA Bell for Adanoで45年度のピュリッツアー賞をとるわけでしょう。

それで、1年間かけて、いろいろ考えて、実際の取材は46年の5月にして、3か月間ひたすらそれだけ書いて、8月の31日号のNew Yorkerでだしたのが、Hiroshimaですね。それからあと、ジョン・ハーシーはほかにもいろいろな作品を書いています。ここではどういう作品であったかを、全部は紹介しませんが、人生が変わったんだと思います。その資料の裏をちょっと見てごらん。これは『20世紀の著作者』。事典ですね(Stanley J. Kunitz ed., Twentieth Century Authors, First Supplement,1955)。A Biographical Dictionary of Modern Literature──人の生い立ちとかを書くのをバイオグラフィーと言います。そういう中味の事典。で、ジョン・リチャード・ハーシーという人が、こういうふうだったということが書かれている。55年に、この事典はできてますから、とうぜん55年以前のことしか書かれていません。さっきも言ったように、ガダルカナルでの戦闘を書いたのがInto the Valleyであるということが書かれていますね。もうちょっと下のほうに行ってみると、彼は勲章をもらっているんだね。フランク・ノックスという海軍長官から、負傷兵を戦火のなかで救助したことで。その次の文章をちょっと見てください。ハーシーは、very nearly lost all his notes for Into the Valley.── Into the Valley の本になるわけですが、そのためのノートをすんでのところで失うところであった。それを失わずにすんだのは、ほとんど奇跡に近いということですね。いつであったかというと──when his plane hit a wave in the South Pacific and capsized and sank. ──転覆して沈んだ。Extricating himself when the plane was about nine feet below the surface,──1フィートというのは約30センチだから、海面から約3メートルぐらいまで沈んだところで、ようやく脱出した。he found his notebooks floating within reach.──手のとどくところに、数冊のノートが浮かんでいるのを見たんだね。それをつかまなければ、Into the Valleyというノンフィクションは書かれなかった。The lines on the paper notebooks were smeared but the jottings were clear.──ノートの罫線はにじんでいたが、書きつけた文字ははっきりしていた。

なんで、こんな話が書いてあるのかな。死んでいれば、もちろん、『ヒロシマ』を書くことはなかった、ということもありますが、ようするにジャーナリストというのは、生身の人間なんだね。・・・それで、こんどは右欄の中ほどを見てください。The Wall──『壁』というのは、ナチが支配していたポーランドについて、それを小説仕立てで書いたんだね、1950年。その次、The Marmot Drive──これが、ぼくはちょっとよくわからないんですが、アメリカのどこかなんだね。そこの人たちが、──マーモットって知ってるかい。グランドホッグとか、ほかの言い方がありますが、犬みたいに大きな齧歯類で、穴掘って住んでるんですが、それがコロニーを作って住んでいたんだね。それをどうやって追い出すか、そういう出来事があったようです。ニューイングランドのどこかで。それを報告しているのが書かれている、1953年。それがよくわからない──ぼくにわからないんだよ。(文中の)The latter──というのがThe Marmot Driveなんですが──generally treated as an allegory, seemed to baffle many of Hersey’s admirers──ハーシーってのは偉いっていうんで尊敬している人たちがたくさんいたわけなんですが、どうもそのThe Marmot Driveというのを見るとみんな当惑をしてしまった、なんだかわからなかった。ということらしい。で、ぼくはThe Marmot Driveを読んだことないし、誰かに聞いたこともないので実際中身がどういうものかわかりません。でもきっと人を当惑させるようなものだったんだね。で、それについてある批評家(Irving Howe)が──”In The Marmot Drive, Mr. Heresy has made an intense effort to shake off those journalistic mannerisms──ジャーナリズムのマンネリズム、決まりきった書き方だとか、決まりきった表現方法だとかだね。で、そういうものを捨て去ろうというふうに、ハーシーは努力したようだ。しかし結果的にはなにをしたかというと、ジャーナリズムのマンネリズムは捨てたけれども、かわりに使ったのは──literary mannerisms──文学、小説の決まりきった常套手段であったように思われる。と、書いている。その他の人たちも──Others found the book bizarre but fascinating── なんか変だと思ったんだね。奇怪である──bizarre──しかし──fascinating──魅力的、 というようなことが書かれていました。これは、53年のことですから、この55年の文学事典的なものに載った、一番最近のやつですね。

もう一回ちょっと裏みてごらん。My Petition for More Spaceっていうのが47年に書かれています。(その前は)Child Buyer──buyer。Buyは買うっていう意味だよ。買う人。子供を買う人。それから、My Petition for More Space. これはある種の空想未来小説。で、人口が増えてですね、一人ひとりが住む場所がものすごく小さいなっちゃう。そういう世界が描かれています。Petition っていうのは署名をしてどこかに請願をするっていうのかな、そういうことだね。それで、なんかちょっと(ヒロシマ以前と)違うよね。The Wallっていうのがポーランドの状況、それを小説にした。そして、問題のThe Marmot Driveがあって、War Lover──これは題が・・・どう読んでもWar Loverっていうのは、なんか批判的だよね。「戦争大好き」。一番最後──1993年に亡くなりますが、その年に出版したKey West Tales。Key Westっていうのは、フロリダの彼の住んでいた町。で、tales っていうのは、いくつか小話があるんだよね。さあ、ハーシーの分水嶺はどんな分水嶺だったか、それとも分水嶺とはいえないのだろうか。

で、バーチェットの方は自分で明快に書いてます。分水嶺で、ある側の方に入ってしまったと。それが、どういう側であるか、ということはですね、来週までにしてくる宿題の、一つの視点にはなりえます。ただ、ちょっと資料が足りないかな。

■体験、そして時間が経って再構成される体験

で、それは、そういうふうに考えたらいいのですが──考えたらいいといっても、答えがここにあるのではないんですがね──だけど、とにかく(また、ホワイト・ボードの三つの長方形を指しながら、一番目の長方形に)「体験」としてヒロシマがあって、(二番目の長方形に)ハーシーがいて、(三番目の長方形)そこには世界の我々がいるわけだよね。

もう少し言うとね、さっきも言いましたが、時間がたつにつれ実際に生身の人間が体験してわかることがあります。ただその時間というのが、ちょうどぼくら自身が生きている時間と同じで、科学的にはとらえられないものがあるね。というような時間があると考えてください。科学的に全くとらえられないとは、断言はいたしませんが、なかなかとらえるのが難しい。すっきりした話しにはなりませんが、たとえば科学がわかること──トルーマンの声明にはTNTの何倍って書いてあった?・・・破壊力?・・・こういうとき皆さんは資料を見たり、ノートを見たり、いろいろしないとダメなんだよ。20キロトンということが書いてあったよね。そういうことは、それほど狂いなく科学的に表現できます。で、しかも爆弾の破壊力だけではなくて、それを作るためにどういう装置が必要で、どれだけの人力──人の力がかかっているかということ、それは科学的な表現、いわゆる科学的表現で言い表すことが可能です。しかし、実際の生身の人間に起こることは、そういうふうに表現するのは非常に難しい。

核分裂ということが引き起こすのは、質量がエネルギーに変えるということですね。そのエネルギーが莫大な量であった、ということだけで終わらない。核分裂生成物質とよばれるもの──つまり放射性物質とよばれるウラニウムだとかプルトニウムが分裂をするでしょ。放射性物質というのは、放射線がピュッピュッピュってとびだしているような物質ですが、そういうウラニウムとかプルトニウムをたくさんまとめると核分裂連鎖反応が起きちゃう。で、その奇妙な状態を「臨界」といいます。東海村の「臨界」事故ってそういう意味だね。そうすると、そこからさらにいろいろな放射性物質が生まれてきちゃう。核分裂によって生成される物質があります。悪名が高いのは、ストロンチウム90とかいうやつだね。他にもいろいろあるね。ヨウ素131だとか、いろいろありますが、それはそれはものすごい量の核分裂生成物質がでてきます。それはいわば残留放射能になる。

あるいは皆さんがもっている資料のなかにも書いてあるように、たとえば人間の骨に放射線が当たって、その骨の中の物質が、それが放射性物質に変わってしまう。ということもありえます。そうすると、その爆発の時の放射線とか熱だけじゃなくて、残留放射能からの放射線、あるいは体内に取り込んでしまった放射性物質からいろいろなことがおきる。ということもわかってきた。だけどこれは、どうやったら知ることができるか。難しいね。生身の人間をどうやってそんなふうに調べるのか。

ここまでにみなさんにお配りした資料はあんまり書かれていませんが、広島にはね、アメリカの原子力委員会が設置をした、原爆によってどういう異常が人間の身体におきるのか、という評価をするABCCという組織がありました。その評価の結果は、どういう形で世界に伝えられただろうか、というのも一つの重要なテーマになります。でもそこへ行く前に、みなさんが宿題でするべき問題として出てきたことは、いろいろ時間的な差がある中で発表されているこういう記録のようなもののなかに、この記録を書く人の問題意識がやっぱり違うということを探して、それをちゃんとレポートをするということだね。

バーチェットの時点では──これはちょうど一月たった時の記録というふうに書かれているね──それで彼の言葉は、The atomic plague──つまり、その原子爆弾の爆発そのものは逃れた人たちが、次々と不思議な病気で死んでいく。Plague っていうのは伝染病だね。だから、伝染性の病気であったように見える、という意味だね。でも、これは残留放射能というよりは、やっぱりその(爆発の)ときの被爆の結果が現れたんだろうね。残留放射能でいろいろのことが起こりはじめるのは、もっと後です。もっとも、なかには甲状腺にヨウ素をためこんだ人がいたかもしれない。だから、もちろん原爆に全く無関係だったとは思えませんが、バーチェットがそこに書いたことはバーチェット自身も、どういうふうにしてその影響が起こるのかわからなかった、という時点の話です。それが、もう少しあとになると、もうちょっと変わってくるね。

■再度、レポートについて

しかし注目すべきなのは、バーチェットが書いている(ウイリアム・)ローレンスっていう人はどうも当初の時点から、あるいは広島、長崎に原爆を落とす前から、ある書き方をしてたように思えます。その書き方とはなにか? そういうことを。もし皆さんがつきとめることができれば、レポートは簡単に書けちゃう。で、繰り返し言うようですが、文献のリストを作ってね。自分がどんな本を読んだか、どんな資料を見たか、ちゃんとリストにしておく。一つだけの資料から、それを適当に切り貼りをしてレポートを書き上げるの、はやめたほうがいいね。面白くない。じゃあどうするか。かといってたくさんの資料を切り貼りしたらレポートはできるか。できない。切り貼りでいいんですが、切り貼りで悪いとはいいませんが、たくさんの資料からどういう部分を拾い集めるのかというのが、それが皆さんの問題意識です。皆さんがどういう視点を持つかということで、どこを取ってくるかが決まる。で、今回の課題は、繰り返していいますが、「視点の違いを発見せよ」です。その視点は、「違う」っていうだけではだめだよ、自分がどういう座標軸を選んだ、どういう切り口を選んだから、こういう違いが見つかった、ということを表現しなきゃいけない。

■再度、分水嶺について

さあ、また別のことを言いましょう。さっきのハーシーという人の書いた本がずらっとならんでる資料があるよね。ピューリッツァ賞をとったのは『アダノの鐘』です。これは、古本屋に行ったらあるかもしれないから、是非とも探してみると良いと思いますが、でもたぶんあんまりたいしたことないよ。実は映画になっています。

戦争中だから、45年かな、45年か46年くらいに映画になっています。奇妙きてれつなお話でラブロマンスみたいな映画になっているようです。だからあんまり「疑い」を持っていなかたんでしょうね。アメリカという国にも疑いを持っていなかった。しかし、今考えてみたら、それまでにある程度ジャーナリズムの世界の中で──もちろん死にそうな目にあうのですが──ハーシーは優等生だったと思います。それから後、「ヒロシマ」を書いて、30万部を1日にして売り尽くしてしまった──この「ヒロシマ」の売り出し方を、ハーシーだけが考えたとは思えませんが──という、その出来事のあと、やはり彼は変わったのではないでしょうか? 金儲けをしたというふうには思えないけれども、あまり大衆受けするようでもなくなる感じ。かといって、ものすごく複雑になって、大変な文学作品を書くことでもなかった。時間がないからできませんが、ハーシーが、いったい「ヒロシマ」以降、どういうものを書くようになったかというのは、大変関心があるよね。高く評価されるものはほとんどない。たぶんそれはピューリッツア賞が──今はどうかしりませんよ──当時はかなりいい加減なものだったということも意味する。単純なアメリカ主義だったように思います(なぜ、Hiroshimaにピューリッツアー賞をださなかったかを考えるとよい)。

■『ニューヨーカー』はどんな雑誌?

さて、それでちょっとみなさんにお見せしておこうかな。ほとんどNew Yorkerってのは、姿かたちが変わってない。たぶんか1920年代から出版をされているはずですが──1930年に近かったと思いますが──このNew Yorkerは,1960年のです(実物を見せる)。今でもこんな表紙(のデザイン)をときどき使っています。中身は、こんなのだね。(記事、写真、広告など)表紙は必ず絵です。写真(の表紙)を僕は見たことはありません。色々な芸術家の絵を毎号、毎号使っています。それで、最近の方は、こんな感じ。(New Yorker をパラパラとめくって見せる。)このNew Yorkerは2001年9月11日の次の週に出たものです。(表紙の)後ろは当然広告ですが、中身はこんなんだね。(また、パラパラとめくる。)こういう広告がずっと載っているわけですが、そして写真がきれいだね。これは、テロの前のだね。これもきれいだね。(いくつかの写真を見る。)ですが、その中にですね、昔と同じページがあります。どんなふうに一緒かというとね…。(昔と同じページを探している。)これはまた次の週の(New Yorkerの)表紙だね。ちょっと見えにくいかもしれませんが、実はこれ歩道でね、消防士の肖像がここに置いてあって、ロウソクが置いてあって、花束があって。なんでこんなにものの宣伝がいっぱいあるのでしょうね? このNew Yorkerは、少なくとも1940年代、”Hiroshima”が掲載された時から、“Goings on about town”というページがあって、皆さんの好きな、どこに行ったら何をやってるかとかね、どこでライブがあるとか、そういう情報がたくさん載っています。それから、みんなに配ったNew Yorkerの表紙のコピーの裏側にある(Hiroshimaの記事のはじまるページの)デザインを今でも使っているのね。最新号、情報館にある最新号は4月1日号ですが、こんな表紙です(みんなに見せる。)後でどんなものか見たい人は前へきてください。

■「ヒロシマ」掲載時の『ニューヨーカー』のエディトリアル・ノート

『ニューヨーカー』の記事こういう雑誌、週刊誌です。どちらかというと字の多い週刊誌です。ほとんど写真とかありません。あとは、マンガがあるね。演劇だとか、映画だとかの批評、あるいは小説だとか、歴史の本の書評みたいなものが中心です。これは昔からそうだったようです。1945年8月31日号は、中央の下のほうを見てごらん。ここに、断り書きがあるのですが、「今週の『ニューヨーカー』はすべてのエディトリアル・ページ──広告のページ以外の記事──を、一発の原子爆弾による一つの都市の完全な消滅(破壊)の記事に割く」というふうに書かれています。非常に短い紹介文ですが。“its use”っていうのは── 一番後のところだよ──「原子爆弾を使う」って意味だね。それの「恐るべき意味合いを、時間をかけて考える」べきだろうとだけ書かれていた。

一番後のページからいって、63ページをあけてくれる? 間違いが一箇所あって、「著者について」の2行目、1924年ではなくて、1914年。

■「いつ書いたのか」について立ち止まってみよう

バーチェットが広島に行ってから、さらに数ヶ月たった時点でハーシーは広島を訪れた。それゆえですね、バーチェットの時にはまだ広島の人たち自身が理解していなかったことが少しわかってきて、そのことが多少はハーシーの書いた本の中にも反映されています。でも基本的には、やはり8月6日だ、というふうにとれますね。

次回はですね、そこに色いろなものが付け加わるはずの『黒い雨』と、『黒い雨』のもとになった『重松日記』をやりますが、必ず読んできてね。それから、その次にやるのは『原子爆弾の誕生』。リチャード・ローズだよね。それで、リチャード・ローズになると、8月6日ではないもっと前から始まって基本的には8月6日で終わります。だけど、その後の問題ってのは実はあるんだよね。リチャード・ローズの『原子爆弾の誕生』は、次週にまたプリントをして渡します。日本語版は2冊でだされています。それで、どうしようかなと色々迷っていますが、日本語版はこういう形になっています。まあなんとかできるかな。それで、ちょっと皆さんにお願いしたいのはですね、リチャード・ローズでなくていいです、原子爆弾を造るまでの人間の、人間のというと変に聞こえるかもしれませんが、造るまでの歴史、歴史というのも変ですが、何か探してね。ちょっと目を通しておいてほしい。ということをお願いしたいと思います。それで、それが終わったら、いろいろジャーナリズムとは何かと、ごちょごちょやります。何か質問あるかい?

来週までにしてくることわかったよね。それから、レポートには日付をいれてください。それから自分の名前をいれてください。右上のところに必ず書いてほしい。それから、紙の大きさを統一したいので、A4にしてください。字数は1,200〜1,600字だと思ってください。それで、配ったはずの資料は、(在庫は)だいぶなくなっているけども、友達に見せてもらってね、無い人は。ここに、若干まだ売れ残りがあります。それはお持ちください。

それから、もう一つだけ。大江健三郎という人の『広島ノート』(岩波新書)があります。これは、また違う視点を持った──どこが違うかというとね、ぼくが思うには、それは、われわれは広島を直接体験していないけど、しかし、われわれがどう広島をとらえるかということが、かくも情けないことにつまらない政治のために変わってしまう。その恐るべき情景を見せないといけない。というようなものです。この本も含めたら、ものすごい違う立場が見えると思います。もちろん、みなさんの文献リストにこの本を加えることは一向に構わない。今、新書はいくらくらいするのかな。700円くらいかな。この当時、200円くらいです。

授業日: 2002年5月14日; テープ担当学生:市川由佳、今井花野、内田耕平、奥田藍