第10回・資料 学生の書いた紹介文

  荒畑寒村
『谷中村滅亡史』
ユーゴ
「怪物の腸」
柳田國男
「漁樵問答」
ミシュレ
「海」
E・O・ウィルソン
『ナチュラリスト』
A 1   6   5
B 2  
C 3   5  
D 4 2 7 4 4
E 5   4   3
F 6   1   1
G   2
H 3  
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J 2

■荒畑寒村『谷中村滅亡史』

1.毒を以って、毒を制す
足尾鉱毒事件と言えば、十中八九その名があがるのは田中正造であろう。しかしもう一人、忘れてはいけない男がいる。この本『谷中村滅亡史』の著者、荒畑寒村である。
自ら「一気呵成」と言うとおり、その文章には激清が迸り、政府に対する彼の憤怒が真っ直ぐに伝わってくる。それがこの本の最大の特徴であろう。だが発禁処分。田中正造の「少し芥子が効きすぎましたね」という言葉どおり、その激情が、この本の欠点でもあるように思う。憤慨の多さに気後れしたり、本題を見失ってしまうことがあり得るからである。彼が怒っているのはわかったが…、という具合に。
ただ、彼の激情は誰もが感じるであろうものだし、とても素直なものだと思う。そして、彼の怒りは、今のあなたも感じるかもしれない。彼の怒りの対象、現代も抱える問題──政・官・財の癒着──の忌むべき流れは、足尾を犯した鉱毒よりも根深いのだから。
2.『谷中村滅亡史』
日本の公害史を語るとき、足尾銅鉱の鉱毒事件を抜かすことはできない。谷中村の滅亡は、それを象徴する出来事だった。荒畑寒村の書く『谷中村滅亡史』は、鉱毒事件の起因から始まり、事件の経過をいくつかの段階に分け述べる。一つの鉱毒によって発生した被害であるから、表面的にはただ一つの環境問題だと思うかもしれないが、実はそんなに簡単なことではない。作者はその裏面にある政治の間題に注目していた。説明の重点は、環境の側面ではなく、田中正造翁の直訴や、政府のこの事件に対する態度という側面にある。政府が堤防を壊し、真相を隠し、人民を歎いたという事実を暴き出し、政治問題、杜会問題であったことを伝える。
3.『谷中村滅亡史』
熱っぽくノスタルジックな文章。若さゆえの勢いで納得のいかぬ鉱毒問題に正面からぶっかった荒畑寒村。少し読んだだけでも彼の怒り、憤りが伝わってくる。これを読むには、こっちにも心構えというやつが必要だ。どこかの蔵にでも座布団とかひいて、湯飲みに熱い茶をいれ読みたい感じ。世の中の不条理に心を痛めているなら、読破した後、自ら筆をとって寒村につづくもよし、さらに本を読みあさるもよし。おそらく、今までに読んだことのない本であることは間違いない。きっと衝撃をうけることだろう。
4.郷愁胸に追って、涙雨の如し
足尾銅山から毒が流れ出た。毒は川を下り、土地を荒らし、人畜をも蝕む──足尾銅山鉱毒事件。多くの人々がその犠牲となり涙を流した。しかしそれに対する非道きわまりない政府の対応…。そして明治40年6月、ひとつの村が、滅ぼされた。
若き熱き青年、荒畑寒村が事件の全貌を追い、その怒りと哀しみを渾身の力で書き綴ったドキュメンタリー『谷中村滅亡史』。忘れてはいけない歴史、その惨状を、人々の想いを、色を失うことなく今に伝える魂の一冊。
5.『谷中村滅亡史』
働かなくてもいい、別に勉強しなくてもいい、学費は親が出してくれるし仕送りもある。とりあえず大学行って、遊んでたって許される。そんな大学生活というぬるま湯に、のほほんと浸かっているのなら、のぽせる前にこれを読むべし。がつんと一発喝入れてもらったらいい。私たちと同じ、若干二十歳にして、こんなにも熱い文章を書いた奴がいるなんて、私も負けちゃいられないと思う人もいれば、かなり落ち込んでしまう人もいるかもしれない。でもとにかく、良くも悪くもこの衝撃は受けてみるべき。きっとあなたの人生変わります。
6.次世代のジャーナリストヘの荒ぶれる歓呼
『谷中村滅亡史』は、若き荒畑寒村(1887-1981)が足尾鉱毒事件を世に訴えるために書いた処女出版作である。明治40年、土地収用法によって強制的に破壊された谷中村を舞台に、政府の卑劣な行為が綿密に描かれている。 環境問題というより、攻府と企業の癒着に対する批判がこめられた、杜会問題についてのジャーナリズム作品である。谷中村の惨状を目の当たりにした寒村が、荒ぶれる感情のままに短期間で書き上げたが、天皇批判とも取れる過激な表現により発売と同時に発禁となった。
あまりにも激情に彩られているために事実の過度な脚色や歪曲が起きている可能性は否定できないし、古めかしく難解な言い回しで大変読みにくい作品だが、後世に伝えようとする確固たる意思と、迸る読者への訴えは、日本ジャーナリズム史上の重要作品の一つであることを確信させる。

■ヴィクトル・ユーゴー「怪物の腸」

1.『怪物の腸」
レ・ミゼラブル。日本語にすると「あぁ、無情」。この有名な本の中の一節です。腸って…と思うでしょうが、これは下水道のことなのです。しかも「ちょう」ではなく「はらわた」と読みます。なまぐさそう。簡単にいってしまうと「自分のうんこを利用しろよ! 大金を捨ててるようなものだぞ」ということだ。ユーゴーさんともあろう人がそれを素直に書いてしまったら芸がない。まず下水道の歴史をしたためといて、徐々に探検物語へとつづくのである。これだけでは一体なぜうんこが大金? と、意昧が分からないだろうし、気になったら読んで下さい。昔、世界史などをとっていた人には懐かしい名前が所々に登場し、自分の記憶を試すことも可能。別になんの知識もなくても問題なく読めるのでご安心を。
2.パリ、もうひとつの世界
「花の都」と詠われる街、パリ。その華々しい街の地下に広がるもうひとつの世界、下水道。中世においてそれは、地上にては了解不可能、地下にては脱出不可能…もはや伝説的な状況であった。しかし、十九世紀、一人の勇者が現れた。彼は自ら下水道に足を踏み入れる。それは恐るべき戦陣であった。彼が、疫病と毒ガス、そして暗闇の中で見たものとは? また、現代において、「下水道に投じる二千五百万フラン」の真意とは? パリの下水道の今を見つめ、その歴史を果敢に描いたユーゴー作『LES MISERABLE──第二編、怪物の賜──』見えざるパリのもうひとつの世界が、今ここに明らかに一
3.その思い、「腸」のように
世界で最も売れた本は? それは、聖書。では、その次は? それが『レ・ミゼラブル』である。そして、その中にあるのがこの「怪物の腸」である。怪物とは、パリ。腸とはその下を縦横無尽に走り回る下水道のことだ。
個人的に興味を引かれた場面は、最初の章、「海のために痩する大地」だ。下水道に流されていく膨大な量の堆肥──になるであろうもの──の話である。それは、ただ、無駄使いというだけではなく、疫病の温床にもなるという話。『レ・ミゼラブル』を読んだ人には、「あれ、こんな話あったっけ?」という疑問を持つ人も多いだろう。かく言う私もそうだ。こんなに難しい文章、あっただろうか、と。今まで読んできた物語とは違う、そう感じるのは確かだ。
読者は、この文章を読んで、いったいどのような感想を抱くのだろうか。その行く先は、読む人の数だけ増えていくような気がする。
4.『かいぶつのはらわた』
なんてグロテスクなタイトル。いいですね、私はこのタイトルに惹かれます。これ、実はパリの下水道の話なのですが、かいぶつとはパリのこと、はらわたとは下水道のこと。なるほど、読めば納得です。期待を裏切らない、グロテスクで生臭い、ブラックユーモアたっぷりのお話。テーマは政治、経済、環境、生態学と、かなり重いのにもかかわらず、それを感じさせないところがまた良い。第三篇でいよいよジャンバルジャンがこの下水道に入っていくのですが、「怪物の腸」のおかげでかなりリアルに想像できるので、より一層入り込んで読めておもしろい。
5.生み出されし怪物たち
「肥料中最も豊かな最も有効なのは人間から出る肥料であることを、今日認めている」
「われわれの出す肥料は黄金である」
この黄金を地下においやった結果どうなったのだろう。多額の資金を溝に捨てる結果となったのだ。この話は、少し昔の下水道の話である。その下水道がパンドラの箱であったときに、最も勇敢な男ブリュヌゾーがその迷宮の探索をした。パンドラの箱と書いたが、果たしてそこには希望があったのだろうか?
「今日では、下水道は清潔で、冷ややかで、まっすぐで、規則正しい」
しかし、黄金を金と労カをかけて捨てているという点では、今も昔も変わらない。フランス杜会の変化が、この恐ろしい怪物をつくりあげたように、昨今我々は、さまざまな怪物をつくりだしている。これらの怪物は、いつ退治されるのだろうか。
6.放埒にして豪奢なる都への地下の皮肉者
「怪物の腸」とは、かのユーゴの名作『レ・ミゼラブル』の中の一編である。他の章とは異なるこの一編は、たんなる舞台説明に見えるかもしれないが、一見豪奢に見えるパリの虚栄の姿を下水道を通して語り明かすのだ。 「下水道はひとつの皮肉屋である。それはすべてのことをしゃべる」
この言葉に秘められた、消費主義の行きつく最悪の結末。腸から溢れ出したのは打ち捨てられた汚濁、限りない病魔、やせ細った貧地だけであった。
これと同じことが、この日本で起こっている。目先の利益に目をとらわれ消費=ゆたかさだと誤解している現在の日本の状況に気づかされ、あらためて考えさせられる一編である。

■柳田國男「漁樵間答」(『火の音』から)

1.山と離れたる人々一木々との対話のための回顧録
私達日本人の大半が、山のない切り開かれた土地、都会に移り住むようになってはや幾年がすぎたのだろうか。ただただ便利さを追い求めたため。人口が増えすぎたため。様々な理由で木々と離れることを選釈してしまった人々の回顧録である。現代とは違い、主な燃料が薪もしくは木炭であった時代、人々はいかにしてそれを手に入れたのか、木々との対話の距離がどのようにして離れていったのかが、窺い知れる。私たちは、文明と引き換えにして何を失ったのだろうか。
2.おじいさんは川へ芝刈りに?
今とは違う時代人々にとって燃料とは、柴、薪などであった時代。川にはいっぱい木が浮いていた。なぜでしょう? それは、都で燃料の需要が高まってきたから。そして、最も楽な、都への木の運搬方法が、川に流すことだったから。このことから「桃太郎の昔話も此邊へ來れば『爺は川へ柴掘りに』と言わなけれぱなるまい」と冗談が書いてある。 柳田國男。一般に民俗学者と言われている彼が、この話で伝えたかったこととは? 燃料の価値観の変化? 木を伐ることの必要性? 漁師と樵が道の傍で話をしている絵のおかしさ? 民俗学と呼ばれるものの面自さ? 私にはそのすべてのように思えるが、あなたは?
3.「漁樵間答」
かつて、人々の暮らしに薪は欠かせないものだった。料理をするためにも、また、厳しい冬を乗り切るためにも必需品であったはずだ。
その薪を刈ってきて売る人、それを買う人という一つの杜会ができていた。また、山は入会地という、共有の地であった。
燃料を確保するというのは、いつの時代でもたいへんなことだ。それは、どこでも手に入るというわけではないからだ。だが、現代に比べると、昔の方がその日、その日の燃料を確保するのに精十杯だったにちがいない。それに、山と人、人と人、いろいろな知恵を働かせたり…今よりもっと密接に関わっていたようだ。
しかし交通機関が発達してくると、燃料の確保にも余裕が出てくる。今日のエネルギーの無駄使いにつながっているのだろう。それがいつまで続くかわからないが、近い未来に、昔の時代よりも、もっと過酷な燃料集めをしなければならないかもしれない。
4.おじいさんの本音
桃太郎のお話ではかなり脇役なおじいさんですが、ここではそのおじいさんが主役。川で洗濯していたおばあさんが桃を見つけて大騒ぎしていたころ、山に行ったおじいさんはのんきに昼寝でも…と思っている人は大間違いですよ。皆が思うほどおじさんは楽じゃない。実は働き者のおじいさん、朝も早くから山で木を切り、その木を担いで里へ下りる。それを打って、その僅かなお金で生活を支えているのです。
里の日も暮れる頃、居酒屋にはその日の仕事を終えた者たちが多く集まり…そこでは、おじいさんが山から木を売りに来るように、海から魚を売りに来た者たちとの出会いがあり、日々小さなドラマが繰り広げられているのです。酒も入りほろ酔い気分で気持ちよくなったおじいさんのポロリ話がきけるかも…。
5.漁樵問答
昔話の解説版のような感じです。市原悦子に朗読願いたくなるのも無理もないこと。昔話にあやかって、現在のような暮らしになる途中経過がわかるようになっています。漁師が問うて樵が答える。何をやっているかといえば、物々交換の大事な交渉。じいさんはいつも山に柴刈りにいくけれど、これも地域や時代が少しでもずれようもんなら「じいさんは川へ柴掘りに」となったかもしれないのです。人と木の付き合い方を知ることができます。
6.新昔話
誰もが読んだ昔話。民俗学者たる柳田國男は、それを引き合いに「木こりが、炭焼きに変わっていった道筋」を書いている。昭和45年に書かれたものだけあって、漢字は難しいが、文章の中身はさほど難しいものではない。ユーモアをちりばめた丁寧な文体で、むしろ面白くさえ感じる。
「爺は川へ柴掘りに」というセリフは、思わず吹き出してしまうような冗談だが、「おじいさんは山へ柴刈りに」という誰もが聞いた言葉だけでなく、それぞれの時代背景にしっかりと裏付けられていることであったと分かるのも、非常に面白い。
7.昔々おじいさんは山へ柴刈りに行きました・・・
「昔々、おばあさんは川へ洗濯に、おじいさんは山へ柴刈りに行きました」──誰もが知っている昔話『桃太郎』に登場するおじいさんは日々の生活のために柴を刈りに山へと向かいます。そして時は流れ、刈った柴をまとめて里へ売りに行くおじいさんが現れました。あの『傘地蔵』のおじいさんです。日本で使われてきた「燃料」に焦点を当て、その歴史的変遷を追った柳田國男「漁樵問答」。なじみ深い昔話の何気ない景色にも民衆の生活の歴史的変遷が反映されていることに気づく、日本の歴史再発見ショートストーリー。

■ミシュレ『海』

1.ミシュレの『海』
地球の表面の大部分は海水に覆われている。海が地球の生態系のなかで占める地位は非常に重要である。さて、人間と海との関係は? ミシュレの『海』は、彼の目でとらえた美しい海の姿、海の中に生きる様々な生物を、描写する。それから、人間が海を征服してきた歴史を描き、魚介類の乱獲を問題として提起する。海は地球上の生命全体にとって重要な意味を持っている。食物連鎖の頂点にいる人間も、やはり自然のおかげで生存している生物の一種なのだ。その自然の法則、海の律法を、人間は守らねばならない。
2.『海』
人間がいようと、いまいと関係なく、自然は独自のぺ一スで独自のルールで動いている。他の生物は、人間が存在しなくても生きることができるだろう。では、人間はどうであろうか。植物や動物なしでは、人間は生きることができない。しかし、人間はどのくらい自然を、動物をしっているのだろう。今まで暗黙の了解であった自然のルールを、人間は壊しているのではないか。そのルールの存在さえ気づいていないのではないか。人間中心主義的な世界に異論を唱えた作品である。
3.母に、愛を
生命の母は、海であると、古くから書われている。しかし、人間は愚かにもその「母」を苦しめ、傷つけているのだ。人は、自らに近しい動物には持ちうるだけの愛を存分に注ぐが、その逆の存在には、全くと言っていいほど、その傾向はない。母親の胎内がいかに荒らされていようと、自分の生息地である陸地への関心ほどではない。陸上の動物には、様々な保護の手を差し伸べるが、海の生物には無関心な人間が多いように思える。
海は極めて豊穣であるが、無限ではないことをミシュレは言う。そして、護るべきだと。それが、自らが生きるために「生命の死」を必要とする人間の義務だ、とつくづく感じさせられる。
ただ、「保護」といっても奢ってはいけない。人は神の代行者ではないからである。あくまでも、人間による「保護」は、自らの行いの償いであるべきなのだから。
4.海を、感じる
「そのクラゲは私の手ほどの小ささで、なんともいえずかわいく、やわらかで軽い感じがした。やさしいリラの花冠が雲のなかに紛れてしまうような、そんなオパールにも似た乳自色であった。海のなかで心地よく愛撫されながら生活している彼女は、われわれ陸上の動物のように表皮で身を鎧ってはいないので、すべてを痛いほどに感じるのである」 海を愛した著者が見た、海に舞う儚くも美しい生命。華麗な文体で描く海の情景。しかし今やその海をも支配しようとする人間。それに対して、今、我々が考えるべきことは──ミシュレ作『海』きっと海が好きになれる一作。
5.『海』
これは、くらげの話がおすすめである。パステルカラーの色鉛筆のような感じの話っぷり。読みやすい。なぜか書きっぷりも笑える。その上、くらげはすべて彼女となっている。中性っぽいけどな、くらげ。ちょっと前にブームになったが、またまたくらげに魅了されること受けあい。くらげの、すべてを受け入れ超越した態度、そのくせ儚い姿。それでいて人を和ます素敵な生き物それが住んでいる海。そう、海。海についても書いています。「人間に必要なこと、彼らに必要なことは、理由もなく死や苦しみを撒き散らさないことだ」 ごもっともです。海の律法と一見難しそうだが、意外とすらりと読めます。困るのはときたまでてくるピエ(単位らしい)。一体どんな長さなのか勝手に想像するのもおもしろいかも。調べると知識も増えて一石二鳥。
6.ミシュレのまなざし
この本は、ミシュレの生命にたいする愛情や優しさがあふれている。まずは、「海の娘」。クラゲを海の娘に見たて、彼女と呼ぶ。その彼女にたいする繊細な描写は、愛着をもって観察するだけでなく、まるで自分白身がクラゲになったかのようなのだ。しかし、だからといって、客観的な視点が失われたわけではない。
「海の律法」では、人間が目先の利益だけにとらわれている点を指摘している。それが、人類にとっても不幸をまねくことであるとともに、海の生物にとっては、「生命の崇高なる光」の瞬間を失うことであると…。
ミシュレは、他の生物も人間と同じように権利を持っていると考える。そしてミシュレ自身が神のまなざし」を持っているかのようだ。
7.『海』
クラゲを見たことはありますか? クラゲを触ったことはありますか? 私は怖くて触れなかりた。海でクラゲに出会ってしまった私は、恐怖のあまり溺れそうになりながら必死で逃げた思い出がある。だって、クラゲに刺されたら死ぬと思い込んでいたのだから。たぶん皆さんもそんな経験あるのではないでしょうか。それならば是非これを読んでいただきたい。クラゲの見方が180度変わります。涙でるよ。クラゲは何を想い海面を彷徨うのだろう。クラゲだけではない。海に生きる大量の生命の叫びが聴こえてくるような、壮大なスケールで描かれる闇の神秘の世界。
8.母なる海への賛美をつむぐ物語
ミシュレが伝えたかったのは、海。そこに住む生命の美しさ、不思議、驚異。あらゆる生物の源であるものへの賛美である。この精神こそが、本当に自然を守りたいという意志を生むのだろう。好きだからこそ守りたい。そうあって欲しい、本来そうあるべきである。個人と個人でもよくあることだが、国家ごとの環境保護活動の間には利害の食いちがいが起きている。今日の地球の危機的状況では、多くの問題に早急な手を打たなければならないのに…。この著作を読んで、環境保護活動の意義をもう一度考えて欲しい。

■E.0.ウィルソン『ナチュラリスト』

1.生命の輪への畏敬と、滅亡への警句
著者自身、社会生物学者であり、世界的に有名なナチュラリストの一人である。
「…過去を振り返れぱ、私は依然、パラダイス・ビーチのあの少年を失うことはなく、保持していることになろう。この少年は…深みに棲むわずかに見かけた怪物に、驚異を見出したのである」
幼い頃に体験した彼らに対する畏敬と感嘆につつまれたままの目線で、滅びゆく彼らの世界を生活のなかで見つめつづけた。その自らの姿を描きだすこの作品は、失われていく生物多様性、そしてバイオフィーリアの重要性という問題提起でもある。生き物にたいする素直で謙虚な気持ちが溢れるこの自伝は、私達人間も含めるすべての生命の輪への畏敬の表現であると同時に、今こそが利益主義脱却の転機なのだと教えてくれる警句でもあるのだ。
2.言葉の起源
1980年代、ほとんどの科学者が環境破壊について問題にはしていなかった。しかしウィルソンは、将来おこるであろうこの破局に不安を抱いてきた。そして、友人の環境活動をきっかけに、新環境主義を推進していくようになる。「生物多様性」という、現代の環境問題を語るにはなくてはならない用語を初めて使ったのはほかならぬこの人である。この概念は、すべての種の生命のお守りのようなものである。また「バイオフィーリア(生物愛)」という用語も生み出した。人間が他の生物にたいして抱いている親近感、または嫌悪感を抱きながらも魅了されること、それによって呼ぴ起こされる同一起源意識のことだ。これは、自然保護の永続する倫理の基礎になるものだ。またウィルソンは、太古の家と現代の住環境の好みの類似からも、人間は自らのルーツにもどろうとしているのだと考える。
3.ナチュラリスト
私たちの目はいつも外へ外へとむけられていて、自分のすぐ足下でおこっていることには、あまり興味がもてない。もう知ることはなにもないとぱかりに、まったく見ようとしていない。
歴史上の多くの探検家や科学者たちは、誰も足を踏み入れたことのない未開の地を求め、海を渡り、山を越え、空を飛んでさまざまな発見をした。プテラノドンが生きていた頃とは大分変わってしまった。だが、唯一誰も行こうとしない未だ手付かずのままの世界があることを私は知らなかった。そこには見たことも聞いたごともないイキモノが、限りなく棲んでいる。それは、私たちのすぐ足下に存在している世界なのだ。地球はやっぱりでかく、まだまだ謎に満ちているのだと思い知らされる作品。
4.自然の驚異を見た、あの日から
パラダイス・ビーチに、かつて一人の少年がいた。少年が見つめるのは一匹の巨大なクラゲ(鉢クラゲ)。そこで少年は自然の驚異を見た。そして数十年の月日が経ち、この少年は自然科学者になった──
「生物多様性」という言葉を世に広めた著者、エドワード・O・ウィルソンが歩んだナチュラリストヘの道のり。そして彼の掲げる「バイオフィーリア(生物愛)」という概念。彼が謳う自然保護への永続する倫理の基礎とは。生物多様性へのフロンティアとは。エドワード・O・ウィルソン著『ナチュラリスト』──未だ知られざる惑星、地球を探求しつづける男の熱意と人生がここにある。
5.シロアリは夢を見るか
人は誰でも夢を見る。たとえ、一晩夢を見ずに暁を迎えたとしても、いつか必ず夢を見る。ある日、そんな夢に突き動かされた一人の男がいた。エドワード・0・ウィルソン──『ナチュラリスト』の著者である。
最終章は、彼自ら「回想録」と名づけ、その活動を振り返っている。多くの仲間、出来事。生物多様性、そしてバイオフィーリアという概念。そこには、生物保護活動の歴史ともいえるものが書かれている。
私個人には「バイオフィーリア」の基本的事項についての記述は、たいへん興味深かった。私たちが生活の中で、自然と考えている行為についての深い考察は誰もがなるほど、と思うに違いない。やることが…やらなければならないことがある人、そして、まだそれをしていない人を突き動かすものは、なんでもいい。躊躇せずに一線を超えることが大切だ。そんな彼の声が聞こえてきそうな気がするのは私だけだろうか。
授業日: 2001年7月3日;