京都新聞2002年11月27日夕刊「現代のことば」掲載
「リテラシー」という言葉がよく使われるようになった。「コンピュータ・リテラシー」とか「情報リテラシー」、あるいは「メディア・リテラシー」とかいうように。大学生であれば、だれもがこの言葉を耳にしたり目にしたことがあるにちがいない。大学では、これが科目名称にもなっているからだ。情報化社会で仕事にありつくために必要なのはこの「コンピュータ・リテラシー」とか「情報リテラシー」だというのが、どうやらいちばんの理由らしい。つまりパソコンを使いこなすための知識と技能を身につけたいということだ。もっとも「メディア・リテラシー」のほうは、メディアによって与えられるものを鵜のみにして騙されないようにしよう、という批判的な知識の形成を意味しているのだが。
このカタカナ言葉を熱心に使う人と話しをしていると、奇妙な気分になることがある。なんだか、本を読んだり文章を書いたりすることは時代おくれであるかのように聞こえるのだ。大学生が本を何冊も持ち歩いたり、それを読みこなすために分厚い辞書を持ち歩いたりする必要はもうないと主張する人も、ほんとうにいる。たしかに、書店で何巻にもなる書籍を注文したら、こちらCDのほうになります、よろしかったでしょうかと言われてもおかしくない。
漢字をおぼえなくても、コンピュータが、ひらがなから「監事」とか「幹事」とか「漢字」に変換してくれるからいいと言う人も、ほんとうにいる。じっさい、「感心があることに関心する」と書く学生は、もはや少数派ではない。
文章を書くということは考えるということとほとんど同義だと思っていたが、「情報リテラシー」派のなかには、文章とはそれらしい言葉をそれらしくならべるものにすぎないと思っている人が、ほんとうにいる。「コピー・アンド・ペースト」(コピーして貼りつける)という「コンピュータ・リテラシー」によってレポートらしきものを作成する学生もときどきいるが、こっちのほうは、いんちきをしているという自覚がまだある。
リテラシーとは、もともと、文字を使う力、つまり読み書き能力のことであり、国民の識字率というような問題を語る言葉だ。もちろんそれが意味するのは、広く世界を知り、自分の力で考え、多くの人に伝えるという可能性を飛躍的に増大させた人間の力である。最近流行の「リテラシー」が語られるときに奇妙な感じがするのは、どうやら、本家であるはずの読み書き能力が、否定されるとまでは言わないとしても、無視されているかららしい。それに、この新しい「リテラシー」は売り物で、お金と交換でなければ身につかないことが多い。本家の読み書き能力が崩壊してしまうのならば、こちら「情報リテラシー」のほうになります、と言われても、すこしもよろしくない感じがしてしまうのだ。