「イー・ラーニング」?

京都新聞2003年03月03日夕刊「現代のことば」掲載

e−learningという奇妙な言葉が飛びかうようになった。つまりは、売り込みが激しくなってきたのだ。「イー・ラーニング」と読むのだという。「イー・コマース」という言葉もあって、こっちのほうはインターネットを使って商売をすることを意味していて、つまりは「電子商取引」ということだろう。しかし、「イー・ラーニング」のほうは、なんだか神秘的に聞こえてしまって、あまりいただけない。これは時代遅れの私の無理解ということなのだろうか。

インターネットを使っての通信教育を意味するのだと言ったら間違っているのだろうか。なるほど、もしそうなら、「電子学習」という直訳では具合が悪いかもしれない。「インターネット通信教育」などと言えばいいと思うのだが、「イー・ラーニング」の専門家らしき人たちは、そうだともそうでないとも明確には答えてくれない。だから、もっと神秘的なことだと思えてしまうのだ。

遠くの人と簡単に通信ができることは、良いことにちがいない。が、すべてが「イー・コマース」だとか「イー・ラーニング」だとかになって、人は自分の家から一歩も外へ出ることなく社会が成りたつなどと妄想するむきがあるのではないかと心配になったりもする。体を動かしたくなれば、「イー・ランニング」とか「イー・セックス」なる電子的装置を購入すればよいとか……。

ということであれば、神秘的ではなく、ただ馬鹿げているということなのだ。しかし現実は、ありとあらゆる分野で恐ろしいほど電子化が進行していて、馬鹿げていると笑い飛ばすこともできない。ブッシュ政権が愚かにもはじめようとしているイラクへの攻撃もそうであることは言うまでもない。湾岸戦争から、ついこのまえのアフガニスタン攻撃までの戦争で、人間の苦痛や悲しみを感じることのない電子化された軍隊のありようを、私たちはいやというほど見てきている。

「インターネット通信教育」は、もちろんありうるし、有用であるにもちがいない。が、それは人間社会そのものの代用には決してなりえない。あたりまえのことだが、通信であろうとなかろうと、教育が起こるには、内容を持った人間が存在しなければならない。学びあう現実の人間が存在しなければならない。人間から乖離した「コンテンツ」(内容のこと)など糞食らえだ。生きた人間とつきあいたくないということが「イー・ラーニング」専門家たちの隠された動機であるとは思いたくないが、私はますます警戒心を強めないわけにはいかない。