リベラル・アーツとしての新しい人文学部

『木野通信』No.36 巻頭言, 2002年12月

豊かな社会。環境の世紀。メディアの時代。二十世紀の末ごろから、私たちの生きる日本の社会の特徴、あるいはその課題を表現した言葉だ。より正確には日本社会にも当てはまる近代の帰結を語っていて、私たちが乗りこえなければならない主要問題である。しかし、いずれも極めて両義的な響きをもっている言葉である。「豊かな社会」には、人間がハングリーな自発性を失いただ消費者として浮遊するという、恐ろしくやっかいな特徴が貼りついている。「環境の世紀」が意味するのはなによりも文明社会にさしせまる存続の危機だが、新たなビジネス・チャンスという実利主義のみならず、人間の知力を傾けての挑戦という響きがある。その挫折は途方もない荒廃や戦争を意味することは言うまでもない。「メディアの時代」という言葉にも、これからさらに実現していくであろう可能性への期待と、人間の際限のない自己拡張への不安とが、鋭く交差する。

しかし私たちは、これらのことを明確に主題として、これからの社会をいかに形づくるべきか議論するための知識を、充分に蓄積してきたとは必ずしも言えない。残念ながら日本の多くの大学は、これまでは、そのような批判的な知が形成される場であるよりは、むしろ社会の趨勢にほとんど無批判的に追随してきたと言わなければならないからだ。豊かさについても、環境危機についても、メディアによる社会変容についても、広く流通している意識は、商品広告のコピーのように口あたりはいいが曖昧なものばかりであるように思える。

大学が、多くの若者の人間形成の場であり、社会と自己とを対象化する知性の場であるならば、これらの主題をめぐって広範な学問・芸術の成果をあつめる必要があるにちがいない。リベラル・アーツと呼ばれる大学教育の目指すものが、社会の形成に責任を持とうとする人間であるならば、今日では、「環境」はその教育の一つの大きな主題であるべきだろう。もちろんこれは、狭い意味での環境のことしか語れない専門技術者の養成を意味するものではない。また、われわれをまるで取り囲むかのように構築されつつあり、擬似的世界と呼ぶこともできる「メディア」も、大学教育のもう一つの大きな主題としなければならないだろう。

人文学部の環境社会学科はこのような大学教育の先駆けとしてつくられたが、来春完成年次を迎え、いよいよその成果が問われる。また来春からは、もう一つの今日的な主題「メディア」を軸とする社会メディア学科と、伝統的な芸術・芸能の探究を基軸とする表現文化学科とがスタートする。芸術文化こそ、経済中心の趨勢に批判的な視座を培う人文学のかなめだからだ。

人文学部では、このような今日的な再編成に加え、入学生の受けいれについても、顔の見えない入学試験から徹底した対話へと大きな転換をはかりつつある。もとよりリベラル・アーツの大学とは、学生のただ通過する場ではなく、社会を捉えなおし自分自身を評価するという作業を、共同で行う場だからである。