第4回 科学技術、化学産業の歴史とジャーナリズム


配布資料の説明

追加の資料があります。これを回してください。

この資料にある本(日本語訳『農薬の陰謀』)がいつ出版されたか確認してください。なんという人が書いたのか──もとの本は英語で書かれていますね──それはわからないかな。ポール・エーリックという人の序文は、1983年に書かれていますが、この本の著者はロバート・ヴァン・デン・ボッシュという人だね。ヴァン・デン・ボッシュという人は、1983年にポール・エーリックが序文を書いた時点では、すでに亡くなっていたんだね。

それから、こういう資料(年表)を渡しましょう。今日は、この資料を使います。

みなんさんが生まれたのはいつですか。1982年という人がいますが、この年表をみると、ボパール(事件)の2年まえだね。レーチェル・カーソンは1907年生まれです。石牟礼道子が生まれたのが1927年です。広島、長崎に原子爆弾が落とされたのは1945年です。広島、長崎以前にアラモゴルドで一発実験をしてますが、それも1945年。そのときまでに、核兵器をつくる技術が成立をしてたんだね。それは、前期に見てきた通りで、1930年代ぐらいからのことが詳しく書かれていましたね。

この年表には第一次世界大戦は書かれていませんが、いつだったかな。第一次世界大戦で化学兵器が使われたんだね。たとえばオーム真理教が地下鉄で発生させたサリン・ガスは、第一次世界大戦のときにつくられたんだね。第一次世界大戦でいつのことかな。レイチェル・カーソンが生まれたよりも後だよね。それから、ダイナマイト(雷管を使う)の発明はいつですか。「ノーベル賞」のノーベルという人が発明したのでしょ。この年表より少し前の19世紀後半のどこかだね。それから、産業革命というのはいつごろのことだと言われているのかな。19世紀かな、18世紀かな。というようなことを考えておいてください。

槌田龍太郎「硫安亡国論」と化学産業

予定では、今日、『公害原論』に入ろうと思っていたのですが、予定を変更します。『公害原論』というのは、本になっていますが、もとは講座の記録なんだね。公開講座の記録です。宇井純という人が、大学の外の人にも公開される講座を開いたのですが、1970年のことでした。1970年というと、『苦海浄土』が単行本で出たのが、69年だから、その次の年には「自主講座・公害原論」が開かれた。

その、宇井純さんは化学の人です。みなさんが知っている槌田劭さん、この人も実は化学の人です。槌田劭さんは、お父さんが槌田龍太郎さんといいます。『化学者槌田龍太郎の意見』という本があるのをご存知ですか。槌田敦、槌田劭兄弟が編集をしているので。1945年に戦争が終わるしょ。そのころに、硫安……。「硫安」という言葉は知っているかな。そうか、知らないか。えー、槌田龍太郎さんは「硫安亡国論」、硫安が国を亡ぼすということを言っておりました。1948年ごろ日本はなにをしていたかというと、石炭の増産と米の増産──傾斜生産と言っていましたが、石炭と米に力を入れようとしていました。1945年の米の生産量は600万トンでした。これを、1948年当初のことですが、1000万トンにしよう、どうしたら1000万トンにできるか。肥料によってこれを達成することを考えたのですが、硫安というのは、その肥料です。化学の力で人工的につくる肥料です。ものすごい量の硫安をつくったわけですが、槌田龍太郎さんは硫安がいかに農業を破壊するかということを言ってたのですね。今でも、戦後の時代に槌田龍太郎さんが「硫安亡国論」をとなえていたということをよく憶えている化学の人たちがいます。それは、ものすごく勇気のいることだったんですね。国家の政策で硫安をつくるのですが、それに反対するというのは大変なことだった。

みなさんが読んでくれたレイチェル・カーソンが主として問題にしたのは、肥料ではありません。しかし、言うまでもないことでしょうが、化学肥料も農薬も結局人工的に合成するものですね。これは、化学という人間が持っている知識によってつくられるわけだね。

さきほど言いましたが、第一次世界大戦のときには、その化学を使って毒ガス兵器をつくった。いまでもその毒ガス、化学兵器はつくられています。原子爆弾は、原子核物理学という知識が使われたけれども、当然そこには化学も使われた。化学とか原子核物理学というのは、どういうものでしょう。化学や物理学でいう物のいちばん細かい単位は何だろうかと考えると──すべての物は土と水と空気と火でできているという考えとは、だいぶちがいますね。

みなさんは、物を作ろうなんて、日常的にはもうあまり考えることがないかもしれませんが、しかし物を作ろうとする場合は、たとえば木を削って何かをつくるとか、あるいは材料を水で煮たり、火にかけて焼いたりして何かをつくるとかはするでしょうが、けれども目のまえにあるものをまったく違う物質に造りかえるということは、あまり考えつかないでしょう。

しかし、それは、われわれが日常生活のなかであまり考えないというだけであって、産業革命の時代以来、化学は次から次ぎへと今までになかった物質を人工的につくりだしてきたんだね。人間がつくりだした、新しい種類の物質は、現在どれほどあるだろうか──ということを、考えてみてほしい。

化学産業の代名詞としてのプラスティック

レイチェル・カーソンは、1907年に生まれた人ですが、ますますこれから化学が新しい物質を造りだそうとしている、そういう時代だったのですね。今でも、毎日、新しい物質が造りだされている。新しい物質の、典型としてプラスティックをあげることができます。みなさんは生まれたときからプラスティックに囲まれている──机もそうだし、椅子もそうだし、床も、天井も、壁もそうだし、ガラスにもプラスティックの幕が貼りつけられているし、手に持っているボールペンも、なにもかもプラスティックです。昔は、べっ甲──カメの甲羅──から眼鏡のフレームなどを作っていましたが、いまはプラスティックのフレームです。このプラスティックには、山ほどいろんな種類がある。ぼくらが小学生のころは電話機はベークライトでした。ベークライトも、その当時の目新しい人工合成物です。セルロイドというのもそうです。ところがいまは、石油から山ほどいろんなものを造りだすようになった。まったく、ちがった世界になっています。

石油から大量に人工合成物を造りだすようになったのは、いつごろでしょうか。年表には書いてありませんが、それを考えてみよう。簡単に言うと、1940年代から徐々に準備されて、1960年代にはいると爆発的に、石油プラスティック──石油から造られるプラスティック──が出てきます。多種多様な石油プラスティックです。人工合成物の代表的なグループとして、石油プラスティックがあるということだね。悪名高いのは、塩化ビニール──ポリ塩化ビニール──、塩ビっていうやつだね。似ているのに、ポリ塩化ビフェニールというのがあります。こっちは、PCB。塩化ビニールは、PCV。これは、すごいよね。たとえば、サランラップとか、そういうものが山ほどあります。プラスティックは、工場で造り、商品として売っています。

人工核物質、人工化学物質のとどまることのない増大

さあ、そういうように人工合成物の種類、量が、どんどん増えるということが、この年表の背景になっていると考えて、この年表を見ていただきたい。広島、長崎に原爆が落とされた。その背景には、ウランやプルトニウムを生産する大変大規模な工業的体制がつくりあげられていた。その体制は、広島、長崎で終わりにならなかった。その後、この核物質製造は拡張しつづけ、いまではものすごい量の核物質が生産されていますね。どれぐらいあるかということを知るのに、簡単なのは、統計資料を見ることです。もちろん、生産が公表されないということもあるでしょう。しかし、だいたいの数字はつかめると思います。広島に落とされた原爆に使われていたウランの量は、どれくらいかというと──現在の標準的な原子力発電所の標準的な発電能力は100万キロワットといわれています。そのような原発が日本には約40基ですか、あるいは約50基ですか。その標準的な原発で使われるウランの量は、広島の原爆に換算すると、1000発です。千倍。ということから考えてみても、原子力発電所だけでもすごいな、ということになります。もともとの開発目的であった、兵器としての核物質、これもたいへんなものだよね。ロシアとアメリカが、核弾頭の量を減らそうという努力をしていますが、ものすごい量だよね。つまり、核物質も、広島、長崎で終わりにならずに、どんどん増えている。自動的に増えるわけではなく、人間が造って、増やしているんだね。

で、レイチェル・カーソンが問題にした、人工の、核物質ではないが、合成物──これも、種類も量も、『沈黙の春』で終わりになったのではなくて、たいへんな勢いで増え続けている。ということだね。

チッソの場合──発電所から石油化学への道

みなさんが後期のはじめにやった『苦海浄土』に出てきたチッソ──あるときは、新日本窒素とか、会社の名前はいろいろ変わりますが──が造っていたものは、なんだったでしょう。チッソは、もともとは何の会社だったか。そうですね、一時期、硫安を造っていましたね。そのまえは、何だったでしょう。化学というのは、ものすごい知識です。化学の知識をもっている人が会社を作ろうと思ったら、一種類の物、たとえば硫安なら、硫安の工場しか作れないということではないんだね。

たとえば、材木屋さんは材木しか扱わない。もともと、木が生えて、その木を切って材木にするだけのことですからね。しかし、新しい物質を造ってしまう知識、技術は、つぎつぎと別の物質をつくりだし、それを商品として生産することができる。チッソという会社は何をしてたかな。野口遵──ジュンというのは音読みで、ほんとうは訓読みでなんとか言うのでしょうね。知っている? 「ノグチ・シタガウ」というのですか。よく知っていますね。さて、この野口遵という秀才がいて、この人が東京の大学で化学の訓練を受けて、大学を出たあと、鹿児島に行く。最初は何をするかというと、発電所を造るんですね。金山、金鉱があったのです。金鉱は金を掘り出すわけだけど、坑内から水を汲み出すのに大変な重労働があった。そこで、電気を利用して、ということは電力ポンプを使って、水を汲み出す。というわけで、野口さんの最初の事業は、発電所だった。

これが、二三年も経たないうちに、カーバイドを造る会社になる。カーバイドって知っている? アセチレン・ガスって聞いたことある? 昔は、夜店はアセチレン・ガスを灯かりにしていたんですよ。それから、イカ漁は、今はものすごい投光器を使っていますが、昔はアセチレン・ガスの灯かりでやっていた。そのアセチレンのもとになるのがカーバイドだよ。いいかい。そのカーバイド会社は、すぐに今度は、肥料を造りはじめる。その肥料は、窒素肥料だね。昔は、「風」とか「空気」というのは、「風」とか「空気」でしかなかったんですが、「空気」のなかには、「窒素」とか「酸素」とか「水素」とか「炭酸ガス」という、いろいろな物質があることが解ったんだね。こういうのを、化学的知識と言います。みなさんは、光合成という言葉を聞いたことがあるでしょうが、光合成によってできるものは、糖だよね、あるいは澱粉ですよね。蛋白質は光合成によってはできない。しかし、植物の細胞は、蛋白質がないと形成されない。蛋白質を形成するには、窒素がいる。その窒素は、空気中から、あるいは土壌のなかなら取り入れられる。これを、人工的にたくさん取り入れることができるように、土のなかに撒いてあげよう、というのが窒素肥料だよね。

窒素肥料といえば、すぐに思いつくのはアンモニアだよね。アンモニアができるんだ。アンモニアはいろんなことに使われます。ここが恐ろしいところです。くりかえして言いますが、化学工業は一つの合成物をつくることで終わらない。それをまた原料にして、次ぎの人工合成物をつくる。いろんなことをするのです。というわけで、『苦海浄土』に描かれている1950年代から1960年代にかけて水俣のチッソの工場で造られていたもの、しかも有機水銀を環境のなかにたれ流すことになったものは、何であったか。何を造るために、水銀を使ったのか。

うん? アセトアルデヒド。アセトアルデヒドとは何か。アセトアルデヒドは、プラスティックの可塑剤。可塑剤というのは、形を変えられるようにする。「彫塑」という言葉を知っている? 「彫刻」というと彫ることばかり考えるかもしれませんが、「彫塑」という方法があって、粘土を使ってものをつくる。「彫塑」の「塑」という字は、「可塑剤」の「塑」という字といっしょです。たとえば、すでに出来上がっているある種のプラスティックにそれを加えると、柔らかくなって、たとえば人工皮革ができる。可塑剤が入っているから、本物の皮のように曲げても壊れない。もう一つは、最終的には硬い個体が製品としてできることを目指しているけれども、製造過程で形を自由自在に変えられるようにする。そのときに混ぜるのが可塑剤だね。

可塑剤がなければ、プラスティックの用途はずいぶん限定されてしまいますね。で、これを造ることにチッソは一生懸命だったのですね。今は、もちろん可塑剤はありますが、アセトアルデヒドを可塑剤として使うということは、下火になった。その理由はいろいろあると思います。アセトアルデヒドを造ろうとすれば、水銀を使わざるをえなかった。これは毒性が高いということが解っていたし、とんでもない状況を生み出してしまった。だから、この方法ではなくというので、これはまた化学のすごいというか恐ろしいところですが、別の方法を編み出した。

もう一つの理由は、1960年代というのは、日本にとっても世界にとっても、石油を原料とする化学産業への大々的な切り替えが起こるんですね。それまでは、石炭であるとか、その他植物とかを原料とし、そこから化学物質をとりだして、それを合成していたわけですが、ほとんどの人工合成物を石油からつくるようになる。というわけで、それまでの方法とはちがう合成の方法が開発される。

けれども、注意をしてほしいのは、結局のところ化学技術による新しい物質は、次から次ぎへとつくりだされ、種類も量も増え続けているということです。核物質の生産量か減らなかったと同じように、化学産業による人工合成物の生産量も減らないのです。それが、Silent Spring(『沈黙の春』)1962年の背景です。同様に、年表の石牟礼道子さんのところには、チッソがその製品をどのように変えたのか、どのように増産したのかという背景を書き込むことができます。

化学産業に対決するレイチェル・カーソン

というわけですが、みなさんの手元の資料にある『農薬の陰謀』という本は、1983年にアメリカで出たんだね。日本では、その次の年に翻訳が出た。1962年に、レイチェル・カーソンが『ニューヨーカー』に、本になる予定の“Silent Spring”を三回に分け載せましたね。一回目、それが出たときには、化学会社は、とんでもないものが出た、これは黙らせなくてはと考えた。けれども、そのときには次の週の印刷出版の準備が進んでしまっているから、手の打ちようがない。三回目、第三週目に載るものについては、『ニューヨーカー』社に掲載をやめるように、やめないと裁判に訴えるぞ、という脅しをかけます。それから、ホートン・ミフリンという出版社にも本を出版するな、出版すると裁判に訴えるぞ、裁判には金がかかるぞ、と言いますが、『ニューヨーカー』もホートン・ミフリンも、どうぞ訴えてくださいとたじろがなかったんですね。それで、Silent Springは何万冊単位で売れます。

著者であるカーソンさんは、『ニューヨーカー』に記事が出るまえに、ホートン・ミフリンから本が出るまえに、たとえば訴えられたりしてお金がかかったときに、著者であるカーソンの責任に転嫁されてお金を払わねばならいという事態を避けるために、弁護士とよく相談をして、出版社との契約を少なくとも一回やり直しをしています。カーソンが支払うことになる金額の上限を決めるというようなことをしています。レイチェル・カーソンがみみっちい人だと誤解をする人がいるかもしれませんが、出版社もこういう準備をしておいた方がよかったんですね。それが62年のことですが、それから二年後の64年にカーソンは亡くなります。ガンであるということは、1960年にわかっていた。ガンであることがわかってから四年生きたわけです。

カーソンに『沈黙の春』を書かせた、素人の「体験」

Silent Springという本を書くことになった、大きなきっかけは、1958年にオルガ・ハッキンスという人がカーソンに送った手紙だと言われています──だから、四年間かけて本を書いて、途中でガンであることがわかるのですが、間に合うんですね。じつは、この本の相当の部分で、特に中ごろの部分で、全体の三分の一といっていいかもしれませんが、オルガ・ハッキンスがカーソンに伝えたような事例、ハッキンスの体験したもの以外のアメリカ国内、あるいは国外での農薬の被害事例をかき集めていますね。よく見ていただくとわかりますが、あるいはその前史を含めるともう少し長くなりますが1940年代のことから、そして量的にはやはり1950年代の事例が多くなりなすが、集められています。農薬の被害があったということを言った人は誰でしょう。カーソンではないのです。化学者ではない。あるいは、農薬被害を調べている職業的ジャーナリストでもない。つまり、それは、畑に立っていた人であるとかです。専門的な職業ということでいえば、化学の知識のある人ではなかった。知識があってももちろんいいのですが、自分が生活のなかでそういうことを目撃をした、あるいは体験をした人たちだね。

ここで少し考えてほしいのは、レイチェル・カーソンは科学者です。科学者といっても、化学ではなく核物理学ではなく生物学です。しかし科学者です。そして、この年表を見てもわかるように、もの書きです。著作者です。カーソン自身が農薬の散布されている現場で何かを体験した、あるいは農薬が撒かれる土地に住んでいたということではありません。注意をしてほしいのは、農薬がどれほど恐ろしいものであるかということを一番最初に感じ取ったのは、科学者であったというわけではない、ということです。専門家だったというわけではない、ということです。

石牟礼道子『苦海浄土』のなりたち方

さあ、(年表の)石牟礼さんのところを見ていただくと……。石牟礼さんは、ものを書いてはいましたが、カーソンのように早い時期から全国的に名前の売れていた人ではないね。1960年のところに『サークル村』と書いてありますが──「サークル運動」というものがあったという話はしたよね。九州で出されていた、限られた仲間の読む雑誌だったと言っておきましょう──そこに書いたのが水俣病について書いた最初だった。その後に、同じ年ですが、『日本残酷物語』という平凡社からの単行本の一部に、水俣病のことを書いています。「蝕まれる労働」という章があるのですが、そのなかに、ひとつはベンゾールについて、もうひとつが水俣病についてでした。分量的には、390ページのなかに、「ベンゾールの恐怖」と「水俣病」を合わせて約25ページぐらいかな。少しだけれども、書くことができた。

1963年の『現代の記録』というのは、石牟礼道子自身が雑誌を作ろうとしたんですね。しかし、一号か二号がでて、あとは財政的に続けることができなかった。『熊本風土記』は、みなさんがご存知のように、渡辺京二という人が主宰をしていた地方の雑誌で、そこにかなり書くことができた。しかし、この雑誌もずっとは続けられなかったんだね。その後も石牟礼さんは書き続け、69年に講談社から単行本『苦海浄土』として世に出ることになる。

レイチェル・カーソンが置かれていた状況と、石牟礼道子が置かれていた状況は、だいぶ違うように思います。どちらが良いとか悪いということではなく、違う。

この年表は、だいぶ白紙の部分が多いので、いろいろ想像をしてみなければなりませんが、たとえば石牟礼道子とレイチェル・カーソンは手紙のやりとりをしただろうか、などという荒唐無稽に思われるようなことを考えてみるのも無意味ではありませんね。ふたりが書いていた時期は重なりあっているのですが、それぞれ大いに違った状況におかれていました。

すでに全国的な著作者だったレイチェル・カーソンの闘い方

さて、レイチェル・カーソンは『沈黙の春』のなかでDDTについて書いていますが、そのDDTについて自分が考えている危険性を、じつは1945年の時点でどこかに発表しようとしていたんですね。『リーダーズ・ダイジェスト』に原稿を持ち込んだ。戦争のただなかだったということもあったのでしょうが、『リーダーズ・ダイジェスト』は関心を示さなかった。広島、長崎に原爆の落とされた年、あるいは東京だとか大阪だとかの大都市は焼け野原になった年だね。1941年に溯ると、『潮風の下で』という訳になるのかな、Under the Sea-Windという本を出して、これはたいへん売れました。もの書きとしての活動がずっと続いていたのでしょうが、1950年にはGeorge Westinghouse Science Writing Award,今風に日本語にすれば「ジョージ・ウエスティングハウス科学ジャーナリズム賞」とでも言うんでしょうね、ウエスティングハウスという人がお金を出して賞をつくったんでしょうが、それをもらっています。次の年には、『私たちのまわりの海』という本を書いて、その本は、次ぎの年にNational Book Awardとか、John Burroughs Medalとかいう賞を獲得しています。つまり、すでにカーソンはよく売れる作家だったんだね。

しかし、それでも、化学会社から攻撃があった場合にはどうするか、ということを真面目に考えなければならなかった。さて、本が出たあと、テレビの討論会や、さまざまな団体の主催する講演会などに、カーソンは登場することになりますが、ほんとうによく闘ったという感じだね。どこかにビデオがあったりするかもしれませんから、探して見るといいでしょう。

化学産業界の反撃、そして「プロパガンダ」の組織化

Silent Springが出たあと、モンサント社が、広報誌みたいなものだと思いますが、自社の雑誌Monsanto Magazineに──モンサント社というのは、当時すでにたいへん大きな有数の化学会社でした──そのMonsanto Magazineに“The Desolate Year”、これは翻訳すれば「荒廃の年」というようなことですが、Silent Springのパロディーを載せます。もし農薬を使わなければ畑は虫に食い荒らされ、雑草ははびこり、農産物の収穫は減り、人間は腹を空かせてしまうであろう。つまり、Silent Springにたいして逆襲に出たんだね。この年表には、Monsanto Magazineのことだけが書かれていますが、それだけですむはずがない。しかし、実際どれだけの化学会社からの反撃があったか、化学会社が防衛のためにどういう反対キャンペーンをはったかということは、あまり研究されていません。 それでも、今わかることは、その当時の化学会社は、ほとんど予想もしていなっかた事態に直面したようだったということです。まさか科学者がこんな本で、科学技術でどんどん発展進歩しているはずの自分たちの社会が問題があるなどと書くわけがない、と思っていたのでしょう。予想もしていなかった。しかし、今では、化学会社は事態をよく理解している。レイチェル・カーソンもいたし、石牟礼道子もいたし、山ほどいろんな奴がいて何を言うかわからないということが、よくわかっている。早手回しに、いかに科学技術が人間にとって有益なものであるか、それがいままでもたらしてきた害については、これも科学技術が解決することができるということを──実証する必要はないんですよ──そういう意見、考え方を大量に世の中に出回るようにする。そういうことにお金をかけはじめたんですね。そこにかけられているお金がどれほどのものか、どう計算したらいいか方式を考えて、調べるといいと思いますが、それはたいへんなお金の量だと思います。こういうのを、「広報」といいます。大学で「広報」と言えば、せいぜい受験生にできるだけたくさんきてもらう、そのための広報のことぐらいしか意味しませんが、産業界の広報というのは、すごいですよ。パブリック・リレーションズといいますが──公衆との関係──、そこには当然のことながらいわゆるコマーシャルも含まれますが、それだけではない。

みなさんには当たり前のことでしょうが、パブリック・リレーションズをもっぱら引き受ける会社があります。日本で大きいところでは、たとえば電通、それから博報堂。こういう会社は、いろいろなことをしていますが、こういう会社が使う、もの書きが、また山ほどいるわけですね。ライターとか、ジャーナリストと呼ばれる人たちです。

レーチェル・カーソンには仲間がいましたが、こういう「広報」の組織によって自分の考えを広げたわけではなかった。しかし、産業の側は、「広報」の組織体制をものすごく一生懸命に考えて、そこに大きな金を投入して、つくりあげ、現在にいたるわけです。だから、この環境ジャーナリズムの授業が本当だったら焦点をあわせなければならないのは、産業側の「広報」がどうなっているのかという問題だよね。しかし、それはなかなか難しい研究になります。

1949年トルーマン大統領就任演説の意味──科学技術による世界のアメリカ化へ

時間がないので、大急ぎで進みますが、年表で1949年まで溯って見てください。1945年広島に原爆が落とされるまえに、それまでたとえば6月にはすでに準備のはじまっていた「原爆投下」の声明がありましたね。それを、広島の後でトルーマン大統領が読んだんですね。そのトルーマン大統領は、次ぎの大統領選挙で再び大統領に選ばれます。49年の大統領就任式で、トルーマンが演説をします。この演説は、たいへん重要な演説でした。重要なことの一つとして、ソ連、中国、その他の社会主義あるいは共産主義を掲げる国は悪であり、これと闘わなければならない、ということが宣言されます。第二点は、今みなさんの手元の資料にあるテキストのアンダーラインをした部分です。ひとことで言うと、アメリカが戦争に勝ったのは正しい民主主義だったからだというニュアンスはもちろんですが、豊かになること、つまり経済的に発展することが、ものすごく重要だという主張だね。世界を見れば、発展していない国が数多くある。こういう国々をアメリカは助けて、発展させる。経済開発を援助するということを宣言しているんだね。それには、アメリカがもっている科学技術と、それから自由な貿易が力になる。そういう宣言をしているんです。今までも、その延長線上でやっているんですが、今は当時と少し違って、悪の陣営がだいぶ小さくなっている。悪は、共産圏ではなくて、イラク、イラン、北朝鮮になっています。

アメリカは、発展していない国々を、科学技術の力によって支援し、発展させる。科学技術とはなにか。それは、なんといっても、化学とかなのです。それが1949年でした。そして、年表を一挙に跳びますが、1980年には、ユニオン・カーバイドというアメリカの化学会社が農薬を造ってインドのような「遅れた」国に大量に輸出をしていました。ところが、アメリカから運ぶのは割りがあわない。インドで造ってしまえというので、インドの中央部にボパール湖というたいへん大きな湖のある町がありますが、そこにユニオン・カーバイドが工場を造って、現地生産をするようになる。それが、1984年に大きな爆発事故を起こします。毒ガスが漏れてしまう。いろいろな数字がありますが、1000人が死にました。また別の説では、3000人が死にました。後遺症を抱えている人が2500人いるという見解もあります。人口はおそらく10万人ぐらいの町ではないかと思います。数千人の人たちに被害がでた。1000人の死者という数は、おそらく短い時間のうちに亡くなった人たちを表しているのではないかと思います。これは、農薬の工場そのものから毒ガスが漏れたという事件です。しかし、考えてみれば、その毒ガスから農薬を造っているのですから、農薬というのはやはりたいへんな毒なんですね。

最初に言ったように、農薬の生産量は減っていません。種類も少なくなっているわけではなく増えている。資料のなかの一つに、日本の農薬輸出がどうなっているかということを書いた記事がありました。ちょっと古いですが、それも見ておいてください。

大急ぎで、最近の反科学産業的吹き出物について

さて、年表の一番下のほうを見てください。著者はシーア・コルボーンと読むのでしょうね、Our Stolen Future『奪われし未来』という本が出ました。これは奇跡的に出版された。中味は、みなさんが知っている言葉で言うと、環境ホルモンのことが書かれています。環境ホルモンにはいろいろあります。たとえばプラスティック類について、かなり詳しく書かれています。この本の出版をめぐる出来事については、今日は詳しく紹介する時間がありません。さらに、その下に書かれているThe Ecologistという雑誌ですが、それが“Monsanto Files”という特集号を出します。モンサント社の事件をたくさんファイルに束ねたのが「モンサント・ファイルズ」ですが、これを『ザ・エコロジスト』が載せようとして、たいへんなことが起きたのです。『ザ・エコロジスト』のその号については、印刷できていた1400部分をシュレッダーかなにかにかけたのか、あるいは燃してしまったのか、溶かしてしまったのかはわかりませんが、印刷所がすべて破棄したという事件が起こっています。

次回は、『公害原論』だね。資料は、次回配布します。今日使った年表は、いろいろ書きこんだりして、自分のなかで、産業の歴史と環境ジャーナリズムの歴史はどう重なるのかを考えてください。

授業日: 2002年10月8日;