第8回 ジャーナリズムが対象とする「事実・体験」とは何か

焼け落ちた病室前に立つ蜂谷道彦医師本稿は昭和20年8月6日、広島に原子爆弾が投下された日から、私が見たり、聞いたり、思ったりしたことを閑さえあれば書きとめていたメモを整理したものである。典型的な原爆症の症状を日を追って拾い集め、それらの症状経過を経とし、人の話や病院の動静、市内の模様や私の気持ちを緯として纏めた日記である。記録の重複をできるだけさけるようにつとめた関係上書き落としはあるが書き過ぎはない。全巻、事実の記録である。

蜂谷道彦『ヒロシマ日記』(法政大学出版局、1975)「あとがき」より
写真:焼け落ちた病室前に立つ蜂谷道彦医師


■「日本・ロシア戦を見た」とはどういう意味?

中尾ハジメ:今日のテープおこしはちょっと難しくなります。今日の議論はなかなかとらえ難いかもしれません。だから、ノートを取るのは、ちょっと余裕を持って、スペースをたくさんあけておいた方がいいかもしれません。

サッカーのワールド・カップ見たかい? 日本・ロシア戦を見た人?(ほとんどの学生が手をあげる) 見てない人?(ほんの数名が手をあげる) 新聞で日本・ロシア戦の記事を見た人?(かなりの数の手があがる) みんなであーだこーだ言いあった人?(ほとんどの学生が手をあげる) 誰ともしゃべらなかった人?(ほんの数人が手をあげる)さびしいなあ(笑)。

これ(ほとんどの人が日本・ロシア戦を見たと手をあげたこと)は、どうしてそういうことが可能であったかと考えたら、簡単にわかるのは……。競技場まで見に行かなかったよね? つまり、テレビだとか新聞だとかを通じてみたんだよね? これから話は難しくなりますが……。みなさんは、じゃあ、日本・ロシア戦を「体験」したんだろうか? 「経験」したんでしょうか? という問題です。そんなことは、ふつう誰も問題にしません。けれども、厳密に考えるときには、「じつは日本・ロシア戦を私は体験しなかった、しかしテレビは見ました」という言葉づかいというか、考え方、整理の仕方というのが必要かもしれません。

それで、取りあえずちょっとこういうふうに言っとこうか、という整理をしますが、これからの話はほとんどが「取りあえず」という前提をつけなければならない。ですが、いちいち言うのがめんどくさいから、「取りあえず」と言わなくなります。やっかいな問題で困ったことですが、結局、みなさんが「日本・ロシア戦を見た」というのは、広い言葉でいう「ジャーナリズム」が仲立ちになって起こったことだね。

そして、ついでに考えてほしいのは、なんでみんな見るの? という問題です。「日本・ロシア戦を見た」とか、あるいはそのことで友達としゃべったとかということをしなかった人は、この中にはほとんど誰もいない。で、わざわざ「広い意味での『ジャーナリズム』が仲立ちになる」と言いましたが、最近は「メディア」と言います。(ホワイト・ボードに「メディア」と書く)「ジャーナリズム」というと、まだなんか人がやってるという感じがしますが、「メディア」というと人じゃないみたいな感じがするね。

それで、そういう世界がこうあって(メディア)、それでここ(メディアの右)に「みんな」というのがいるんだよ。なんでみなさんは日本・ロシア戦を見たりするのかな? ……なんで(笑)? ……なぜ? ……興奮するから? 興奮したいから? どういう興奮だろう? あれはみんなでする興奮なんだよね。……みんなでする興奮。……なんで興奮するんだろう? それから、……「みんなでする興奮」というのは奇妙な興奮で、こういう言葉があります。「一体感」。

……というジャーナリズムが仮にあるとして、そのこっち側(ホワイト・ボードの右側)にみなさんがいるとして──あえてそういうふうに分けるわけですが──そのみなさんの側にあるもの、つまり一体感がほしいとか興奮したいとか、仮にそういう言い方をしているものが、じつはジャーナリズムで成り立っていたんだね。なにが成り立ったか? 成り立っているのはこういうもの(「興奮」「一体感」と書かれている「みんな」のあたりを指して)が成り立っているんだよね。

こっち側(ホワイト・ボードの左の方)にはあいかわらず……、今の考え方で言うと、これが日本・ロシア戦ですね。で、スタジアムの観客席で見ている人とみなさんの違いは何か? ある意味では違いはないんですね。でも今はあえて違いがあるような並べ方というか区切り方をしております。

さて、これは前おきで、その次にですね……「事実と科学」というテーマをやることになっていますが、「事実」ってなんや? 事実は事実だよ、と思うんですが、これをどっかで区切りをつけたり、輪郭線を書いたり、あるいは他の言葉とはこういうふうに違うことを指していると言わなきゃいけないことになっております。その問題にだんだん入って行きたいのですが、……なんだろうね事実って。

■日本・ロシア戦もアフガン空爆もメディアの向こう側にあったのに

少しお馬鹿な発想で、今みなさんが聞いて、そうだなあと思ったことからスタートして考えると……日本・ロシア戦という、いわば「出来事」があった。その日本・ロシア戦をみなさんは、実際は、テレビで見てたんだよね。けれども、なんか知らないけれど、テレビで見てても興奮するんだよね。それは全然おかしいことでもなんでもない、当たり前のことのように思うんですが、しかし、あれが日本・ロシア戦でなくて、たとえばアフガニスタンの空爆が画面に映っていたとしたら、どういうことになるか? 実際にそういうことはあった。映ってたんだね。だけど、ここですぐにわかることは……。アフガニスタンの空爆を見たか? というふうにきいたら何人ぐらい手を上げるかな? ちょっと手を上げてもらおうかな。アフガニスタンの空爆を見た人?(わずか数人の手があがる) 見なかった人?(圧倒的多数の手があがる) その方が多いんだよね。なんで手を上げたのかはよくわからないんだけどもね(笑)。

小南真利:私が手をあげたのは、テレビで見たという意味です。

中尾ハジメ:テレビで見た人?(わずか数人で、変わりはない) やっぱり少ないんだよね。そうすると……、テレビはメディアの一種ですが、その向こう側にいろんなものがあるんだよね。いろんなものがある。で、ついでに小南さんにおうかがいしますが、アフガニスタンの空爆を見たときの自分と、日本・ロシア戦を見たときの自分となんか違うでしょ? 決定的な違いはないですか?

小南真利:日本・ロシア戦は見てない。

中尾ハジメ:ああ、日本・ロシア戦見てないかあ。変人だね。(笑)

小南真利:なんで?(笑)

中尾ハジメ:小南さんじゃなくていいけども……。つまり、アフガニスタンの空爆を見て、さっき言ったような見てる人たちの一体感は感じられるような状況だったのか? ……というふうに考えると、いろんな場合がありえますけども、やっぱりここに集まっているような人たちで考えると、それは全然ちがうでしょ。……と思います。そのことをなんと言うか? ある人たちは、「世界の距離」というふうに言うかもしれないし、もっと別な言い方もいろいろあるだろうね。

■「体験」とは何か──「経験」とのよくわからないちがい

それから、なお困ったことになるんですが、「体験」あるいは「出来事」という言葉をすでに使いました。(ホワイト・ボードに「体験」「出来事」と書く)これもすごく怪しいんだけれども、怪しいことでも仮に言わなければならないから、そう言ったんだね。誰の体験かはよくわからないんですが、こういうものがあって、ここ(「体験」の右)にジャーナリズムがあって、それでこっち(さらに、その右)にみなさんがいるというふうに、そういう関係だよという説明をしたと思いますが、……「体験」てなんだろ? これを、どういうふうに別な言葉で言いかえることができるか、……というのが今日みなさんが頭をひねらなければならないテーマです。

「体験」という言葉は、いろんな使われ方をしてるんだよね。「初体験」とか(笑)……これは面白いですね。(ボードに「初体験」と書き)こういう言い方があります! その「初体験」をした人はなんていうの? 「体験者」っていうの? そういうことでは、「体験者」とは、あんまりいわないよね。それから、「体験」という言葉に近いもの、「経験」という言葉があるよね。「経験」という言葉を使うときと、「体験」という言葉を使うときと、一般的に分けることは不可能だと思いますが……でも、「初経験」とは言いませんね。それからもう一つは、「あの人は経験豊富」という言い方はするけど、「体験豊富」とはあんまり言わないよね。で、それはなんでだろう、というのはここでは考え続けません。考えないけど、なんでこういうふたつの、違う発音の言葉があるのかね? 字も違うし。からだの「体」でしょ? こっちは「経る」、経過の「経」でしょ? ……というようなことがあります。これはよくわからない。どういうふうに我々は「体験」と「経験」という言葉を使い分けているのか? 夕べ一晩いろいろ考えてみたけれども、いくつか周辺的には思い浮かぶことがあるんですけども、ぼくら自身が決定的に違う意味をそこに込めて使っているかっていうのはよくわかんなかった。……ということが、まずひとつにありました。

■「体験」とは何か──ものごとの知り方としての「体験」

それから、この授業では「体験」という言葉を使った。「出来事」という言葉も使ってきた。「出来事」? 「体験」? これ(「体験」と「出来事」は)違うでしょ? 違わないかなぁ? なんで、ずっといままでの授業の中では「体験」という言葉と「出来事」という言葉を使って説明しようとしてきたか、いろいろわが身を振り返って一生懸命考えたんだけど、あんまりよくわからなかった。

「体験」ということについて、非常に狭い、せまーい、この考え方が成り立つかどうか疑わしいのですが、ものの本にはね、こういうふうに書かれている──「世界のついての直接的な観察による知識」。……わかった? 「世界についての直接的な観察による知識」なんだって。やっぱり知識かあ、というふうに悩まざるをえないかな。じつは僕自身は「ああ、なるほど、直接的な観察による知識を体験というんだな」と思わなくもないけども、多くの人たちは「体験」と「知識」を別物だと思うでしょ? これが大問題。「体験」とは「知識」の一種類……ある種の知識を体験と呼ぶんだね。……そーら、もう、みんな難しい顔しちゃってるよね(笑)。

さっきの日本・ロシア戦の場合でいうと、直接的に日本・ロシア戦を見た人は、ここにはいない。そうすると、「直接的な観察による」ということはなくなる。みなさんが、テレビの前で持ったものは何かというと、「体験」じゃないんだよ。しかし、みなさんは、「テレビの画面で、かくかくしかじかのことが見えていた」ということを「体験」したんだよね。「テレビで見ていた」ということが、皆さんの「体験」という「知識の一種類」ということになる、なってしまう。「そうか、おれは知的活動をしていたのか」と思うでしょうけど、そうなんだね。あれは知的活動なんですよ。しかしその知的活動は、困ったことに、みんなで一緒になって一体感に酔いしれるということにもなっていたわけです。

さらにもっともっと狭い定義のしかたがあって、その定義では、「体験」は「知識」かどうか非常に疑わしくなります。だいたい、ぼくらは、たとえば誰かを見た瞬間にそれは知識になってしまうんだけれども、「感覚のレベルで起こったことだけを体験という」定義のしかたもありうる。つまり、「知識」から区別するということも。それで、みなさんが「体験」という言葉をどういうふうに使っているか振り返って考えてもらったいいんですが、……たとえば京都精華大学の人文学部は体験主義だね。それを、誤解している人達がたくさんいて、「体験主義っていうのは、考えなくていいんだ、何にも知らなくていいんだ」って。……じゃないんだね。だから、その意味でいうのは、さっきの、より広い意味での定義の「体験」なんだね。まずそれがひとつ。しかし、体験の結果えられるものが興奮だけではちょっと困る。やっぱり、知識の一種類としての体験だというところに力点をおいてもらわないと困る。……ということがあります。ほかにも、いろんな難しいことがありそうなんですが、それぐらいにして……。こういうふうにジャーナリズムがここにある(ボードで、「ジャーナリズム」を指し、円を描く)。えらい乱暴ですね。でも、なんとなく納得できたり。ここに(ジャーナリズムの円の左横に円を描く)直接そこで体験をし、そのことによって知ることになる。……その知り方とは違う知り方をする我々がここに(ジャーナリズムの円の右横に円を描く)いる。……直接ではない。そのことを、もう一度繰り返して言っておきます。

■ジャーナリズムの「ものさし」──創造活動としてのジャーナリズム

それから、ジャーナリズムの「ものさし」という言い方をぼくはしました。みなさん自身が、いろいろなことを言ってきています。つまり、みなさんがジャーナリズムを考えるとき、こういうことが問題だなあ、あるいは大切なポイントがここにあるなあと考えたんですね。それを「ものさし」と言っていたんですが、そのひとつに、一番最初の回でだったと思うんだけど、「普通の人のまともな勉強方法としてのジャーナリズム」ということをしゃべったよね。(ボードに「勉強方法」と書きながら)「勉強方法」! 「ジャーナリズムというのは勉強」だ! この「勉強」というのは変だよね……「勉強とは何か」を定義しなければならないが、……今日は、「勉強方法」に加えて……「ジャーナリズムというのはじつは創造活動である」。(ボードに書きながら)「創造」だよ。これは非常に簡単なんです。なんで簡単か、みんな見たとおりだね。つまり、あれは誰かが書いたんだね。蜂谷さんが書いたか、あるいはハーシーが書いたか、バーチェットが書いたか、リチャード・ローズが書いたか……書いたんだ。書くということはどういうことか、みなさんはよーく知っていると思いますが、書くというのはどうしてもね……「作文」っていうんだよ、あれ。「作文」というのはどういうことか……大変でしょう、レポート書くのは? いろいろズルして誰かのを写しちゃう……写すのもじつは労力が要るわね。ワープロやるんだって労力いるし、そのままコピーしても労力がいる。そのままコピー・ペーストでも、編集しなければならないし、労力がいる。こういう過程がある。わかりやすく言うと、文を作らなければならないのです。それから、「映像だけでやる。だから私は作文をしない」という人がいるかもしれないけども、映像だけでも大変だよ。一定時間内に自分が見せたい映像をつめ込もうと思ったら、編集しないといけませんね。それが見る人にとってどういうふうに受取られるか、いちいち考えなければなりません。つまらない画面は切り捨てなければならないとか、いろんなことがあるのです。で、こういう過程を総称して、クリエイション、「創造」といいます。

ただし、こっからがさらにややこしい話しになってくるのでよく注意して聞いて下さい。『原子爆弾の誕生』は、フィクションか? フィクションでないとはいえないよね。ここが難しいところ。……フィクションてなーに? ……フィクションて? このことは、後まわしにします。フィクションというのは全く排除はできないどころか、おおいに取り入れないと創造ということは、たぶん、ありえない。クリエイションということはありえないと思いますが、今はそういう進み方をせずに、「ノンフィクション」というところからいきます。

■ノンフィクションも想像の力を借りた芸術作品

これは、ある意味でいうと分かりやすいが騙されてはいけないよ。「ノンフィクション」に似ている言葉、というか、ほとんど同意義語であるかのように我々がいい加減に使っている言葉があります。「ルポルタージュ」それから「ドキュメンタリー」。ぜんぶ、カタカナの言葉ですね。それで、まず「ノンフィクション」について『広辞苑』を見るとと、こう書いてあります。

ノンフィクションの『広辞苑』的説明──「事実に重きを置いて作られた文学作品、記録映画」。あんまり期待している定義ではないかもしれないけれども、そういうふうに書いたら、ああそうかという感じだよね。わかった? いいかい、「事実に重きを置いて作られた文学作品、記録映画」……それで、ここに「事実」という言葉がでてきた。「事実とは何か」とか考えないね。ふつうは、事実は事実だ……と思うのですが。「事実に重きを置いて作られた文学作品、記録映画」と書かれていた。ふつう焦っちゃうんだよね、「事実」ってあるから「事実」のほうにすぐいっちゃうんですが、焦らず、せっかくここに「文学作品」とでてきたから「文学」は何かなと考えてみる。それで『広辞苑』をまた引くんですよ。そしたら、一番目……「【1】学問」て書いてある。あちゃー、「学問」て何かなと思って「学問」を引いたら、たとえば「……知識と方法」と書いてあったりする。困っちゃう。ですが、我々普通人はそこで困らない。これがミソだよね。どうして我々は困らないかというのは、面白いことですが、ものすごくいい加減に言葉を使っていながら、やっぱり上手いぐあいに使い分けをしているんだね。ただ、その使い分けのし方を自分自身で自覚してしているかどうかは、非常に疑わしい。……というところがあります。さて、『広辞苑』で見ると「文学」っていうのは……。「学問」というのは【1】だよね。【2】のところは、「想像の力を借り、……」。こんどの「ソーゾー」は、困ったことに、「想像」なんだよ。(ボードに書きながら)これは思わず笑ってしまったけど、「力を借りる」ってどういうこと? ただ「想像によって」じゃないんだよ。「想像の力を借り、……」と書かれている。そのあと「……言語によって……」ときたね。そうか、言語でないとだめなのか。今、「文学」の『広辞苑』的定義についてやっているんだよ。「想像の力を借り、言語によって外界および内界を表現する芸術作品」。……また、芸術というのは何かと考えなくてはならないのですが、「外界および内界を表現する芸術作品」……書かなくていいんだよ、『広辞苑』に書いてあるからね。「……表現する芸術……」ときましたね。それを「文学」というんだって。……という定義が書かれていて、その定義をみなさんは覚える必要はなんにもないんですが、これを考えて欲しい。どうしてこんなふうに書いてあるんかな?

■「ルポルタージュ」

ついでに、「ルポルタージュ」というのはどういうふうに書いてあったのか見ると……「【1】報道 現地報告」。これが一番最初の『広辞苑』的定義です。たしかに、そういう意味で使っているのだけれども、それだけなら「ルポルタージュ」なんていわなくていいんだね。なんでわざわざ「ルポルタージュ」というのかというと……『広辞苑』の【2】の説明──「第1次世界大戦後に唱えられた文学様式で、社会の出来事を……」──「出来事」がでてきたね──「報告者の作為を加えずに……」──こんな字だよね(「作為」とボードに書く)──「ありのまま叙述するもの」。「叙述」……こういう変な言葉、「叙述」あるいは「陳述」という言葉がありますが……これをルポルタージュというふうに、どうやら呼んでいるらしい。フランスあたりの誰かが考えたんだね。で、「わが国には第2次世界大戦後、……」──第2次世界大戦前には日本にはこういう作品の様式が無かったと『広辞苑』は言っておりますが──「……文学の一ジャンルとして登場」。で、日本語にすると「報告文学」というんだって、「国に報ずる(=報国)」でなくて、「報告」文学です。

■「ドキュメンタリー」

次は「ドキュメンタリー」というのを見るんですね。そうすると「虚構を用いずに……」──キョコウ、虚しい構え──「記録に基づいて……」──記録そのものではないんだね。さっきのは「事実に重きを置く」で、今度は「記録に基づく」。なんか違うんかね。よく分かりませんが、「事実に重きを置く」を「事実に基づく」にかえ、「記録に基づく」を「記録に重きを置く」にかえる。こうすると、どうなるか、あんまり大差ないように思いますが、「ドキュメンタリー」というのは「虚構を用いずに記録に基づいて作ったもの」。これは、「記録文学」。そうすると、ああなるほど「報告」と「記録」はちょっと違うね、ということが分からなくもないです。

(ボードになにやら書きながら)なんでこんなことを、チンタラチンタラしているのかと思うでしょうけど、これはなかなか大切なプロセスでありまして、しかもこの大切なプロセスは、すっきりはっきりいかないんですよ。さあついでに……ドキュメント (ボードにdocumentと書く)、これに「タリー」とつくんだね、ドキュメントタリー。「ドキュメント」とは何か、辞書を引くと「文書」ということが、たぶん最初にでてくる。(『広辞苑』を調べている)……「記録、文献」です。「書類」「文書」をドキュメントと言います。これはもともと、ラテン語でね「ドクメントゥム」(documentumと書く)というんだね。このラテン語は2つの意味合いが合体してます、一つは、「デケーネ」というふに発音するんだと思いますが……あっごめんね……(decere)「デケーレ」。これは何かというと、「教える」という意味なんだって。それから「メントゥム」というのは何か。「メンソレターム」じゃないですが、「メントゥム」というのは手段!

えー、ちょっとこれも非常にいいかげんなことを言いますが、連想的に考えるとね、……教えるって何? 今は、教えるということには、教育機関という偏狂なものができあがっていて、みなさんはその教育機関のなかにいるわけなんですが、この偏狭なものの独占率っていうのは相当なもので、お父ちゃんやお母ちゃんは教える係ではなくなってるようですが、……教えるっていうのは何だろうな。なんか、やっぱり、「しゃべること」やろう。「ものを言うこと」が、非常に簡単な教え方。バカみたいだけど(笑)。

でも、ここで教える手段といわれたときに、つまりラテン語でdocumentumていうふうにいわれたときはね、それはもうちょっと高級になってるね。高級っていうか進化した段階だと思います。つまり、テキストだよ。これを読め、ここに書いてあるぞ、ということだったと思うんですが、今は文書とか書類をドキュメントといっております。で、ドキュメンタリーといわれるときには、それは記録文学とか記録映画とかいうものを指すようになってる。

いささか横道にそれたようですが、さあ、もとに戻ろう。どうしたら戻れるかな? 体験とか出来事っていうものに戻らにゃいかんわけですね。例の何回かここに書いた三つの長方形(図)がある、あのいささかおかしな図式に戻りましょう。みなさんは、その図式をもう一回頭の中に思い浮かべたり、ノートに書いたりするんですが……。「事実」という言葉を、「事実と科学」というふうに、「科学」と並べました。「と」っていう接続詞があるっていうことは、じつは「事実」と「科学」は対照的なものだって言いたかったんです。そのことを説明しようと思って、いろいろ考えているんですが……。

■ジャーナリズムにとって「事実」とは何か

とりあえず。この「事実」っていうのは、誰も見ていないところで起こっている可能性はある。しかし誰も見てなかったら、僕らには伝わってこないですね、絶対。誰かが見てないといけない。誰かが見るっていうことは、これは「体験」なんです。これが非常に重要なことです。人、人間が体験をする。で、そういう関係を一言で言おうと思うと、こういう非常に奇妙な言葉づかいになりますが、「体験としての事実」。……出来事。結局同じことなんですけどね。

これがひとつですが、しかしこの「出来事・体験」というのは、さっきの定義にみなさんは賛成しないかもしれないけども、やはりひとつの「知識」なんだよね。なんでかというと、当たり前だけど、物理的時間軸にそって起こることは、たちまちのうちに過去のことになってるでしょ。(笑)だから、知識、つまりデータベース的なものがなければですね、そんなものはなくなっちゃう。だから、やっぱり「知識」なんだよ。ただし、その知識は、テレビのこっち側で見てた人間の知識とは、一応違うというふうに考えられるよね。ただ、何が違うかっていうことは、これは非常に重要だから、あんまり簡単にあれは全然違うんだとかいうふうには言わないほうがいいかもしれない。

ただし、非常に重要なことは、その知識は他の仲間にも意味を持ちうる知識だということだよね。その出来事・体験は、他の仲間にも意味を持ちうる、したがって、そのことを記憶したり考えたりするという自分の知識は、他の仲間にも意味を持ちうるんだよね。……ということは、一番こっちの箱(ボードの左)に入っていたことだとします。しかし、言ってみれば、限られた人しかこういう知識を持ってない。あるいはそういう体験をしてない。出来事が起こったのも、限られた人にしか起こってない。……という段階がある。いいよね。で、それを変な言い方をすると、……身近な特定の人びとにある知識。

さあ、そうしてジャーナリズムっていうのがここ(ボードの中央)にあって、そのこっち側(ボードの右)に、さらにたくさんの人たちがいて、ここで共有されるという言い方をしました。そりゃ共有されるわねえ。みんなテレビの前にかじりついて見てたから共有されたわけですが、共有されたものは何か、何と呼ぶか。これも知識なんだね。みなさんはこんなの「知識」って呼んだらいけないんじゃないとか思うかもしれませんが、知識なんだよ。興奮したりしてもやっぱり知識なんだよね。……ということを、まず仮に、確認しましょう。それが第一段階。

■「行動」としてのジャーナリズム、「体験」としてのジャーナリズム

それで繰り返しここで言いますが、この、間に入ってたジャーナリズムのところで起こっていたことは何だったかというと……まず、ジャーナリストは、この人(ボードの左、体験・出来事を指す)に会いに行かなければならないかもしれないし、あるいは電話で話すかもしれないし、そもそもその前に「この出来事を俺はこっちの人間に伝える役割を果たそう」というふうに思わなきゃいけないよね。ある意味でいうと、すでにその時点でジャーナリストはここ(ボードの左)にある「知識」あるいは「体験や出来事」が重要であるというふうに知ってるんだよね。……もう、知ってたらそのままこっち(ボードの右、「みんな」のところ)へ行けばいいじゃないのって……。そうならないところがジャーナリズムです。ジャーナリストはここからここへ(ボードの中央から左へ)何回も何回も行ったり来たりしなきゃあできない。それはもう大変だよね、なあ長澤くん(笑)。やってみるとすぐわかりますが、これはなかなか大変だ。で、その過程で、じつは、ジャーナリストが最初に考えたことが修正されたり、いろいろ変化します。そのプロセスを一言で言うのは難しいんですが、ジャーナリストのまわりに起こることを、仮に「行動」と言いましょう。しかし「行動」は、たちまちさっき言ったような意味での「体験」に変身してしまう。「行動」っていうのは……ちょっとバカな話だと思いますが聞いてくださいね。……俺は歩くぞ、歩くぞって思ってるのは、まだ歩いてないわけですが、でも、歩くぞって思わなきゃ歩かない、ですよね。では、「歩くぞ」ってことまで含めて「行動」としよう。……そして、歩くでしょ、そうするとね、必ずつまずいたりするんですよ(笑)。で、それは「体験」ていうようなことだと思ってください……。その「行動」とは、たとえば何かっていうとですね、みなさんはいやだと思うかもしれませんが、本を読むということです。本読むって、ありゃ行動じゃねーだろ! て思うかもしれませんが、行動なんですね。本は読もうと思わないと読めないですよ。そうすると何が発生するか? 当たり前ですが、結局のところ、知識が発生する。よくよく考えてみると、この「行動」とか「体験」ていうのはさっきも言ったけど「知識」なんだよね。そうすると、一番こっちの長方形(ボードの左)に書いてあったこと、出来事・体験、これも知識だ。で、ジャーナリストのところ(ボードの中央)、これも知識だ。

■作文とは、文を創造すること

……ということになってきて、いささかぐあいが悪いかもしれませんが、それに加えて、これが決定的。……(ボードの中央)……作文しないといけない。これが、つまり創造っていうんだよね。創り出す。作文っていうのはどういうものか、みなさん、いろいろな経路でやってるからわかると思うけども、「あ、なかなかよくできた」とかさ、「今度は頑張ろう」とか、不思議なことに、どれくらい創造してるかっていう「ものさし」を持ってるんだよね、我々は。……作文の「ものさし」。ジャーナリストあるいはジャーナリズムっていうのは、そういうようなことをするわけですな。もちろん他にもいろいろすんだよ。いろいろするし、もうちょっとジャーナリズムを正確にとらえようと思うと、……この作文を見てね、「お前、ちょっとこれ削れよ」とかいう編集者とか、それから「これはこういう人たちにばらまいたら売れる」とか「読んでもらえるか」というようなことを考える出版社であるとか、さらには印刷をする人とか、それからその印刷されたジャーナリズムのブツを、トラックで運ぶ人とか、いろんな人が入ってきちゃうね。……ということはもちろんあるんですが、今は焦点をジャーナリズム、いわゆるジャーナリストにあわせて考えていきましょう。

■「人間の体験としての事実」と「科学」

それで、ちょっと考えてほしいのは、「事実と科学」だよね。(ボードの左、「体験・出来事」を指しながら)こういう「知識」は……知識は事実と違うだろうというふうに思うし、そう言わなきゃしゃあないんですが、今はジャーナリズムというものを考えるということで……どうしても「知識」ということになっちゃうんですが、ここでいう「事実」は、「体験としての事実」……というふうにもう言っちゃったよ。それで、今度はその反対物、対照物。「タイショウ」というのはこういう字を書きますが。ここで言っている「事実」ということを照らしだすために、「科学」ということをあげたつもりなんだよね。あるいは「科学」っていうものを照らしだすために「事実」ってことをあげたんです。

■「特定の仲間にしか意味を持ちえない知識」としての「科学」

ここでみなさんに頭をやわらかくして考えてほしいのは、「科学」っていうのはまさしく特定の人が持ってる知識とちがうん?  みなさんのなかに、私は科学者だっていう人はいないでしょ。見事にいないです。そうすると、「科学」のとりあえずの定義は、特定の仲間にしか意味を持ち得ない知識……。怒られると思うんだけど(笑)。……科学っていうのは普遍性を持ってないといかんのだよね。確かに科学は普遍性を持ってないといけないんですが、知識としての科学っていうのは、特定の人間にしか持たれていない。だからわざわざ「科学」っていうんだよね。そうすると、今僕らがあつかってることは何かっていうと、どうやらそういう特定の人達と、特定でない……つまりジャーナリズムがそこへ伝えるような、ここ(ボードの右)、「我々」とか「みんな」とか言ってたけども、それは特定でないよね。……ということが浮かびあがってきます。もう一回言うよ。「科学とは」──この定義を僕は気に入ってんですがね──「特定の仲間にしか意味を持ち得ない知識」。これを「科学」っていう。

ところが、その「科学」の中にあるものでも、「科学」そのものだけでは判定はできませんが、「科学」とこっち(ボードの右)の「みんな」との関係をあるジャーナリストが「いや、それはみんなに意味を持ちうる」っていうふうに思った瞬間、これ(「体験としての事実」)になっちゃうよね。……体験としての出来事、あるいは知識。そうすると、そう気がついた、あるいはそうだと思ったジャーナリストは四苦八苦して、科学者がやってることを、こっちの人に伝えるべく行動を起こすわけ。それで作文をして、というプロセスがそこで、またはじまるということもあります。いいですか?

もうひとつついでに、今言った図式とぴったりは重ならないと思いますが、いくつかのことを言っておきましょう。ひとつはですね、ドキュメンタリーという言葉を使ったよね。たとえばドキュメンタリー番組を作ろうとか、あるいは文学と呼ばれるドキュメンタリー、記録文学を、よし私はひとつ作品を作ってやろうというふうに考えるのは誰ですか? ジャーナリストだよね。ジャーナリストがそういうふうに考えて何が起こるかっていうとね、……どうにもならないことがよくあるんだよ。というのは、たとえばみなさんの中には第2次世界大戦を直接的に知ってる人は誰もいない、あるいは広島で被爆した人もいない、直接的には誰もいない、あるいは直接体験したその人たちは知識を持っていたけれどももういなくなっちゃった、ということだったら、じゃあどうすんの? そういうときには、ドキュメントってのがあるんですよ。記録が残されていて──典型的には文書。古文書とか、いろんなのが残されてる。それをジャーナリストは読むんだよね。そういうことになる。だから、歴史をもう一回みんなの共有物にしようってときにはそういうプロセスが働らく。古文書を読まなくてはいけませんが、この場合はどっからスタートするかっていうと、なにか大変なことが起こったということが直接伝わってくるわけじゃなくて、たとえば俺はもともと織田信長が好きなんだっていう人がいて、つまりいわゆる知識(ボード中央、ジャーナリズムのなか)からスタートして、(ボードの左、体験・出来事、体験としての事実へいき)記録を引っぱってきて、(ボード中央、ジャーナリズムのなか)ここで再構成する、そういうプロセスが起こるわけだよね。当たり前だけど。

■「事実の叙述」と「科学的叙述」

さて、時間がなくなってきましたが……せっかくこういうふうに対照にしたのに、対照にしておいたこれ(「科学」)がこっち(「事実」、あるいは「体験としての事実」)へ行っちゃうと困りますな。でもそれは、しょっちゅうぐるぐる回るものだから、あまり心配しなくていい。で、ある段階で、科学、つまり特定の人にしか決して了解されないような知識と、多くの人が共有すべき、しかも共有できるような、体験としての事実──それはもちろん、知識なのですが──がある。そういう対照関係を考えてみましょう。えーと、みなさん、資料があるだろ。その中からね、引っ張りだしてほしいのはね、『原子爆弾の誕生』の下巻の資料で、表が目次になっているもの。いいかい。それで仮にこういうふうに考えて下さい。蜂谷さんの「ヒロシマ日記」があるでしょ、「重松日記」もあるよね。これは、両方とも書かれた。で、書くというプロセスは、これは知的プロセスだよね。いわば、蜂谷さんも重松さんも、創造的プロセスを経て、「ヒロシマ日記」、「重松日記」というものを作りあげたわけですが、創造的プロセスにかかった時間はそれぞれある。創造的プロセスは、一瞬にして起こらない。書かないと仕方がない。で、さっきは「体験としての事実」というものがあったよね。こういうふうに、事実を述べる、叙述したものがあります。で、この事実を叙述したものは、みなさんの目にかかっても、意味不明のものではなくて、国語辞典を引かないとわからないものがあったかもしれないけれども、わかるよね。で、今度はですね、みなさんに是非見てほしいのは、資料の……(リチャード・ローズ『原子爆弾の誕生』下巻についての資料のページを示す)。この辺はだんだん怪しくなってきてですね、決定的に怪しいのは……本でいうと462ページの後ろから5行目、「時刻は0529:45(5時29分45秒)……発火回路が閉じられた。Xユニットが放電した。……」で、乱暴な定義ではありますが、この辺から始まっているものを「科学的叙述」と呼びましょう、「科学的」というより「科学技術的」というべきかもしれませんが。ずっと読んでいってごらん。……私は科学者だと思う人は、これがすらすらわかる。わからないよね、見事にわからない。

 時刻は0529:45(5時29分45秒)。発火回路が閉じられた。X-ユニットが放電した。32個の爆発ポイントで起爆剤がいっせいに発火した。「成分B」のレンズ外殻に点火した。爆裂波は別々に発生して、バラトール包含物に出会い、速度を落とし、曲がり、反転し、共通の内向推進球になった。その球形爆裂波は、固体の高速「成分B」の第二殻に入って加速された。それから高密度ウラン・タンパーの壁にぶつかり、衝撃波となって絞られ、液化し、通り抜けていった。そして、プルトニウム・コアのニッケルメッキにぶつかり、絞られ、その小さな球は縮んで眼球ほどの大きさになった。衝撃波は、中心の小さな反応開始装置に到達し、ベリリウムとポロニウムが混ざり合うように設計された凹凸の中を渦巻いた。ポロニウムのアルファ粒子が、数の乏しいベリリウム原子から中性子をたたき出した。1、2、7、9、ほとんどこの数を超えない程度の中性子が、そのまわりのプルトニウムに入り込んで連鎖反応を開始した。それから、百万分の一秒に80世代ほどの分裂を繰り返して巨大なエネルギーを放ち、何千万度の温度、何百ポンドの圧力になった。放射線が漏れ出るまえのその眼球中の状況は、宇宙の最初の根源的な爆発(訳注:ビッグバン)直後の状態に似ていた。

 それから拡大し、放射線が漏れ出す。連鎮反応により放たれる放射エネルギーは、軟X線の形態をとるのに十分な熟さだ。これらのX線は、物理的爆弾とその容器をまず離れ、光速で、爆発そのものよりもはるかに前方を行く。冷たい空気はX線を透過させずに吸収するので熟くなる。「非常に熱くなった空気はより冷たい空気の封筒に包まれ、この封筒だけが遠くの観察者の目に見える」と、ハンス・ベーテが書いている。

 X線の吸収で熱くなった中心の空気球体は、より低エネルギーのX線を再放出するが、それらは次にはその境界領域で吸収され、さらに再放出される。放射線移送として知られるこの下り坂の蛙とび過程により、熱い球体は冷えはじめる。およそ10ミリ秒後に、それが百万度の半分にまで冷えるとき、放射線移送がついてゆけなくなるような速さで外へ向かって進む衝撃波が形成される。ベーテの説明によると、「衝撃波はそれゆえ、中心のきわめて熱くほぼ均一に熱せられた球から分離してゆく」。衝撃波面は単純な水力学で説明できる。水中の波や、空中の音波のように。衝撃波は、こうして、ミリ秒単位の放射線移送によってゆっくりとしか成長しない、外部世界から孤立した、不透明なシェルの内側にその等温球を閉じ込めて残したまま、進み続ける。

リチャード・ローズ『原子爆弾の誕生』
(神沼二真 / 渋谷泰一 訳、啓学出版, 1993)p 462-463より

わからない言葉がずっと続いて、どこまで続くかというと、465ページの「しかし人々は、理論物理学が」の前まで。こういうのを今仮に「科学的叙述」と言いましょう。で、それと対照されるようなものが、さっきから言ってるような「事実の叙述」だというふうに考えましょう。

そういうふうになってくるとね、じつはこれの仲間がいて、この仲間というのは怪しげな仲間でね、「科学的叙述」か「事実の叙述」のどっちにしたらいいかよくわからないけれども……僕はこの怪しさに騙されちゃって、もう「科学的叙述」ではなくなってしまっているものもあります。……たとえばトルーマンの声明があったよね、その中に「TNTでいえば20キロトン」という表現があったでしょ。この20キロトンというのを、僕みたいなエセ科学者というかエセ素人というか、いいかげんな人間は、わかったかのように受け取ることになっちゃってるんだよ。恐らくみなさんは「TNT20キロトン」なんていうのは、特定の限られた仲間うちでしか通用しない言葉だと判断するよね。そうだよね。で、そういうときには、これは「科学的叙述」に入る、そういうふうに考えてください。で、こっち(「事実の叙述」)の方には、だから、もう一回繰り返して言うけれども、みなさんが読んできて、わかっちゃったような代物。多くは直接広島の原爆を体験した人たち、あるいは、その体験した人たちから話を聞いて、まとめて、書いた、ハーシーのような文章、あるいはそのもとになっているもの。で、こっち(先ほどの資料からの部分)は、そうではない。というふうに考えてみて下さい。

■「わからない」という「事実の叙述」

しかし、さっきの話をもう一回今のことと重ね合わせて考えてみます。今の、その難しいところ……これを、「こんなチンプンカンプンな言葉を使って、この人たちは原爆製造をしていたんだよ」ということを我々が理解する、そういう素材として捉えたときには、あの「科学的叙述」も、わからないまま「事実の叙述」の一部になりうる。……ということをよく考えていただきたいと思う。もう一回言うよ、たとえば、こんなチンプンカンプンなことを科学者達は言っている──チンプンカンプンというのは、我々にわからないということですが。で、こういうことを私は見た、こんなこと言ってるんだよ、こんなこと書いてある文書があったんだよ、それを私は体験した。それを私は知っている。──それは知識を持っている、ということになるわけですが──そういうときには、それは、我々の「事実」、こっち側に置いてかまわない。私たちには中身がわからない、ということが事実として捉えられる。ということになるわけですね。

■わかる場合でも、「科学的叙述」にならないジャーナリズム

それから今度は、じゃあ、わかっちゃう場合。……わかるにも、いろいろあって、なんとなくわかる、というのがあるよね。なんとなくわかるというのは、なんとなくわかるんだけど、やっぱりわからないんで、それはそういう捉え方をして、わからないほうに放り込めばいいということになる。もう一つは、よーくわかる場合。さっきの本の462ページから465ページ。あー、わかるな……そのときは、そんなふうにわかった自分は──これが「ものさし」になるんですが──特定の少数者つまり科学者ではない俺みたいな素人でもよーくわかったというのか、それとも、さすが科学者である俺様だからわかったという、その「ものさし」で、「科学的叙述」に入るのか「事実の叙述」に入るのか、分かれ道がつきます。スラスラわかって、やっぱり俺は科学者だ、という人と(「科学の叙述」)、スラスラわかって、なんで俺みたいなバカでもスラスラわかったんだろう……こっち(「事実の叙述」)に入れよう。で、俺はジャーナリズム、これを世の中に伝えるぞ、というふうにやるのか、ここで分かれ目ができる。ということです。これも重要な「ものさし」であると考えられます。なんで重要かというと、俺は科学的知識を持ってる、俺が科学者だということが言えるから重要なんじゃなくて、これは科学者にしか通じないことなのか、多くの人に通じることなのかを判定する基準を持つことが重要。それはだれでも、自分にしか持てない。ジャーナリストにしか持てない。今、ジャーナリストの話をしているので、そういうことになると思います。次回は「事実と虚構」という話になりますが、今回の話もまた、次回の話とまたまた重なり合うことになると思います。

授業日: 2002年6月11日; テープ担当学生:柴田篤人、清水愛子、鈴木せり、竹内一信