京都新聞 2002年8月27日夕刊「現代のことば」
大学生の「学力低下」が問題になっている。学力とは、ほかでもない、文章を読んだり書いたりする能力のことだ。
一方で、新しい時代には新しい「リテラシー」が必要であり、それはコンピュータを操作する技能であるかのように言われている。リテラシーとは読み書きのことなので、「コンピュータ・リテラシー」とは、たしかに怪しげな言葉だ。パソコンを操作することができ、コンピュータ・ゲームをすることができても、自分で文章を読んだり書いたりすることができなければ、何ともならない。それこそ、文字通り、メディア(媒体)ばかりがはびこり、伝えるべきメッセージが何もない、という状態になる。
しかし、読み書きの能力の低下は、メディアの氾濫の結果というより、もっと深いところで、確実に準備されてきたことではないだろうか。深いといっても、誰もが目にできたことだ。たとえば教育の現場で、子どもたちがなにがしかの情熱をもって読んだり書いたりすることは奨励されただろうか。奨励されたのは、逸脱をしない機械的な読み方であり、書き手がどんな人物であるかを想像するなどまったく余計なことになってしまった。本気になって意味のあることを書くことは、読むこと以上に疎んじられてしまった。そうでなければ、ひっきりなしの試験を能率よくこなしていくことなどできるはずもないからだ。
その教育現場で施行されるほとんどの試験は、言うまでもなく大学入試を目標にし、モデルにしている。大学は大学で、過剰な受験人口を、顔も見ずに「厳正」にかつ能率的に処理すべく、○×方式を、マークシート方式を、採用してきたのだ。過剰というのは、一人の受験生が四つも五つもの大学に出願するような状況を指している。
あらっぽい言い方だが、戦後急成長した多くの日本の大学は、できるだけ確実にサラリーマンになるための入り口であって、それ以上のものではなかった。お父さんの世代は、大学に入ってからはあまり勉強しなかったのだが、大学受験のためには一生懸命勉強した。ほかならぬサラリーマンになることを一生懸命目指していたからだ。それゆえ平均的「学力」はしばらくの間は高い水準に維持されてきた。
しかし、先を見ることができなかったのはいかんともしがたく、情熱を失い惰性となった過剰は必然的に空洞化する。今や、サラリーマンのお父さんが何の仕事をしているかまったく知らない高校生が、形の上だけは親の世代から続いている受験的教育を経て大学生になる、という巡りあわせになった。このように、「学力低下」とは、一方で、教育があまりにも経済に巻きこまれた結果であり、もう一方では、画一的基準と能率ばかりに目を奪われた教育哲学の破産であるにちがいない。皮肉なことに、経済はもはや拡大期にはなく、したがってサラリーマンはさして魅力を持ちようがない。植木等の歌った「気がつきゃホームのベンチでごろ寝」の、ほとんど開きなおりの無責任節のユーモアさえ、もう若者には通じないかもしれないのだ。
「学力低下」の轍から脱却する範を示さねばならないのは誰よりも大学であり、今こそその好機だと思う。教育は結局、手間のかかる対話によってしか成立しない。私のいる大学は学生と教員に密度の高い対話があることで評価を受けてきたが、入学生の受入れについても、顔の見えない入学試験から徹底した対話へと大転換しつつある。