「学歴社会」の向こうへ

『京都精華大学教育後援会ニュース』No.26, 2002年6月

西欧の近代を後追いすることで再形成されてきた私たちの社会は、とりわけ第二次大戦後、急テンポの経済成長をめざすなかで「学歴社会」と呼ばれる、あまり自慢のできない姿になっていた。大企業のサラリーマンになるためにブランド大学への入学がひとつの目的となり、大学受験は「受験地獄」といわれるほど過熱し、その過熱と逆比例するかのように、大学で学問・芸術を追い求めることは、たちまち学生の標準的な姿ではなくなった。

団塊の世代のピーク時には受験生の半数以上が浪人生だったほどであり、大学入試は難関だった。にもかかわらず、まったく勉強しなくても卒業できるというのが、日本の大学の標準になってしまった。「学歴社会」とは、このような中味の希薄な「学歴」インフレーションを指していた。

そのような「学歴社会」が猛烈な勢いで進行しつつある時期に、その傾向に正面から抗うかのように、私たちの京都精華大学は、自由自治や人間形成を旗印に、誕生していたのだ。そのことを、もういちど振りかえっておきたい。

1968年にこの大学が出発してから10年もたたないうちに、「学歴社会」はひとつの飽和点に達する。上位の「学歴」をめざす傾向はあいかわらずであっても、浪人をして入学する者の割合は二割程度に落ち着く。「受験地獄」とはいわれなくなるが、一人の受験生が平均して四つも五つもの大学を受験する状況は、あいかわらずインフレーションというしかない。しかし、教養や学問という肝腎の中味を大きく失っている大学は、この状況に安住してしまっていた。

そして今現在とは、日本型産業社会がひとつの頂点に達してしまい、18歳人口の減少とともに、「学歴社会」のほうも崩壊しはじめているという時点ではないだろうか。そうであるとすれば、その出発の時点から大勢に抗してきた私たちの大学には「学歴社会」の残滓として生き残る道は存在せず、いよいよ、その理念と実力を試される時代に向かいつつあるのだということができる。

開学当初の大学案内には、「学歴社会」から自らを断絶し学問・芸術の大学の理想に立ちかえろうという、岡本清一初代学長のアピールが記されていた。「大学は学問と深い友情とを発見する場所である。…学生諸君に対しては、高校段階の学力よりは、むしろ鍛練に耐える忍耐力と、誠実にして謙虚な精神とを要求する。…今日の『うしなわれた大学教育』を、京都の地において回復することに、われわれは使命を感じている」と。

「高校段階の学力」とは、「偏差値」と呼ばれるようになった、入試対策的な構えのなかで測られる知力にほかならない。京都精華大学は、この「偏差値」にほとんど関心をはらうことなく学生募集をしてきたことはまちがいない。また、入学してきた学生が、他大学にない解放的な空気のなかで元気になることも、おおむねそのとおりである。しかし、「学歴社会」との対峙には、もとよりそれ以上のものが不可欠であったことを、もういちど思いだしておかなければならない。

それは、誠実謙虚な批判的精神であり、学問・芸術の忍耐力の涵養であったはずである。この基準にかなう実践を、私たちはさらに強めるしかない。人文学部の新たな三学科体制もアドミッション・オフィスによる入学制度の導入も、いよいよ激化する大学の生き残り競争のなかで、忍耐のいる鍛練に培われた実力こそを発揮しようとするためなのだ。