「ことば」を考える──レジュメ──

2003年9月7日 第8回 人文学セミナー

はじめに

「わたしたち」「おれたち」と「社会」

「わたしたちの社会・・・」と話されることがないことすでに存在し、これからも存在する、「わたしたち」ではない「社会」あきらめ以前?「めんどくさい」/「関係ない」/「人それぞれ」「流行・有名」 の舞台として存在する「世界」や「世間」──どうやら「文化」は、この文脈で使われ・・・そこでの仲間意識/競争意識── 「いけてる」/「ださい」──「流行・有名」の自己目的化システム/閉鎖性←→ 歴史としてあり、未来をもつ、変えられる「社会」批判/参加/介入/変革 の対象としての「社会」

「日本」「日本語」「日本人」という意識──「日本」が意味すること

ドイツの森鴎外、イギリスの夏目漱石──「葛藤」「創造」/日本語の新しい文体

「・・・私の解剖した事が本当の所だとすれば我々は日本の将来というものに就いてどうしても悲観したくなるのであります。外国人に対して乃公の国には富士山があると云うような馬鹿は今日は余り云わない様だが、戦争以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。中々気楽な見方をすれば出来るものだと思います。ではどうして此急場を切り抜けるかと質問されても、前申した通り私には名案も何もない。」

──夏目漱石「現代日本の開化」1911年『朝日講演集』

ハワイのS君、ロスアンジェルスのO君──「居場所」の喪失という現実「留学」 という漂流/「日本」 という幻想──「わたしたちの社会」とは言われることがないのに「日本」と

1.「日本語」の危機?

「日本語ブーム」──危機感──何の危機?

1960年代後半−70年代前半の「日本」「日本語」ブーム「ニホン」「ニッポン」/逆コース、右旋回家父長的権威主義 * 石原慎太郎『スパルタ教育』因襲主義 * 塩月弥栄子『冠婚葬祭入門』* 毒消しのユーモアの例秋山基夫「日本語は乱れているのがそれでいいのだ・・・」(資料)70年代後半、80年代には、「日本人論」ブーム危機感というよりは、有頂天の気分* エズラ・ヴォーゲル『ジャパン・アズ・ナンバーワン』* イザヤ・ペンダサン『日本人とユダヤ人』

いまどきの危機──危機感──何の危機?

「若者ことば」 が「日本語」の危機?「若者」とは仕事(労働)に従事しない青年層(大学生)がいる、あの若者15歳から24歳の「若者の失業率」(10%)の、あの若者──「若者」が危機なのでは?結局は「正しい日本語」対「許容できる・違和感はない」という議論──記号としての「ことば」の線上での、議論にならない議論(あるいは、情報を集めることだけでは議論にならないこと)* 読売新聞新日本語企画班『新日本語の現場』(資料)

2.「記号」あるいは「情報としてのことば」ではなく「行為としてのことば」/「思想としてのことば」を考える

「行為」 は、「世界」に「はたらきかける」こと──相手、関係、介入「わたし」「わたしたち」という主体

←→ システム/コンピュータ
「なぜ」 ←→ 「なぜ」の欠如/「ノウ・ハウ」だけの世界
まだわからない答え ←→ あらかじめきめられた答え
「わたしとは何か」 ←→ システムのなかの役割に自分をあわせる」
「なぜ大学はあるのか」 ←→ システムのなかの役割
「なぜ大学へ行くのか」 ←→ 「ノウ・ハウ」的に存在してしまう「動機」
志望理由書=
大学案内を「読む」のではなく、ショッピング中の買物客のように「スキャン」 して、それらしい科目名などの語を取りだし、「貴校」というような語と組み合わせて文章らしきものを書く

「キーワード」 という「キーワード」──2種類の「キーワード」

共有されるべき世界(像)に人を導く重要なことば ←→ コピー・アンド・ペーストの際の手がかり
(あるいは、理解ではなく暗記の対象)

いきいきと生きる/無批判な「ノウ・ハウ」に埋没せずに生きる「聞く話す」/「読む書く」/「考える」──熱量(カロリー)、時間(忍耐)

3.「行為」としての「ことば」をとらえる観察、想像、思考、思想

  • *「ノウ・ハウ心理学」 への引きこもり?
  • *「カオナシ」の「ア」は、「ことば以前のことば」?
  • * 個的な、しかし抵抗としての「ことば」──『アンネの日記』

「わたしたち」 の「ことば」の何が問題か

●ジョージ・オーウェル『1984年』──出版は1948年

「ニュースピーク」
極度に洗練された思想統制としての言語統制だが、「スピーク(ことば)」と呼ばれ、「統制」とはだれも言わない。簡略化と、少ない語彙を特徴とし、あらかじめ決められた観念(機械的職務など)以外は思いつかないよう工夫されている。社会(このことばは、ニュースピークにはおそらく存在しない)は、「権力システム」 以外の意味をほとんどもたない。もっとも、「権力」ということばもニュースピークには含まれないはずである。主人公ウィンストンが拷問を受ける、法と秩序の省は「愛情省」と呼ばれている。

「君は良くなっているね。物の考え方についても、悪いところはほんの僅かしかない。君は感情の上だけ進歩が見られなかった。聞かせて欲しいのだが、ウィンストン──いいかね、嘘は禁物だぞ。私が嘘を見破る名人だということは君にもわかってるね──いってくれ給え、君は本当に“偉大な兄弟”をどう思っているのかね?」

「大嫌いだ」

「憎んでいるのだね。よろしい。では、次の段階に移る時機になったというわけだ。君はどうあっても“偉大な兄弟”を愛さなければならぬ。屈従するだけでは十分じゃない。彼を愛さなくちゃいかんのだ」

彼はウィンストンから手を放して看守の方に軽く押しやった。

「101号室だ」と彼はいった。

権力システムがどれほど洗練されても、恐怖や憎しみの発生は抑えることが不可能であり、スーパー・パワーのひとつであるこの国には、「憎悪週間」や「2分間憎悪」などのイベントが用意されている。テレスクリーン* に現れる、反逆者であり敵のスーパー・パワーの首領エマニュエル・ゴールドスタインめがけて、人びとはありったけの憎しみをぶつける。

* このテレビは双方向性でもある。なお、テレビの実用化・普及は1950年代以降のこと

・・・ハッと我にかえった瞬間、ウィンストンは自分も同僚と共に絶叫し、靴の踵で椅子の桟を激しく蹴り立てているのに気づいた。“2分間憎悪”の恐ろしさは視聴者がめいめいの役割を演じなければならぬということよりも、むしろ番組に同化しないわけに行かなくなるという点にあった。30秒もたたないうちに、どんな偽装も決まって不必要となるのであった。恐怖と復讐心のすさまじいい恍惚感と、殺戮し、責めさいなみ、大槌で顔面を粉砕しようとする欲求は電流のように視聴者をつらぬき、自分の意志に反して顔をゆがめ、絶叫する狂人に変えてしまうのだ。・・・

報道、娯楽、教育、美術を所管する真理省/創作局

* ほんの参考までに、「付録 ニュースピークの諸原理」(資料)

●レイ・ブラッドベリー『華氏451度』

ブラッドベリーがこの本を出版した1953年は、マッカーシーらによる「赤狩り」(共産主義思想の弾圧)がアメリカを席捲していた。主人公モンターグは“fire department”に勤務する“fireman”である。消防士ならぬ「焚書官」は、消化ホースならぬ火炎放射器をかかえ、発見した書物を、ときには住宅ともども焼き払うのが仕事。“fire department”には、機械シェパードが配置されていて、そのするどい嗅覚装置で麻薬犬のように本の臭いを嗅ぎわける。機械シェパードは、もちろん人間より速く走る。上空からは、ヘリコプターが追跡する。シェパードの鼻先からは、長さ10センチの鋼鉄針がとび出し、麻酔薬を打ちこむ。

この世界の住人は、だれもが「海の貝」とよばれるイヤホーンを耳にはめ、たえず「音楽」を聞いている*。家には、もちろん、四方の壁がテレビになっているテレビ室がある。アナウンサーは不特定多数の視聴者に話しかけるが、各家庭にある変換機(100ドル)によって、自動的に「モンターグのおくさん」などと呼んでくれる。

* ウオークマンの登場は、1979年のこと

資料* は、なぜ焚書の仕事がこの社会に欠かせないものであるかを、署長のビーティーが説明する場面を描いている部分。(京都精華大学が目指しているのは、ほとんど正反対の世界なので、要注意。)* p.92−109(資料)

4.恐怖政治の権力は存在しないようなのに、語彙は急激に減少し、若者がことばを失ったように見えるのか?

学校教育

  • ──「啓蒙」 という目的も、生きる問題を扱うという目的も失われた
  • ──自己目的化した試験/能率という至上命令
  • ──教育内容を設計できるという妄想/知識・理解の人為的・人工的制限
  • ──「ことば」 が豊かになるはずの時期を、外の社会から隔離された同年齢小集団での自己目的化した同調性訓練にばかり費やしてしまうこと

* 京都新聞「いまどきの若者?」(資料)

消費社会

  • ──そこでは、知識も娯楽もすべて買うモノで、創造的過程そのものではない
  • ──選択して買えるような知識や娯楽は、歴史や文化・文明から断絶したモノが多い
    • 「選択」 が「キーワード」となり、「使命」「責任」「正義」「友愛」などは、ほとんど死語
  • ──そこでの基本行為(動詞)は「買う」「買わない」であり、その他の語彙は、このまわりに集まるものにほとんど限られるかのようである(ファッションの語彙は、次から次へと増殖し、消滅し、増殖する)

システムとしての社会

  • ──悩みは存在しないかのように、だれも真剣に悩みに耳を傾けない
  • ──人間の仕事の価値は、売上などの、多くの場合数値化されるものによって測られ、価値そのものは問題にされない
  • ──にもかかわらず、システムはややこしく、途方もない忍耐力がなければ、その全容を把握することは難しいように思える ──そもそも、システムは、多くの人がその全容を把握しなくても、運営できるように設計されているかのようだ
  • ──山ほどの擬似専門語が日常の生活にまぎれこみ、それが「リテラシー」と呼ばれる大混乱(コンピュータ関係らしき用語で会話する連中と、疎外された連中/「行為・思想としてのことば」の疎外)

* 専門用語はその厳密なコード対応から「行為としてのことば」になりにくい?

帰結としての、若者の常用語彙のいくつか──関係の拒否、行為の放棄、思考の停止

  • ── うざい、うざったい
  • ── きっしょ、きしょい
  • ── むかつく
  • ── だっる、だるい
  • ── わけわからん、意味不明
  • ── むりっ
  • ── ありえへん、ありえない
  • ── その他、「まじ」などの強調のための常用語彙も、もちろんある

システム社会を生きるための、究極的な「対話もどき」──システム社会の鏡像

  • ── 一方的にしゃべる上司や教師に、ときどき「えっ?」・・・「はい」と受け応えする。(これを多用すると、いつのまにかシステムから追放されてしまうこともあるので、要注意。 相手を怒らせない範囲で試してみる値打ちはある。)
  • ── レストランなどでの「バイトことば」による「接客」

* 京都新聞「現代のことば」(資料)

5.新しい「社会」を担う若者という希望

* 京都新聞「現代のことば」(資料)

  • ● 人類史的課題として環境問題が意識されるようになったこと
    • 従来の閉鎖的(自己目的化)システムの膨張では回避できない破壊
  • ● 社会の閉塞感が意識されるようになったこと
    • 消費社会の行きづまり/学歴社会の崩壊へ、もう一押し
  • ● 「なぜか」を問わない○×式学校/制限と同調ばかりの学校から離脱する若者
    • これは、どちらに転ぶか──希望か絶望か──自覚しだい
      • *「『学習指導要領』は最低限のラインを示すもの、いくらでも勉強させていい」と
      • いう寺脇発言(文部政策課長、1999年)の波紋
      • * 同年齢の閉鎖的小集団に子どもを「監禁」するようなもの──だれが「いじめ」の
      • 対象になるかわからない恐怖感と罪悪感
  • ● 大学は何のためにあるかを再び考えなければならない状況が意識されるようになったこと/行為・思想としての「リテラシー」の再生の場へ

「大学は学問と教育と深い友情とを発見する場所である。学生の精神を凍りつかせるような官僚主義的な環境の大学では、友情を培うことはできない。学生を群集のなかの一人としてしか扱うことのできない巨大大学においては、学生の孤独からの脱出はきわめて困難である。そして学問的にまた人間的に魅力のない教授による教育は、無意味である。 ・・・そして教師も学生もすべて、まず人間として尊重され、自由と自治の精神の波うつ新しい大学を、これから創造していこうとしているのである」

──大学教育の形骸化が露顕し学生の叛乱が起こった1968年、今日の京都精華大学は発足したが、当時の大学案内に記された岡本清一初代学長のアピール