■環境ジャーナリズムの可能性──なぜ可能性なのか!?×××?
- 多様な「環境ジャーナリズム」の視点があること
- 今私たちが使っているような意味で「環境」という言葉が使われるようになるずっと以前から「環境問題」がとらえられていたこと、しかもジャーナリズムをとおして、いろいろな主張がなされていたこと──歴史的遡行
- ジャーナリズムと印刷技術の関係を知ること──現代のメディア状況では?×××
したがって、資料の多様性と歴史性
- それらのジャーナリズムの社会観、人間観、政治的立場を吟味する──できなかった
- 取り上げる側(中尾、学生)の認識の枠組みを議論──議論しそうなところまではきた
しかし、結果的には、多分野への探求心、好奇心を多少は刺激することになったかな
これは、つまりは環境ジャーナリズムの「学際性」を意味するはず
■意外な?展開
- ジャーナリズムとは何かをめぐって、はじめから「事実」対「主張」あるいは「主体性」という問題意識が表明されたことは、じつは意外だった
- たぶん、提起者はそんなつもりはなかったかもしれないが、おろそかにできない問題なので、こだわることにした
- 前回紹介した、香内三郎の描いたデフォーの「ジャーナリズムの文体」論が、ひとつの答えになるようにも思うが、たぶん小さな「ひとつ」にすぎない──この問題は、たとえば中尾のスリーマイル島事故についてのジャーナリズムをめぐって、この問題は検討されるといいかもしれない
- たぶん、提起者は気がついているにちがいないが、「事実」という言葉が置かれる文脈がいろいろとある──ちょっと安易な対応方法かもしれないが、他の言葉と組み合わせるだけで、「事実」の色合いが変わるのを実験してみるのもいいかも
- 「主張」あるいは「主体性」という問題は、「情報は劣化する」に対する「情報は創造される」という捉え方に関連づけて論じたかったが、「論じる」といえるほどのことはできなかった
■意外な展開、もうひとつ
- これまた、提起者はそんなつもりはなかったかもしれないが、「ジャーナリズムは、間に立って、伝えるもの」という問題提起も意外だった
- 「現実」問題として、ジャーナリズムは多くの読者や視聴者を対象としているという意味で、この問題意識は当を得ている
- が、それならば、一方の端に多数の読者・視聴者があるとして、そして間に立つジャーナリズムあるいはジャーナリストがあるとして、もう一方の端にあるものはなんだろうか
- ひとつは、専門的知識あるいは専門家をあげることができるかもしれない
- またひとつは、行政府、議会、司法機関のような政治の単位をあげることができるかもしれない
- またひとつには、ジャーナリストの取材源あるいは取材の対象となった人間をあげることができるかもしれない
- 生々しい例として、大学のような場にこの関係性の図式を当てはめ、教師が一方の端にいて、まだ見ぬ読者・視聴者がもう一方の端にいて、間に学生諸君が立っているとすることができるかもしれない(いわば、授業は学生にとって取材活動であり、学生の務めは知識の社会普及)
- そこで、「現実」問題──上の図式の、発信源にあたる一方の端が大きな力(政治権力、経済権力、軍事権力、「メディアという権力」、等々──ルイス・マムフォードなら、動力、生産力、政治権力、利潤、宣伝活動というだろう)そのものといってよい状況だったら、どうなるだろう
- 結局は、「ジャーナリストの主体性」問題にかえってこないだろうか──間に立つものとしてではなく、主張をもって発言、発信するものとしてのジャーナリストという問題意識に
- 「ジャーナリストの倫理」問題に充分に触れることができなかったのは心残りだが、今後の課題だとしておきたい
■さらに、もうひとつの意外な展開!?
- 期せずして、この前期の授業の進行途中で、小泉内閣が誕生した
- どうやら、たいへんな人気であり、その人気は現実のジャーナリズム状況と切りはなして捉えること、理解することはできそうもない
- が、われわれ自身が巻きこまれていて、冷静に距離をおいて見ることもなかなか難しい
- しかし、現実のジャーナリズムが持ちうる力については、実感しつつあることは確かだろう──『論座』8月号は参考になるかも
こういった意外な展開は、しかし、大きな収穫だったと考えるべき
- 授業が予定どおり進行しなかったことは、大きくは中尾の目測能力の不足にもよる──学生とのこの程度のギャップが意外なのでは、へなちょこといわれても、しかたがない
- が、多様性とその系統性を把握するのに充分なだけの資料の提示は、予定どおりできたこと
- 学生諸君の大半は、多少の苦痛を伴いながらも、資料に目を通し、その一部には愛着をもってくれたこと
- そして、なによりも大いに悩んでくれたこと
- 全員とも言えず、また毎回とも言えないが、回を重ねるごとに充実した思考を表すレポートが出されるようになってきたこと──特に、前回のレポートには格段に進歩した良いものがあること
- 予定外の資料だった戸坂潤の難解なジャーナリズム論は、期待以上にすばらしい触媒的な役割を果たしたこと
- 最後に、負け惜しみではなく、予定どおり進行できなくても、「意外な展開」を無視せずに多少なりとも──中尾だけでなく学生諸君も──対応することができたこと
2001年前期環境ジャーナリズム・終了
授業日: 2001年7月10日;