インディアスの発見という偉業が達成され、スペイン人たちがそこへ赴いてしばらく暮らすようになってから現在に至るまで、そこでは種々様々な出来事が起きた。人類史上、これまでに見聞されたいかなる偉業も、それらと較べると、色を失い、声も出ず、忘却の彼方へ追いやられる、それほどインディアスで起きた出来事は、ことごとく驚くべき、また直接目にしなかった人にはとても信じられないようなものであった。その中には、罪のない人びとが虐殺絶滅の憂き目に遭ったり、スペイン人の侵入をうけた数々の村や地方や王国が全滅させられたこと、そのほかにもそれに劣らず人を慄然とさせる様々な出来事があった。
司教バルトロメー・デ・ラス・カサス(カサウス)は、修道会に入ってから、われらが主君皇帝陛下〔スペイン国王カルロス一世、1500─1558、神聖ローマ帝国皇帝としてはカール五世〕に報告のため宮廷に参上した折、彼がつぶさに目撃した数々の出来事を事情に通じていない人びとに話した。話を聞いた人びとは一同茫然自失し、司教にそのうちいくつかの出来事をぜひ簡潔な文書にまとめるように求めた。司教は要請どおり文書を認めた。
……さらに、司教は、殿下に労せずして読んでいただくには、その一文を印刷させるのが至当であると考えた。司教が次にあげる要約、すなわち、真に簡潔な報告を上梓した理由は以上のとおりである。
「この『簡潔な報告』の趣意」『インディアスの破壊についての簡潔な報告』
(ラス・カサス著、染田秀藤訳、岩波文庫、1989)より
イメージ:その表紙
■「ジャーナリズムとは何か」について、もういちど
これまでジャーナリズムの実例を皆さんは読んできたわけですよね。それらの資料の中には、新聞もあれば──それからこれはちょっと別格かもしれないけども──政府の公文書にあたるようなものもありました。それまで含めて「ジャーナリズム」というのか、という感じがするでしょう。けれども、仮に機密文書を「ジャーナリズム」とは考えないとしても、そのことが公表されるということは「ジャーナリズム」だと考えられます。つまり、文書を書いた人がジャーナリズムの精神をどれくらい持っていたかということとは別に、そういうものが公表されること、これは「ジャーナリズム」であると見ることもできるでしょう。
それから「新聞記者」あるいは、特に皆さんが読んできたものでは、「従軍記者」というふうに呼ばれるような人たちが、戦争が終わった後ではあるけども、書いたものがある。それから被爆者自身が書いたものがある。「被爆者」とは、職業に関わらずいろんな人がいます。職業に関わらずということでは、「小説家」というふうに呼ばれている、あるいは自分でもそう自認している人が書いたものがありました。そういうものを全部ひっくるめて、ジャーナリズムの実例として、皆さんに読んでもらったんだよね。それは問題ないね?
■「ジャーナリズムが働かない状況」──いろいろなヴァリエーションがあること
それからその時に──これは皆さんの中からそういう捉え方ができてきたわけですが──その「テキストそのもの」以外のこと、たとえば「そのテキストがいつ出たか」とかいうような、それが置かれていた状況が見えてきた。その段階で皆さんが気づいたことは、「ジャーナリズムが働かない状況」があるということだった。ジャーナリズムが働くか、働かないか、そこを捉えなければならないだろうという考え方がはっきりしてきました。で、分かりやすい例では、たとえばプレス・コードというのがあったということだったよね? だけど、それだけでもなさそうである。例えば、井伏鱒二の『黒い雨』と重松静馬の書いた「重松日記」の関係。これも、単純にどういうふうに書きかえられたということだけではなくて、そもそも「重松日記」というものがあったけれども、それが、とても長い時間をかけて作られたものだということと、しかもそれは発表されることはなかったということ。これは、重松さんが「これは世の中に伝えるためのものではない」と考えてきたからそうそうなった、というふうにも思えるし、実際そういうふうに聞いたらしい。……「らしい」といってもよくわかんないですけどね。しかしあることがきっかけで、「やはりこれは世の中に出したい」と思うんですね。で、この背後にある意味は……突き止めることは非常に難しいんですが、この状況を表現するために、「ジャーナリズムが直接働かなかった」というよりは、例えば「世の中に出しにくかった」……そういう言い方ができないだろうか。またそれを、今度は井伏鱒二に依頼をするわけですね。何とかしてこれを井伏鱒二が書き直して世の中に出してほしい。そういう考えだけであったかどうかは分かりませんけども、そういう手紙がありました。で、それは、ただ井伏鱒二と重松さんとのやり取りが手紙に書かれていたからというだけではなくて、なんで井伏鱒二でないといけないのかとか、色々考えられると思います。もし「重松日記」を公開することがジャーナリズムであると考えるんだったら、どうしてストレートに「重松日記」を公開するというふうにならなかったのか。つまりジャーナリズムが働かない状況の、ひとつのヴァリエーションというかな、それが背後にあったように想像されます。それ以外にも、皆さんが見た資料だけでも、例えばプレス・コードというような法律による制度があったからジャーナリズムが働かなかった、ということだけではどうも納得できないようなことがいっぱいあった、と分かると思います。
■原子爆弾開発のプロセスをめぐるジャーナリズム──「資料に語らせること」と「虚構、物語の助けを借りて、再構成すること」
さて今度は、原子爆弾が作られるプロセス、要するに原子爆弾が技術的に開発されて、実際の爆弾になって、それが落とされる過程がありますよね。単純に核分裂連鎖反応が可能になった、という側面だけではないんですね。そういう「科学技術的」なプロセスと同時に進行していた、切り離すことのできないその当時の状況というものがありました。国と国とが争っていた国際的な状況とか、あるいは経済の発展とか、もうちょっと大きく言うと、要するに近代社会に突入をしてしまい、「戦争の仕方」そのものにも、例えば「戦略爆撃」というような発想が生まれてくる。これらは「原子爆弾誕生の背景」と無関係ではないね。つまり我々が人間の歴史として捉え返すことができるはずの「原爆が落とされた過程」があるんですね。とうぜんそのことを伝えるようなジャーナリズムがありうるでしょう。その一つの例は、『原子爆弾の誕生』だということです。
この白板の上に非常に単純な図式を書いたよね。体験・出来事があって、で、向こうのほうに「みんな」っていうのがあって、その中間に、もし「ジャーナリズム」っていうのが存在しなかったら、体験レポートはみんなに伝わらない。あるいは、みんなが体験や出来事を共有することはできない。という非常に単純な図式になりました。ところで、「原子爆弾の開発」っていうのは、「出来事」ということはできるけれども、「体験」だというふうにはいえるかな? それは考えてみてください。一応「出来事」ではあるということなんですが、この「出来事」がなければ原子爆弾なんて存在しなかった。けれど実は、原子爆弾が実際に使われたということから「開発」という出来事があったということが、わかるんだね。わかるけれども、具体的にどういう出来事であったかということを、実は我々はあんまりよく知らない。そういう意味で言うと、さっきの実際に原子爆弾が落ちた広島での出来事、体験というものと同じように、「原子爆弾開発という出来事」がジャーナリズムによってみんなに共有されることになるという同じ図式に収まる。ね?
こういうジャーナリズムの働きというのは、「歴史」というものが、我々みんなの体験になるために必要なプロセスですね。その方法として、二つ例を出しました。一つは、それまで秘密になっていた「一般には公開してはならない」というふうになっていた文書が公開され、その公開された文書を集めて本にした。これがアンソニー・ブラウンのしたことだね。これは一つの「ジャーナリズム」ってことになります。しかし、どうもそれだけでも不充分。なんでかっていうと、結局は秘密にされていた政府の文書類が集められたということだけであって、出来事を我々が体験的に共有するってことはできない。それで何が必要なんだろうかということですが、いささか乱暴に聞こえたかもしれないけども、ある種の虚構を作り上げる「想像力」もそこに導入されなければならないだろう。それから原子爆弾の技術的な開発、あるいはその軍事的使用という文脈だけではなくて、もっと他の我々が共有できるような文脈の中に置くために、たとえばリチャード・ローズは、ひとつは公文書だけではなくて、他の、個人的な目的で書かれた、開発に参加した人の回想であるとか、その他さまざまなものをもう一回そこに動員をして、再構成をしたんだね。つまり、ある種の総合的な発想で歴史の再構成をした、ということがいえるでしょう。大変厄介な問題であるけども、我々のほとんどが理解し得ないような科学的知識、あるいは科学的な叙述の破片──これは分量的には大きいけども──を、総合的な視野を持ったジャーナリズムの中に放り込んだということになります。読者がその部分を理解して読むか読まないかということは様々だけれども、まったく理解する可能性がないとしたら、おそらくリチャード・ローズのこの『原子爆弾の誕生』は、価値が半減しちゃうんだろうね。科学技術のことが本当に身近な問題でない我々には、厄介な問題です。しかしそういうジャーナリズムがありました。
■ものさし──出来事の重要性、スピード、信じさせる力、統合力
そうして読む中で、いくつかの、皆さんが気がついた問題がある。一つは、さっき言った「ジャーナリズムが働かない状況」があるということです。で、ジャーナリズムが働くようにするということが、一つの理想になるわけだね。それをどうしたら確保することができるか、ということがありました。しかしそれ以外にも、「ものさし」という言葉を使いましたが、単純といえば単純かもしれないけども、まず「体験」あるいは「出来事」と呼ばれているものが重要である。どうして重要であるかを定義することはなかなか難しいけれども、しかし重要であるってことが、やっぱり重要なんだね。そしてそれが誰にとって重要なのかっていう問題──どうして重要なのかっていうふうに原因結果的にたずねると大変難しいものになっちゃうんですね──があります。それは単純にいえば、みんなにとって重要なことが起こったということになる。その「重要性」ってことが一つの「ものさし」だということがわかった。
それからもう一つ、「早さ」。重要なことは、早く伝えなきゃいけない。重要なことをゆっくり伝えたんでは、間に合わない。で、ある種の矛盾がそこにはあると思う。重要なことはゆっくりとしか伝わらないということも、ありうるんですね。いや、早く伝えることもできるけれども、それは結局、たとえば今朝のニュースみたいなのですね。「ドイツで大型の旅客機と貨物機が衝突」、しかし詳しいことはわからない。そんなことはゆっくり伝えたらいいじゃないか、とは誰も思わない。例えば小泉首相が誰かに殺されたとする。これは絶対にすぐにテロップとしてでるし、民放の番組もストップをして、そのことを報じるでしょう。結局は、同じ内容の繰り返しで、「殺されたというニュースが入りました」なーんて繰り返し言うしかないんですが、ある種の重要性をそれは表します。つまりスピードということだね。
その次の「ものさし」ですが、これは実はまだしっかりと論じてはいません。それは、自分が伝えていることが「これは本当のことだよ」ということを、みんなが信じてくれるようにしなければならないということ。これも大変重要な「ものさし」だね。どうしたら信じてくれるか。当然のこながらぞの前段で、ジャーナリズムの活動をする本人が信じていなければならない。言い方をかえれば、どうしたらみんなに理解してもらうことができるだろうか、ということは、自分が理解をしていなければならない、ということですね。で、理解をするための方法、あるいは信じてもらうための方法をもたなければならないことになります。これはいわゆる工夫がいる世界だね。僕らが今まで見てきたものはほとんどが文章で書かれていました。その文章が、信じるに足ることが書かれているかそうでないかということが非常に重要になっている。丁寧に言えば「やっぱりちょっとこの書き方はなあ」っていうのがあったりするだろう。そういう視点をもうひとつの「ものさし」というふうにみておきましょう。
それからさらに、僕らはこうやっていささか情けない感じで生きてるわけだけれども、それでも生きているのはなんとなくこうバラバラにならずにね、いろんなことを知るけれども、その知ったことが個別的にただあるだけじゃなくて、自分が生きること、あるいは他の人たちと一緒に生きることと無関係でないかたちで、いわば総合されている。そうしてはじめて意味をもつんだよね。だから、ただ、どこどこでなになにがありました、というような情報が自分に入っただけじゃなくて、それが自分が生きることとか、あるいは自分が死んじゃってからも他の人たちが生きることに何か意味をもつかたちになってるんだよね、不思議なことにね。で、そうでないということは、たぶん信じていない、どうでもいいっていうことだと思いますが。
山ほどある情報が、意味があるかたちで自分の中にはまっていくのか、あるいは、つくられていくのかよくわかりませんけれども、そういう力、それを例えば統合力とか総合力とかいうふうに言います。つまりジャーナリズムが仮に文章で書かれる、あるいはそれを誰か読むというようなかたちで行われていたら、その文章の中に、こういう力が働くかどうかということが「ものさし」としても考えられます。これも、さっきの「信じさせる力」と同じように、まだ一生懸命論じたわけではありません。
「信じさせる」というのはとんでもない言い方だとは思いますが、しかしもしあるところに「出来事・体験」があって、他方に「みんな」っていうのがいて、「ジャーナリズム」がなかったら、それは決してみんなが共有することはないというふうに考えると、そのジャーナリズムの領域の中で「よし、私がこのジャーナリズムのことをしよう」というふうに考える人は、どうしても「信じさせる力」を要求されることになります。
■重要だから重要だ?──暗黙のうちに共有される重要性
ここまで、すこし抽象的だったかもしれないけれども「ジャーナリズムとは何か」という問題を考えたわけですね。で、繰り返して例の単純な図式を思いうかべて。重要な出来事・体験がある。「重要な」というのは、「みんな」にとって。「みんな」っていうのは誰のことかっていわれても全部それをあげるわけにはいきませんが、我々がもともと「みんな」っていうある種の「仲間」を想定している、そういう「みんな」です。かっこよく言うと「人類」とかいうことになるけど、僕はこういう言い方はあまり好みではないですね。また、繰り返して言いますが、重要な出来事・体験がなぜ「重要」かということについては、これは条件をあげられないことはないかもしれないけれども、でも、あげないほうがいいだろう、という感じがします。どういう条件をそろえたら「重要」になるのか、……たぶん、これは条件をあげないほうがいい……。そもそも一番最初に「重要だ」と言ったときに、つまりみんなにとって「重要だ」と言ったときに、そのことは暗黙のうちに共有されてる──そういう感じの言葉だったと思います。そのみんなに共有されるために、どうしても欠かすことができないような働き。これを「ジャーナリズム」というふうに呼ぼう、とういうことになっているはずです。いいよね。
ところが、「働き」が「働き」であるためには、人がいないといけない。人が必要です。我々の今の社会のことを考えると、当然それにふさわしい組織があるね。今は例えば「テレビ局」ってのもある。あるいはインターネットのプロバイダーとか、そういうような組織が必要になってくる。そういう働きをもった人や組織も「ジャーナリズム」ということの中に含めて考えましょう。それからこの働きには、繰り返し言いますけれども、「何が重要か」とか、あるいはさっき言ったような基準──ものさし──が働いています。つまり「ジャーナリズム」には価値があるんですね。質の高いのもあれば低いのもあるし、量的な比較のしようもあるように思われます。これがジャーナリズムの一つの定義の仕方だろうと思います。
■職業分類としてのジャーナリズム、行動としてのジャーナリズム
ところが困ったことにですね、僕らはジャーナリズムという言葉を、いつもそういう定義の仕方に従って、使っているわけではありません。で、いろいろ思い違いが起こります。例えば職業分類と、今言ったようなことは必ずしも一致しない。しかし一致することもありますね。「あなたの職業は何ですか?」「私の職業はジャーナリストです」というときには一致するでしょう。だけど、「あなたの職業は何ですか?」「私の職業はありません」ということもありうる。必ずしも一致するとは限らない。これはある種の職業分類です。あるときは「いや、二束のわらじです」とか「銀行員だけれどもジャーナリストをやっています」という人もいる。今の職業分類と、働きによって定義されるジャーナリズムとは、これは必ずしも一致しないということを考えなければならない。
■言語表現ジャンルとして語られるジャーナリズム
その次の一致しない例は何か。言葉を使って表現する世界。今の我々の社会では、そのことによってお金が入ってくるというか、生活ができる。例えば、「私はSF作家です」という看板があります。人間についてだけじゃなくて、言語表現の世界を分類する用語があります。あるものは小説という、あるものはノンフィクション、あるものは詩、というふうに、ジャンル分けというのがあるんです。それはいくらでも細かくなるんですね。これは歴史小説とかというふうになっています。
それで、例えばジョン・ハーシの「ジャーナリズム」の定義は、重要なことをみんなが共有できるようにするということでした。そういう意味では、ジョン・ハーシーは僕らが言おうとしているところ、僕らがそうだというふうにしようとしているところのジャーナリズムをとらえているようにも思われる。にもかかわらず、彼は、「ジャーナリズム」と「フィクション」を対比させて喋っている。……という例も挙げたよね。挙げたけど、翻訳が悪いとか言って……。英語が何だったか思い出せなかったんですが、もともとは、こんなんでした。
Journalism allows its readers to witness history; fiction gives its readers an opportunity to live it.
Allowは、許可するとか、できるようにするという意味だよね。ジャーナリズムは、その読者が歴史に立ち会うことをできるようにする。それから、そのジャーナリズムに対比させているのは、ここではフィクション。フィクションは、その読者にopportunity機会を与える。何の機会かというと、 to live it。itは「歴史」です。
僕は、なかなか面白い言い方だと思いますが、注目をしてほしいのは、彼がこういうふうに言ったときに、ジャーナリズムとフィクションというものを対照的なものだとしている点ですね。でも、ずっと我々が見てきたものからすれば、ここで「歴史に立ち会うというこto witness history」と「歴史を生きることto live it」とは、一緒ではないかと僕は思っちゃうわけです。差がないというふうに思ってしまうわけですが、そこはハーシーさんはちゃんと区別しています。もう一回、『壁』(The Wall)の巻頭に書いてある彼のある種の断り書きを読む。
これはフィクションの作品である。これは、虚構の作品である。広くいえば、それは歴史を取り扱っているが、細部においては、作られた話である。……
この『壁』の中身は、記録文書。これが埋められていて、掘り出された記録文書にこういうことが書いてあった、その書いてあったことというのが、この彼がいうところの「フィクション」の中身です。実際にはそういうものはなかった。だから、架空なんです。それは歴史を取り扱っている。しかし、これを書くためにジョン・ハーシーはものすごくいろんなものを調べた。取材活動もするんだね。それは、前回ちょっとだけ言いましたけれども、アントニエッタと言う女性の名前が付いたバイオリンについて、これを小説仕立てで書いたものがあります。それも同じです。そのバイオリンそのものが実在をしている。だから、いろんな人の手に渡ったりするわけですが、そのアントニエッタは実在している。ところが、ハーシーは「これはジャーナリズムではなくフィクションです」というふうに言っている。そういうジャンル分けを彼はしているということと、我々が「働き」で考えようとしていたジャーナリズムは、あるところは重なるけれども、ぴったりと重ならないところがやはりあるということです。
■芸術家であるよりはジャーナリストでありたかったH.G.ウェルズ
それからもうひとつ、 H.G.ウェルズはこういう言い方をしています。「私は芸術家というより、むしろジャーナリズムと呼ばれたく思っていますが、あの作品の趣旨もそういったものです」──あの作品というのは、皆さんの読んだ『開放された世界』ではありません。「ブーン」という別の作品ですが、この彼の言い方はどうやって発生したかっていうと……。ヘンリー・ジェームスという小説家として大変有名な人が、H.G.ウェルズに、お前は芸術家にならないといけないのに、そんな芸術的でないことを書いてどうするんだ、という趣旨の手紙を書いたか、あるいはどこかで喋ったんだね。それに、H.G.ウェルズが答えて「私は芸術家と呼ばれるよりは、ジャーナリストと呼ばれたいと思っている」と、ジャーナリストでどこが悪いんだという居直った感じのことを言っているところがあります。そうすると、これはフィクションとジャーナリズム──こういう対比関係を言っていますね。H.G.ウェルズは、芸術なんてくだらないものには私は関心がない、私はジャーナリストであるという言い方をしている。僕らが、ジャーナリズムという言葉をどういう文脈で使っていることか、ということの例の一つです。いろんな使い方があるんだね。全部同じような定義で使われるとは限らない。
■今日の社会では──ジャーナリズムの中心としてのノンフィクション
しかしながら、皆さんを困惑させなければならないことがあります。それは何かというと……。みんなに伝える、みんなが重要な体験を共有する、そのことにかけなければならない、そのことが重要なんだ。ということは、みんなが分からないようなものではいけないのだけれど、実は、我々が分からないような芸術が、芸術と呼ばれるものが山ほどある。それからもうひとつは、分かる分からないの問題だけじゃなくて「これが本当に起こった出来事なんだ」ということを信じさせなきゃいけない。ここから出てくる問題は、結局のところ、現時点では我々の生きているこの社会──別の社会もあります。地球上にはいろいろな社会ありますが──例えば日本の社会で考えたら、ジャーナリズムはほとんどルポタージュとかあるいはドキュメンタリーとか、そうもいえないけれども、それでもないしこれでもないけれども、でも、「ジャーナリズム」と呼ばれるような、つまり「小説」とは呼ばれない方法、「フィクション」とは呼ばれない方法をとることになる。つまり、ノンフィクション。ルポタージュはノンフィクションです。ドキュメンタリーもノンフィクション。
ただ問題は、ノンフィクションは必ずしもルポタージュにはならない。ルポタージュっていうのはいわば現地報告です。何か起こったら、例えば首相官邸に行って、そのことを取材すればルポタージュになるかもしれない。今首相が何を言ったかというのがルポタージュ。「報告いたします」というようなスタイルですね。ドキュメンタリというのは記録です。しかし、そのどちらにも属さないようなノンフィクションはありうる。これはいろいろ考えられます。ノンフィクションというのは、作る人つまり作家が介在するのにどうしてノンフィクションと言えるのか、というのは本当に微妙なところですけれども、さっき言ったような「信じさせる力」という問題がここにあります。実際にこれは起こったんだよ、みんな共有しなければいけない重要な体験なんだということを、今この時点での我々の文化・社会では、ノンフィクションという方法でやっています。これが今日のジャーナリズムの中心です。ただし、繰り返して言いますが、例えばH.G.ウェルズのようなフィクションを作る力がなかったら、ノンフィクションも作れない。ここが難しいところだね。
■ 人間が考えるという出来事
その次にいきます。ここからまたますます難しくるかもしれません。前々回言ったことだと思いますが、「事実の叙述」ということと「科学的な叙述」ということの、ある種の対照を作りだして、科学的叙述というのは、限られた科学者の仲間には通用するけれども、「みんな」いうところには通用しない。それを「科学的叙述」と呼んで、ジャーナリズムの考えている、ジャーナリズムが駆使する「事実に叙述」ということとは分けて考えようと言いました。それからもう一点、前回言ったことですけれども、「事実と虚構」ということだったよね? 「出来事」というふうに言うけれども、いわば物的、物理的に「起こったこと」を指して「出来事」というふうに言っているかのように思いますが、よく考えてみると、やっぱりそんなことはないですね。原子爆弾にせよ、あるいはその他さまざまなジャーナリズムが対象とするような重要な出来事は、ほとんど誰かが考えてしたことです。中には、火山の噴火のような出来事があり、それは人間が考えて起きたことではないのですが、そいうときでさえ、その噴火に対応して人間がどうするか、避難するのかしないのか、緊急対策本部ができるのかできないのか、あるいは予知の体制が十分だったのかどうかということが必ず問題となる。つまり、人間が何を考えていたかということが結局は書かれることになる。ジャーナリズムって人間がやることですから。人間は人間がやることにやっぱり関心があるんだね。
考えることが、物的な出来事を説明するためにも必要だし、考えていることそれ自体がやはりみんなが共有するべき重要な出来事になる。ちょっと難しいよね。出来事じゃない感じがしますが、仮に、混乱しないように、考えることは出来事でないとしてしまうと、しかし、新たに人間が考えてること──これはしゃべったりすることで分かります──そのことをジャーナリストはこういう話を聞いたぞとか、そういう話を聞いてジャーナリスト本人の中にこういう考えが生まれた、だから重要なんだ、みんな聞いてくれ、というふうにやっぱりなる。くどくど言う必要ないでしょうけども、起こってしまったことを、物を表現する言葉で書いてもジャーナリズムにはほとんどならない。「科学的叙述」の世界ではそういうことをやっていますけれど、ジャーナリズムがそれをしようとしても、結局のところジャーナリストがそれに対面したときに自分の中で起こった考えあるいは人から聞いた話、つまり人間の考えを書かざるをえない。当たり前だね。
■環境ジャーナリズムの、長い時間展望
つまり、もうすでに起こってしまったことであるならば、起こってしまったことの背後にある人間の考えを扱わざるをえないだろう。あるいは、さらに厄介なことに、われわれは実は明日があると思って生きている。その明日起こること、つまり将来起こることを自分たちで考える──こんなことになるんじゃないかな、こうなっていくぞと──これが実は重要なことなんですね。とりわけ「環境ジャーナリズム」ということになると、これがほとんどなんですね。これはたいへん難しい問題です。もちろん他のジャーナリズムにもこういうところはありますが、環境ジャーナリズムに非常に特徴的な課題です。つまり環境問題なるものは、長い人類の歴史で言うとごくごく最近になってようやく気づかれ始めた。どうしてかというと、日常生活を繰り返している中でとらえがたい。とらえはじめたのは、公害ということが起こってからです。これは激烈です。──で、次回これは本当に読んできてよね、『苦海浄土』──水俣病のようなことに公害問題の原形は明らかにあります。で、そこにはいろんな公害問題の原理のようなものがたくさん含まれています。で、当然ながら環境ジャーナリズムの原理のようなものもたくさん含まれています。だけれども、激烈ですよね。それで、気づくというよりは、ことが起こってしまった。その起こってしまったことを、どうやって我々が生きるか、その歴史を生きる、その問題を生きること、それが非常に重要なことだったと思います。しかし、皆さんが環境社会学科でいろいろ注入されているような環境問題というのは、その尺度ではなかなかとらえられない。その尺度というのは日常生活的な尺度ということです。ところが、環境問題がやはりあるということを、ようやく我々は気づいたんですね。これをジャーナリズムはどうするべきか。重要だっていうふうに思ってない人がいるかもしれませんが、思っていると仮定したうえでの話ですう。なぜそういうふうに仮定しているんですかといえば、皆さんはわざわざ環境社会学科にご入学されたのだから、たぶん気づいた仲間なんだろうと思うからです。環境問題は、しかしある意味で日常的時間展望を超えて存在しているものなんです。日常的な時間展望を超えた、もっと長い時間展望を持たなかったら、把握することができないような問題としての環境問題。さて、長い時間展望とは何を意味するかというと、これは考えるということ以外何も意味しません。目の前で起こってない。そうだよね。もちろん目の前で起こってることとか過去に起こったことを手がかりにしながら考えるわけだけども、過去に起こったことを含めて、それはたいへん長い時間展望を持たないとやっぱり捉えられない問題なんだよね。
ここで、なんか矛盾じゃないですけど、あれっちょっと今まで自分が考えていたジャーナリズムと違うじゃないか、あるいはさっき中心的であるといったルポルタージュ、ドキュメンタリー、ノンフィクションということと、考えを表現して伝えるってこととは違うじゃないか、という感じを皆さんは持つかもしれません。後期になるともう少しこの悩みを解消する手がかりが提示できるかなという感じもしますが、そういう環境ジャーナリズムならではの問題があるということを記憶しておいてください。
それから次回は『苦海浄土』に入ります。『苦海浄土』は実は複雑な構造になっています。水俣病という大問題を、これは重要なことだと伝えようとするわけですね、石牟礼さんは。ひとつのまとまった作品として『苦海浄土』が出来上がった。そこに登場してくる人たちは全部実在の人たちなんです。ところが石牟礼さんが言ったこと、あるいはほかの人たちがその作品を評して言うには、これは聞き書きとしてつまりルポルタージュふうに今誰々がこう言いましたということを記録し、それを公表したのではなく、その人がしゃべってないことを書いているというのです。講談社文庫の解説者は、これは私小説であると言っている。ですが、そこには実名でいろんな人たちが登場して来る。で、今日しゃべったことのいくつかの問題がそこに引っかかると思います。ついでに、皆さんまだ読んでないから予告編ということで言いますが……。細川一というお医者さんがでてきます。このお医者さんをどう評価するか、評価はいろいろあるでしょうけれども、細川一さんがしたこともジャーナルリズムです。、ところがそのジャーナリズムが何かどこかうまくいかないのです。そういう問題があると思ってこれを読んでください。
■ジャーナリストとはだれか、そして、学生とはだれか
さあ、後10分でできることは何か。結局のところ「ジャーナリズムとは何か」という問題をまとめて考えるときに、そこにいろんなことが集約するであろうという問いの立て方があります。「それはジャーナリストとは誰か──どういう人をジャーナリストというのか」ということですが、まず近いところから行きましょう。学生とは誰か。誰かという言葉はちょっと具合が悪いので「学生とは何か」というふうに置きかえたらいいと思います。を考えて自分が学生かどうか考えてね、あっ俺のような人間が学生と言うんですかというふうになると思うんですが、『広辞苑』を見ると、学生とは「学業を修める人」とかね「特に大学で学ぶ人」とかね。ぜんぜん当たり前じゃないかと皆さんお思いになるでしょうが、自分の胸に手を当てて聞くとこれは別な問題になって、私は学生だろうか、学生証は持ってるし学割はくれるけれども私は学業を修めているだろうか、。勉強してるだろうか、毎日の時間の大半は勉強してないじゃないか、それでも学生だろうかとかいろいろ思うよね。しかし皆さんは例えばおまわりさんに捕まったりして、お前の職業は何だと聞かれれば、私は学生です、どこの学生だ、京都精華大学の学生ですとかいう。それはまったくそのとうりなんだよね。つまり京都精華大学の学生ですといっているときの「学生」が持っている意味あいと学生とは何者なのかという問いがもっている「学生」の意味あいは違う。勉強しない人は、学生って呼ばないんだよ。どうする、困った? でもたぶん皆さんにもいろいろ言い分はあって、いや少しぐらいはしてますとかね、いや今ちょっと遊んでますけどこれからするつもりですとかね。いろいろいうかもしれない。
学生とはなにか──つまり働きで定義するとすれば、これは混乱せずに非常にはっきり自分でわかると思いますね。自分は働きとして学生であるとかね、いや違うとかね。働きとしては学生ではないけれども、職業を尋ねられたときに答えられるものとしては明らかに学生であるとか。中には、授業料を払ってるから学生であるとかね。ジャーナリストがここで努力をしなければならない重要なことがあったね。たとえば、信じさせるようにジャーナリズムの仕事をするには、どうしたらよいか。それを踏み外してしまったときには……。学生の本分という言葉があるけれども、勉強をするという本分を踏み外したときには、それは不良学生と呼ばれるかもしれないし、あるいは学生じゃないと言われるかもしれませんね。それと同じようにジャーナリズムも、そこを踏み外してしまったらジャーナリズムでなくなってしまうっていうことはやっぱりあると思う。それはひとつだけとは限らない。いろんなことがたくさんそこにかかわって、結局のところ社会というものがあり、その社会の中で決意を持って引き受けなきゃいけないわけだね。なんでもそうです。それは、ときには、外からの強制のように感じられることもあるだろうし、あるときには、じゃあ私がそれを買ってでよう、引き受けましょうということになるかもしれない。つまり個人の責任として問われるようなものが山ほどでてきます。結局のところわれわれはどんな職業についていようと──職業というのはお金が入る入らないではなくて、社会の中で自分がどういう働きをするか──そのことによって評価されるわけだね。
それを個人が負うべき責任というふうに考えていますけども、ジャーナリストであれば、広い意味で言うジャーナリストとして、つまり職業的ジャーナリストだけではなくて、重要なことをみんなが共有できるように自分が働く、そのときに何を自分の責任として果たそうとするか、その基準はいっぱいあるわけですね。単純にいうと、人を騙さないとか、うそをつかない、勉強してないのに勉強しているような顔をしないとかね。でたらめを言わない、騙さない、うそをつかないというようなことが、自分が書く文章の中で、この文章はうそでない、騙してないという「ものさし」になる。自分が理解してないのに理解してるかのようにしていたら、これは騙し。それは字面だけの問題のようにお思いになるかもしれませんが、決してそんなことはないですね。しかもこう、こういう今まで皆さんが見た資料でもいろいろ考えることができますが、本当のことを書く書き方があるんだね。どうしたら本当のことが書けるか。自分はこれが本当だと信じてるんだけど、まず、信じてるそのことを本当に信じていいのだろうかと疑うプロセスが仮に入ったとする。そのプロセスそのものを自分の文章の中に書いて、それをほかの人に向かっても、こういうふうにいろいろ悩んだんだけど結局こうじゃないかと思う、というようなことを書けば、それを読む「みんな」というのがね、そうか俺もそういうふうに思うよとかね。というふうに考えると、いわゆる結論だけを書いたことでは誰も体験を共有することにはならない、という問題がある。しかし、どうも僕らは結論だけを書く文章にしか慣れていなくて、どうして自分がそういうふうに考えたかというある種の論理はなかなか文章にしない。そういう習慣があります。でも、これでは結局共有できないよね。しかし難しいのは、この論理でやろうと思ったら、たとえば科学者と呼ばれる人たちの仲間内でしか理解ができないような文章になってしまうとかという、もうひとつの大問題がそこで発生するかもしれないね。
それで、ジャーナリストとは誰か。今言ったことを全部総合してくれたらいいわけですが、社会の中での働きによって定義とすると、皆さんジャーナリストになる。ただ質のいい悪いということはいろいろあるし、それから現実の社会の中でどうやって飯を食うかという問題と結びついたりするとね、職業ジャーナリストもいるよということになる。で、この問題は、前回か前々回お配りして皆さんがテーブルの上に出しているに違いない戸坂潤の文章に書かれています。彼の文脈は、唯物論という立場から書かれているので、唯物論とは何かというところを理解しないとちょっと難しいかもしれませんが、ところどころにこれは面白いなというところがあると思います。読んでおいてください。
授業日: 2002年7月2日; テープ担当学生:平井紫乃、平井朝江、平野美嘉、普神大介