スリーマイル島の事故を知ったのは一九七九年三月二九日の朝だった。「放射性蒸気漏れる米の原発 冷却水ポンプが壊れ」という見出しの短い記事が朝日新聞朝刊の第一面にあった。記事は小さかったが第一面にあることで異例であり、最大級の深刻さを意味していた。私たちが日本でこの朝刊を読んでいる時刻は、ペンシルバニアの現地では事故発生一日目、三月二八日の午後だった。現地では晩になって家にかえってはじめて事故のことを知る人たちも少なくなかったのだから、奇妙な感じにとらわれてしまう。
その日の夕刊で、ということは現地は二八日の夜中という時刻なのだが、各紙とも最大級の扱いをはじめた。朝日は「炉心破損の疑い 五百人汚染の恐れ 安全装置作動せず 十キロ先でも放射能」、毎日は「史上最悪の原発事故に 冷却水漏れで拡大 従業員が放射能汚染か」、読売は「核燃料とけ出す」という大きな見出しをのせた。多くの人たちが事故三日間の三月三〇日になるまで事故の深刻さをまったく知らなかったという現地の状況とかさねあわせると、報道の奇妙なかたよりがみえてくる。
大事件を期待しながら新聞を手にとる読者の貪欲と、自分は安全圏にいるという思いこみという、私たちの例の皮肉な二重構造が顕在化しただけのことではない。原子力発電という、まるで巨大な機械装置のような社会制度に最初から組みこまれているかたよりではないのかと私は思う。たしかにこれはただの直感だといえばそれまでなのだけれど、この制度では人間が主人かどうかはまったく疑わしい。
中尾ハジメ『スリーマイル島』(野草社、1981年)
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■「情報が劣化する世界」の原発事故
中尾ハジメ:来週までの宿題覚えてるよね。分かってない人は、分かっている人に聞いておいてね。
今日は、先週の続きです。情報の話をしましたね。1950年代にはすでに、「情報理論」というものがありました。そのころ考えられていた「情報」というのは、先週しゃべったとおり、「劣化」ってことだね。その「劣化」するという問題についてもうすこし考えてみたいと思います。
先週は先回りをして、「情報は劣化するんじゃなくて、創造される」ということを言いました。どこで創造されるのか、という問題もありますが、人間の間で情報が伝わっていくっていうことが、もともとの「情報」っていう言葉の意味なんですね。そして、人から人へと伝わっていくうちにどんどん「劣化」していっちゃうっていう考え方があったんです。しかし、それではすこし具合が悪いのではないか。本当にそうなのだろうか? そもそも知識や情報が「伝わる」ということは、「劣化」ということで説明ができるだろうか。
先週、話したように、みなさんには「知識」があって、その「知識」とは、たとえば中尾ハジメの中にあったものが、話されることによって、みなさんの中に蓄えられる、というように考えている人がいるでしょう。もしそうだとしたら、これは「劣化」するしかないですね。まあ、まだ納得できていないかもしれないと思うんですが、この問題はおいておきましょう。しかしそういうことが言われたなあ、ということは覚えておきましょう。
で、20年ほど昔に戻りましょう。「情報」ということが問題になったひとつの事件があります。これは環境汚染の事件でもありました。原子力発電所の事故のひとつの実例があります。
今は「情報」とか「情報社会」あるいは「情報化社会」とか、いいますね。みなさんのおっしゃるとおり、いまは印刷だけじゃなくて、テレビとかインターネットがあったりします。この「情報化社会」というのは、どういう問題を抱えているのかを考えてみたいと思います。
今日の資料は、私の書きました『スリーマイル島』の最初と最後のほうの部分です。6〜12ページまでと、195〜203ページまでです。みなさんにとってはとても昔かもしれませんが、1979年。生まれてた人いる? スリーマイル島の事件は79年の出来事です。そのころはすでにコンピュータというものが、産業界では使われていました。とりあえず、お読み下さい。
読んだね。さて、コントロール・ルームというものがあります。たとえばNASAがスペースシャトルをとばしますね。で、シャトルの中で起こっていることとか、あるいはシャトルがどういう軌道を飛んでいるのか、というようなことをコンピュータを使って、画面に表示をしたりしますね。原子力発電所もそういうふうになっています。ではそういうふうになっているのになぜ事故が起きるのでしょうか。なぜだとおもいますか? 結局は必要な情報をとらえきれていないんでしょうね。あるいはとらえるようにできていても間に合わないんでしょうね。
実際に、例えば放射線の強さが、原子力発電所の内部においてどの地点ではどのくらいだということがモニタによって分かりますね。しかしよく考えてみたら、隈無くモニタがおいてあるわけじゃないですね。隈無くはできないんですよ。しかしですね、すべての情報をとらえようと思ったら──そのすべての情報というのは、たとえば放射線の強さを測定するモニタがあるとしたら、それを隙間なく並べなければとらえられないですね。あるいは水漏れを検知するということについても、原子力発電所のパイプは大変長いです、その長いパイプのどこから漏れているのかが分かるようにつくらなければならない。
しかし、仮にそれがつくられたとしても、「情報理論」にしたがうなら、「劣化」がおきますね。つまり、もともと不可能なんですね。まあ、こういう問題があるということを分かった上で、次に進んで、実際の事故がどういうふうにして伝わったのか、とりわけ発電所の周辺の人たちにはどういうふうに伝わったのかを見ていきましょう。
ものすごく不思議なんですが、日本で新聞を読んだ僕は、「これは、大事故だ」と思いました。新聞の第一面に載ったんだよ。第一面に載るって事は大変なことですね。僕が新聞を読んでいたとき、現地の人たちはなにをしていたか。それが後になって分かります。なにもしてないんです。これはどういうことでしょうか。情報の伝わりかたが特別なんだよね。で、仮にこれを、「中央集権的な情報の伝わり方」といってもいいかもしれません。とうぜん時間が経つに連れて、現地の人たちも事故を知り、腹が立ちました。
■「ひと」はただの電話線のようなものだろうか?
中尾ハジメ:こんどは、発電所ということじゃなくて、わが身を振り返ってみましょう。僕たちが手に入れている「情報」はいったいどこから来るんでしょう。いろいろありますよね。隣の人間が、ものすごく意味のあることを話しかけるだとか。
いったい自分たちは、どこから来る情報に意味があると思っているのか。あるいは、隣の人間が自分に伝える情報は、「ああそれは、隣の人間がつくりだしたものじゃなくて、隣の人間がどこかで手に入れた価値のある情報を自分に流しているんだ」というように考えているんでしょうか? みなさんが「情報」という言葉を聞くときには、あるいは使うときには、自分の体験上、どういうことを指して「情報」という言葉を使っているか。あるいは「情報」という言葉でなにを説明しようとしているか。みなさんが自分の中に持っていると思います。それを振り返って考えてみましょう。いったい自分はなにを指して「情報」といっていたのか? いろいろあるよね。
■「中央集権的な情報のありかた」
中尾ハジメ:原子力発電所の事故に戻ってみると、ものすごくはっきりとよく分かる。この場合「情報」とは「困ったこと」でした。すごくね。場合によったら、逃げ出さなければならないような「情報」でしたが、その「情報」に困ったことが起きたんだね。でも「情報」の中には、逃げ出すんじゃなくて、自分がそこに行きたい、とか、あるいはこれを買いたいっていうような「情報」もあります。それらの「情報」はどこから来るんでしょうか? あるいはみなさんが、自分たちの仲間うちの流行だと思っているようなこと──服装などでかまいません──そういう「情報」はどこから来るんでしょうか?
さて、この原子力発電所の事故で分かったことは、ただ単に原子力発電所内部の「情報」の伝達が問題なのではなくて、さらに原子力を担当しているお役所だとか、消防署、警察だとか、そういうところの情報関係だけが問題なのではなくて、なぁんで日本にいる我々に大変な事故が起こったって事が分かっているのに、すぐそばの人たちにはそういうふうに伝わらないか、という問題があるということで。
で、こう考える人もいるかもしれません。「アメリカだから、そんなことが起こるんだ」というようにいる人もいるかもしれません。「日本じゃそんなことは起こんないよ」とかね。でも、ついこのあいだの東海村でありましたね。中性子が大量に漏れてしまった、いわゆる「臨界事故」がありましたね。で、その事故がやっぱり僕らには早く伝わりましたね。東京にも早く伝わりましたね。首相官邸にも早く伝わりましたね、一応。ただ、意味が分かってなかったんですよ。それがどれくらい深刻なのかをね。当時は小渕内閣でしたね。官房長官は野中さんでした。これが国家的規模の事件であると認識できなかったんです。結局は、そうやって中央が認識できないときには、東海村周辺の人たちはやっぱり認識できなかったんですね。同じ事はどこでも起こります。チェルノブイリだってそうでした。チェルノブイリの時は、このときは情報のための技術が発達してますから、事故の次の日の午前中、衛星写真であの辺が全部写るんです。するとね、発電所のすぐそばでサッカーしてるのが見えるんですよ。上から見えるんですよ。そういうふうに上から見えるのを、僕たちは新聞なんか見るんですよ。そのときにチェルノブイリ周辺の人たちはなにも知らない。そうなっちゃうんですね。こういう事態をさしてですね、「集権的科学技術」とかね、情報ということで言うと、「中央集権的な情報のありかた」というふうに言います。でも、ただの中央集権じゃないですね。だって、僕たちには分かっちゃうんですもん。遠く離れた僕らに分かってしまうんです。で、「僕ら」っていうのはいわば「下々」だよね(笑い)。で、分かってもなにもできない。こうなるんです。不思議だね〜。何でこういうことが起こるんでしょうか?(下記関連リンク参照)
これはまったく分からないではないですね。例えば、この中で新聞を読んでいる人はどのくらいいるのか? 自分の胸に手を当ててたずねてみてください。ほとんどの人は新聞読みません。で、テレビはどうでしょう。ニュースを見るでしょうか。見ませんね。そうしたら伝わりません。そういう問題もあります。しかし困ったもんですね。ニュースを四六時中聞いてなくてはならないんでしょうか? みなさんはテレビで警察物やスパイものを見るでしょ? 警察のおじさん達はいつもイヤフォンつけて、しょっちゅう情報が入って来るんだよね。しかも、尾行したりとかいろいろ仕事しながら聞かなきゃいけないんですね。でも、僕たちはそういうわけにはいかないですね。そうすると、どのへんでバランスをとったらいいのかを考えた方がいいということだろうかな。さて、さらに5分間、残りのページにも目を通してください。
読んだね。「報道」がいけないんだってね(笑い)。どうしたらいいだろう。・・・。「報道」はいけません。本当にだめです。どうしてだめなんだろう。情報が作られないんだね。スリーマイル島事故の場合は、加工はされるかもしれません。報道で流される情報は劣化してしまうんです。しかし、劣化するというふうに思われない。
むかし「大本営発表」ってのがありましたね。で、「大本営発表」はそのまま記事になります。新聞屋はそのまま記事にし、印刷屋はそのまま印刷したんです。それが我々の所に届きます。それを私たちどういうふうに考えて読むか。かしこい人は──ここが味噌ですね──かしこい人は信じない。でも、かしこくない人は信じる。それから、かしこい人であっても、その時代は、疑ったところでどうにもならないですね。今でも、新聞に書かれたことを多くの人は鵜呑みにします。そして、テレビや新聞の記者は自分で直接調べて、考えて、疑いを持って、記事を書くことがなくなってしまいました。で、とりわけ原子力発電所の事故のような問題は、書けないんです。理解できないんです。すると、理解しているふりをしているような人から話を聞くしかない。こういうのを「間接取材」といいます。人の話を記事にするんですね。しかもこの「間接取材」はぐるぐるまわりをします。決して誰かによって疑われたりしないんです。「決して」っていうのはちょっと言い過ぎかもしれませんが。そして読者である我々も疑おうとしない。
こういうのを「報道」というふうに言っていますが、はたして「報道」と言っていいのだろうか、といういささかおかしな問題提起をしたいと思います。「報道」は「報道」と言ってよいのか? な〜に言ってるんでしょうね(笑い)。で、そのことを考えると、「情報」ってのは、情報を伝える本人──例えば、新聞・テレビの記者──その人が、自分にとって意味のある、あるいは分かること、またあるいは、なにが分からないかということを伝えるのでなければ意味がない。「劣化」がおこります。そういう問題がありますね。「情報」を伝える側の問題というよりは、「情報」を受け取る側の問題、とりわけ「環境問題」なんていうことを気にしている人たちの問題というべきかもしれませんね。あるいは「原子力」に関心を持っている人たちが報道記事にどういう関心を持っているかという問題ですね。
■「情報」は便利?
中尾ハジメ:それで、また今度はちょっと違う点を具体的な例で紹介しますね。生活、というか、みなさんが生きるということとか、勉強することも含めて、どんな活動をしようと思っているか、そういうことと、「情報」という言葉をみなさんがどういうふうに捉えてみなさんが使っているか、合わせて考えてみたいと思います。「生きること」と「情報」が関係があるようにみなさんは思っています。で、どういう「情報」をさして関係があるのでしょうか。インターネットがものすごく便利だ、と思う人は手をあげてみて下さい(結構な数の手があがる)はいはい、そうだね、たいへん便利なものですね。「どういうふうに便利なのか」ともし聞かれたら、どう答えますか。非常にはやく情報が手にはいるという言い方をしても間違いはないでしょう。わざわざ本屋に行かなくても、座ってるだけで、ぴっぴっと情報が手に入るもんね。
ある人にね、インターネットはどのように便利かをたずねたんだよ、そうしたら「感動する本を探したければ、“感動する本”と入力して検索したら“感動する本”がずら〜っとでてくる」っていうんだよね。で、「図書館みたいなところに行って“感動する本”を探すのは難しい。なぜなら図書館の分類の中には“感動する本”という分類はない」んですね。しかし、その人によると、「感動する本」がずら〜っとでてきて、しかも読んだ人の感想まで読めるんだそうです。まあ、その人にとってはそのように便利なんですね。・・・。これは反論するのが非常に難しい。けれども、なんと馬鹿げたことか、と思います。そういうもんなんかねえ、「情報」ってのは。
■「情報の創造」には手間ひまがかかる?
中尾ハジメ:さて、次の資料を見てください。これは『80年代』というけったいなタイトルの雑誌に1984年に3号連続して連載をされた記事です。現地の住人たちの体験を伝えるものです。じつはスリーマイル島の事故が世の中にどう伝わったかという問題だけじゃなくて、そのあと、事故の後に誰も──「誰も」といってしまってぼくは言い過ぎじゃないと思うんですが──誰も、現地の人たちがどういう恐ろしい体験をしたかということを、調べにいった人は皆無に等しい。新聞記者だけじゃなく、反原発の人たちの中にもそんなことをしに行った人はいなかった。なぜしなかったのか? だって情報は手に入っちゃいますからね。分かっちゃってるんですからね。で、すばやく手に入った情報と、現地までいってそこで得た世界はまったく違う世界です。
『80年代』という雑誌は、吹けば飛ぶような雑誌で、いまはもうありません。なぜか? この世の中では、ちゃんと採算が合わなければ成り立たなくなるんだね。したがってなくなりました。そういうもんです。印刷技術とかインターネットとかいろいろありますね。そういう技術を使って、いわゆる「報道」であるとか「ジャーナリズム」という活動をしようと思ったら、自分が死なないように、飯が食えるようにしなければならない。大変だよ。「インターネット」ってのはあんまりお金がかかんないように思われてるかもしれませんが、もしそこにずっとはりついて仕事をするとしたら、誰が飯を食わせてくれるのか(笑い)。これは非常に重要な問題です。そのためには記事が売れなければならない。あるいは、ものすごく寛大な誰かが、君たちがやってることはすばらしいことだ、なんて言ってさドカーンと寄付をくれるとか。でも、そうでないとしたら ──というより、そんなこと起こるはずがないんですが・・・。「情報」とかいうふうにみなさんが考えているものが、あるいは「報道」と呼ばれるものさえも、お金と無関係では存在できない。すごいよー、これは。
さて、次の資料。これは今日のテーマに直接はつながらないかもしれないけども、中味的にはスリーマイル島の事故とは要するにこういうことだよということが簡略に書かれているものです。これは、弘中奈都子さんと小椋美恵子さんが編集をした『放射線の流れた町』という本です。1988年、阿吽社というところから出ています。じつはですね、正直に言いますが、私はこれくらいで挫折をしました。10年経たないで──事故が起きたのは1979年です──、79年にみんながさっき読んでくれたようなことを考えたんです。そして、その問題と取り組まなければいけないと思ったんです。取り組んだんですが、いろいろなことがあって、簡単まとめて言ってしまうと、10年間で、もうできなくなってしまったんです。生きなきゃいけないからね(笑い)。だけど、そこでちょっと考えて欲しいんですが、何でたった1回の事故のことを、10年間も──もっとがんばれば、今だってやってるかもしれない──続けたのか。ひとつは、放射性物質が漏れだしたことで起こる被害の結果が、一瞬のこととして起こるわけでない──こういうのを「後発性」とか「遅発性」とかいいますが、あるいは「潜伏期」っていうとちょっと違うかな。即、病気が発生するわけではない。ガンなんてそういう病気だよね。被曝してから15年くらい経って、ガンになるということが多くあります。しかも、その被曝のせいだ、といえないという大問題です。人間にとって事故そのものがどういう問題だったかということを、新聞記者でも誰でもかまわないですが、本当に分かったというふうになるまで、一瞬にはできないんです。なぜか? ちょっと飛躍して聞こえるかもしれませんが、情報をつかむのは、あるいは情報を作るのは、ほかならぬ我々なのだから、そのたくさんの時間は、情報をつかんだり、作ったりするための時間なんですよ。原子力発電所の事故が起こったということはすぐに分かる。場合によっては、それがたいへんな事故だったということもすぐに分かるかもしれない。しかしスリーマイル島の事故みたいに、本当は大変な事故だったんだと思うんですが、それは分からなかった。分かろうとおもったら、何十年もかかるんだよね。こういうのは「情報」っていうかんじですか? 「情報」っていうのは、流れてくるか、飛んでくるかして、それをキャッチしさえすれば役に立つはずのものでしょ、たぶん。だけどそういうふうにはなっていない。
多くの人たちがスリーマイル島の原子力発電所の事故は、大事にならなくてよかったなあって言ってるんですよ。ひどいことにならなくてよかったってね。で、それとは違う世界があると、何でか信じてしまったので──違う世界をねつ造したりはしませんが──しかし、こういう事実があるということを突き止めなければいけないと思ったんですね。いずれにしても、そのことをやろうと思ったら、時間がかかったんです。たくさんの人でよってたかってやったら、早くできただろうか? そうとも思えません。それも問題ですね。どんなことをしたかっていうことは、今日の資料からうかがうこともできるかもしれません。「ああ、こんなバカなコトしてたのか」とかね(笑い)。まあ、それは後ほどお考えください。
■ジャーナリズムに立ちはだかる科学技術
中尾ハジメ:多分みなさんの中には、こういう考えがあるかも知れない。いわゆる実験室的な世界だけでなくて、日常の中でも、科学という世界があって──たとえばみなさんの使うコンピュータなんてのも科学ですね──その中味がどうなっているかを理解する必要はない。アイコンをクリックしたら何かでてくるから、そういうことだけを分かれば、あれは使いこなせます。そういうことをしている自分は決して、科学者だとは思わないだが、しかし科学というのがあると思っているでしょう。科学技術というのはそういうふうにして世の中に存在しますが、その科学技術の内部ではすべてが整合性を持って存在していると思いたいんでしょうね。それで自分は、科学技術は分からないから、科学技術の話をされたら、だまっておくか、あるいはその話の物まねをして何かをしゃべるかというふうになってしまう。
環境問題はものすごく大きい部分が、科学技術的な言葉で語られています。典型的な例は、「地球温暖化問題」ですね。で、しかしみなさんがもし、環境問題に少し関心があるという程度でも、地球温暖化問題について、自分の言葉で──という表現はぼくは不十分だと思いますが──自分の言葉説明をしたりして、人に伝えることが出来なかったら、どうするんですか、とおもいませんか? そして、みなさんはそろそろそういう壁にぶつかってるんじゃないかな、と僕は憶測します。「地球温暖化問題」について、「なぜ炭酸ガスが増えると地球の温度が上がるのかを説明してくれ」といわれて、「できる」っていう人はいるかい? 「わたしにはちょっとむつかしい」っていうひとは手をあげてくれる?(何人か手があがる)手をあげない人は、できるんかいな? 聞いてみようか(笑い)。だけどね、ここでたじろいだらダメなんですよ。で、これは科学の問題ではないんです(笑い)。いや科学の問題なんですが、みなさんは「自分は科学者じゃないからこの問題には挑戦できない」と考えるのが間違いなんです。そうしたらね、まず正直に「わかんない」と言うべきです。そうして、人に聞きなさい。おしえてもらいなさい。で、本当の話、原子力発電所の事故について「大変だ」というのは、比較的ラクでした。それでも大変だよ。ほとんどの人は信用しないしね。しかし、みなさんの問題はもっと大変です。地球温暖化問題。これは自分が取り組む問題だと思うんであったら、がんばらなければならないし、もしがんばらないんであれば、環境社会学科でなにをやっているのっていう問題です(笑い)。これは大変です。環境社会学科でなにをやるのか。で、ジャーナリズムというのは、とりあえずこういうふうに考えて欲しい。ジャーナリズムっていうのは学問だじゃない。ここでいう学問はね、厳密な方法論にしたがって、あるいは科学的手続きに従って、実験を繰り返す人たち、またあるいは現実の社会の運動、いまなにをするべきかというところから、すこし距離をおいて、私はいまの世の中がどういう流行を持っているか、あるいは地球温暖化について、大騒ぎをしているかしていないかに関わらず、「ドライアイスの研究をしています」というような人たち、そういう学問をする必要はないです。ないけれども、みなさんは地球温暖化が何であるかを、普通の人たちに説明できる程度の言葉を持たなかったら、やってられないですよ。どうしたら説明できるようになるか? 簡単です。勉強してください。で、分からないことは人に聞きなさい。ものよっては教えてくれるかもしれないです。それはそれでかまいません。しかしね、おおくの事は自力でしか勉強できません。だから勉強するんだよ。分からないことは分からないでいいからね、でも、分かるように勉強するんだよ。人に聞いたことを、よく分からないままにつぎはぎしてレポートを書いて、できあがりってのだめだよ。自分が分かったこと、分からなかったことを書くんだよ。
■ジャーナリズムは厳密である必要はないが・・・
中尾ハジメ:それから、ジャーナリズムは厳密主義ではない。けれども、うそを付いたらダメ。論理性がなければダメです。かっこの良さそうな言葉を並べるだけではダメ。あれをしてはいけない、これをしてはいけない、ということはありますが、厳密である必要はありません。科学なら求められる、絶対しゃべってはいけないこと──「こうかもしれない」とか「ああかもしれない」とか、「そうにちがいない」とか──そういう言い方をジャーナリズムはできるんです。ただし責任を持って言わなければいけませんよ。科学ならば厳密に言えることしか言えない、っていう世界があるんですね。原子力事故で、何かの被害が起こったと言うことを科学的に言うことはほとんど不可能です。むつかしいです。僕がガンになって死ぬとするでしょ? それは仮に僕が放射線にあたったから死ぬとしても、「いつあたったんですか」とかいわれちゃう。そしてこれはいまの科学ではたどることは不可能です。しかし、ジャーナリズムはその厳密性にとらわれずに──でたらめは言っちゃいけないけど──自分が記事を作るんだったらできるんです。間接的な取材はダメだよ。覚えておいてください。自分はわかってもいないのに、分かったふりをして書くのはダメです。たしかにここでまた厳密に言えば、どこで線を引いていいのか分からない、ということになるかもしれません。その問題は、あまりに自信がないときには、「わたしには自信がないのですけれども、Aという人がこのように言っていました」というように書くことができます。で、Aというひとと、Bという人の言明がまったく違うときには、取材をしている私は、どちらだか分からないということを言うことができる。政府の役人であるとか、科学者であるとかのなかに、矛盾があることをジャーナリズムは表現をすることができます。しかしそれもみなさんがそういう「矛盾」に関心がなければできないですね。でね、情報ってのはね、答えではないんです。みなさんが流す情報も答えである必要はありません。しかし、責任は持たなければならない。一生懸命やらなければならない。責任を持つっていうことは、これはたとえば、「長澤智行が書いた記事だよ」って堂々と書けるっていうことだね。当然のことでしょうけども、ある記者は、「優れた記事を書く」という評価を受けます。またある記者は「こんなくだらない記事を書く」という評価を受けます。それは仕方がない。だけども決定的な問題は、みなさんが受け売りをしたり、あるいは誰かが言ったことをそのまま書き写したりするのはダメ。失格。でね、みなさんがもし仮にジャーナリストじゃないとしても、このジャーナリストの基準を持つとしたら、みなさんは立派な人間だと思います。まとまりがある。ああ、これは誰が書いた文章だか分かる。そういうふうにしてください。
というわけで1600字。この1600字という制限をあまりバカにしないように。実際の社会活動の中では、限られたスペースにまとまったことを書かなければいけないんです。でね、それは「私が書いたものだ」と誇りを持って言えるようにしてください。来週までだからね。で、みなさんは何となくこういう約束をバカにして、一週間くらい待ってくれるだろうと思っているでしょうけど、まちませんからね。来週はまた次の課題がでるんだからね。
授業日: 2001年6月26日;