■戸坂潤のジャーナリズム論をめぐって
中尾ハジメ:レポートを持ってきた人は出して下さい。いま出せない人は、今晩中に出すように。今日の資料は、『戸坂潤全集 第4巻』(勁草書房)の抜粋、それから『第3巻』の抜粋です。さて、露崎さんいるかい? お、いるね。戸坂潤がいったいどういう人か、調べてきたよね? あなたが書いたものと、今日の資料に書いてあることは、どこか関係があるなっていう感じがありますか? ほかの人も、戸坂潤については調べたよね。ちょっと考えながら読んでみて下さい。読みながら気になったところとかは、ノートにチェックしておくんだよ。露崎さん、どうですか? レポートになんて書いたか覚えてる? 正確じゃなくていいんだよ。
露崎:戸坂潤はマルクス主義で、唯物論研究会を作った中心人物。
中尾ハジメ:で、ジャーナリズムについて何を言ってるの?
露崎:科学的な精神。
中尾ハジメ:ん? 科学的精神? ジャーナリズムについてそう言ったの? じゃあねえ、第3巻を見てくれるかな。145ページ「アカデミーとジャーナリズム」。148ページも見てくれるかな。
ジャーナリズムの住む世界は日常的・社会的・外部的時にまた卑俗的である。そこでは非常時的な・個人的な・内面的な・時に高遠なものは平均されて了っている。だからジャーナリズムを運んでいる精神的な力は、人間の平均的な知識・日常的知識・常識だと考えられる。それは時に人間の健全な良識を意味する。とに角そこでは専門的な知識は一応不要であり、又時に有害でさえあるだろう。常識は通俗的という意味に於いても知れ渡るという意味に於いてもポプュラーであることが出来る。かくてジャーナリズムは公衆(public)によって支持されるのである。
むつかしいねえ。ともかくも彼はそういうことを考えたんですね。どうも、常識というものにつながっているらしい。それから、タイトルに「アカデミーとジャーナリズム」。これは、性格が違うんだね。まあ、わからなくていいよ。今わからなくてもいいけど、見ておいてね。それから、露崎さんが言った「科学」との問題にもふれてるから見ておいてね。こんなややこしい文章ですが、ところどころ面白いでしょ? 「幼稚なのは健全だ」とか書いてありますね。だから興味があったら情報館で見て下さい。
では第4巻『ジャーナリスト論』という方を見てくれる? さて、いろんな事が書いてありますが、156ページをご覧下さい。「ジャーナリストという観念に就いても全く同様で、」って、何と「全く同様」なんでしょう? この前の部分を読むと分かるんでしょうが、ちょっとそれをとばして、「元来から云うと、一切の人間が、その人間的資格に於いてジャーナリストでなくてはならぬ。人間が社会的動物だということは、この意味に於いては、人間がジャーナリスト的存在だということである。」・・・と、書いてある。戸坂潤という人はこんなことをいろいろ考えた人だね。さて、文章の最後に何年に書かれたものかっていうことは書いてあるね。で、今読んだやつは、1935年ですね。いいかい? で、「アカデミーとジャーナリズム」ってのは、これは実は『現代哲学講話』ってやつの一部です。したがって、文章の一番最後を見ても何年のものかはわかりませんが、1933年──ちょっと書き直しをしていますね──1933〜1934年に書かれたものです。その時代にはすでに「ジャーナリズム」という言葉が使われていました。みなさんがどういう使い方をしているかとは別かもしれませんが、いまでも、大学にいる僕らはジャーナリズムという言葉を使っています。その「ジャーナリズム」ということばは、たとえばこの戸坂潤という人が問題にしたような「ジャーナリズム」だと思ってやってるんだよね。
長澤智行:え〜っと。俺達は、これから戸坂潤の「ジャーナリズム」を勉強するんですか?
中尾ハジメ:なんだって? 戸坂潤のなんだって?
長澤智行:戸坂潤の、戸坂潤の、戸坂潤の何だっけ?(笑い)
中尾ハジメ:なにをいってんだよ(笑い)。え〜、戸坂潤のジャーナリズムが絶対で、これを守らなきゃいけないということは言っておりません。だけれども、まあ考えてね。
さて、それから、ほんとにレポート出さなきゃダメだよ今日中にちゃんと提出しなよ。短い時間で書くっていうことは、お粗末なものができあがるってことだけど、でも、ださないと単位もないよ。(笑い)
■学生がつくった紹介文を読む
中尾ハジメ:みなさんが、先週、提出したレポートのコピーを配ります。そのレポートの中からいくつか──「選んだ」っていう言い方はちょっとあたらないかと思うんですが──サンプルをこういう風にして並べてみました。それでね、「これはあたしのだ!」とか言わないでね。まず黙って読んでね。
(コピーを配りながら)戸坂潤の文章は、みなさんにはたいへん難しいと思います。難しいから、それがすんなり理解できなくても、「俺は頭が悪い」なんて思わないようにね。でも、読んでたらきっと面白いことが書いてあります。
(コピーを配り終わって)一枚目はですね・・・、まず荒畑寒村の『谷中村滅亡史』を、200〜400字で、同じ年頃の大学生に紹介するってことでしたね。6人分ここにあります。2枚目には同じように6人分、ヴィクトル・ユーゴー「怪物の腸」ですね。3枚目は柳田國男の『火の昔』の一部、「漁樵問答」ですね。ここには7人分あります。4枚目はミシュレの『海』。これは8人分載っています。で、一番最後エドワード・ウィルソン『ナチュラリスト』。これは5人分です。自分のが載ってなくて残念だと思う人がいるかもしれませんが、全員載せるのがたいへんだっただけのことです。他にも良いものはたくさんありました。ここに載っているのは、たしかに良いものなんですが、どういうふうに良いのか、ってことを考えたいと思います。
いま配った表にはA、B、C、Dと書いてありますが、これはAさん、Bさん、Cさん、Dさんってことだね。『谷中村滅亡史』の紹介ではAさんが、1番の紹介をしています。わかるね? それから柳田國男の「漁樵問答」では、Aさんは6番を書いています。Dさんは、どれを書いたか全部分かってるね──荒畑寒村の『谷中村滅亡史』では4番、「怪物の腸」は2番目、「漁樵問答」では7番目となっています。斜線の入っているのは、該当する人がいないということです。さあ、ちょっと読んでもらえるかな? これらの紹介文、全部読んでみてください。あ、ところどころですが、もしかしたらもとのものより悪くなっているかもしれませんが、少し僕が手を加えているところがあります。じゃあ10分くらいで。配付された資料を読む
読んだかい? そしたらね、A〜Jまで何人かの人がいますね。「怪物の腸」1を書いた人は、誰だと思うか、見当をつけてマスの中に書き込んでくれるかな? おっと、相談したらダメだよ。自分でやって下さい。
いろんな方法があると思います。非常に表面的なことを手がかりにすることもいいでしょう。点を付ける位置だとか、表題の付け方が似てるな、とかでもいいです。普段、僕たちはそういうふうにも判断します。しかし、よ〜く読んでみると、もうちょっと深いことで誰だか分かるかもしれないね。ゆっくりやっていいよ。何回も読み返していいんだからな。
さあ、じゃあ、ひとつづつやっていこう。本当はみなさんは、頭の中ではひとつづつやっていなくて、いろんなところを見渡しながらやっているに違いないんですが、わかりやすくやるためにひとつづつやっていきますね。
『谷中村滅亡史』の紹介文のなかで、「毒をもって毒を制す」を書いた人は、ユーゴーの「怪物の腸」の紹介文のなかではどれを書いた人でしょう? 手をあげてもらおうかな。Aに入ると思った人いる? お、いない。ゼロだね。Cに入ると思った人は? 17人。Eは? 14。Fだと思う人。いないね。Gは? いない。と、いうことは、Cに17票。Eに14票。わずか3票の差でしたが、Cが正解です。どうしてそんなことが分かるんでしょう? どうして正解するんでしょう?
CとDが確定しました。さて、じゃあ、3の人の「その思い、『腸』のように」・・・どういう意味だろうね、このタイトル(笑い)。なんだか複雑な気持ちなのかねえ? さて、じゃあ、採決しますか。Aだと思う人? 1、2、3….14票。Eだと思う人? 1票。Fだと思う人? 5票。Gは? 10票。Aが一番票を獲得していますね。で、この正解もAです。あと三つあります。
じゃあ、4「かいぶつのはらわた」。わざわざひらがなで書かれていますね。どこに入るでしょうか? Eだと思う人? お、圧倒的多数。数えるまでもないね。当たりです。
5番目「生み出されし怪物たち」。どっちに入るかな? Fだと思う人。5人だね。Gだと思う人、おお〜、圧倒的多数。正解です。よって、Fは6番、「放埒にして豪奢なる都への地下の皮肉者」、な〜がいタイトルだねえ(笑い)。これで、全部埋まりましたね。
いまやった方法は、一見「多数決」という方法のようですが、本当は多数決じゃないですね。考えてみて下さい。手をあげてもらって、数えてみました。でも、当たってたんだから、多数決じゃないよね。で、みなさんは何を手がかりにしていたのか。自分で当てることができた人たち、その人たちはいったい何を手がかりにして当てたんでしょうか。それをノートにメモして下さい。いわくいい難いと思った人は、「いわくいい難い」と書いてくれればいいです。
■どうして、「誰が書いたものなのか」をわかるのか?
中尾ハジメ:さて、「何を手がかりにしているのか」を少し考えてみて下さい。そのことに関係のある話をします。「そのこと」っていうのは、実は先週の問題提起にも関係があります。それからこの「環境ジャーナリズム」で、一番最初から問題になっていた、「客観的事実と主張」という、なんとなく両方に意味があると思われるし、矛盾するようにも感じる、この問題意識にもつながります。斎藤さんと清水さんだったかな、他にも何人かいたかもしれませんが、ひとつの問題は、「伝える」とか「直接的か、間接的か」ということでした。で、「伝える」なんて言うと、「ああ、伝えるっていうことは、間接的ってことかな」なんて思いますね。「伝聞」という言葉があるくらいです。そして、社会の中のある場面で「伝聞」という言葉の意味するところは、「信用ならない」ということです。ある場面ではね。だけど、人から聞いたことを伝える以外に、何か僕らにできることがあるだろうか、という感じもしますね。というのは、たとえば、情報という言葉を使った場合に、「純粋に自分自身の情報」なんてあるだろうか。そう考えると、やっぱり「伝える」ってことは何だろうな、と思ってしまいますね。これがひとつ。そしてもうひとつは「間接」だとか「直接」とかいう言葉を使って、ジャーナリズムを表現することができるだろうか、という問題です。じつは、ジャーナリズムだけじゃなくて、僕らはしゃべったり、書いたり、演技したりしますが、それを「間接」だとか「直接」という言葉で上手く整理できるだろうか、という問題です。さらにもうひとつの問題は、「倫理」あるいは「倫理性」という問題です。ジャーナリズムを担う人は、あるいはジャーナリストは「高い倫理水準を求められる」、という意見がありました。これは間違ってるとは言えないんです。言えないんですが、「なんで?」という感じもします。「ジャーナリストでなければ、倫理水準は低くてもいいのか?」という問題がありますね。大きく分けていったら、3つ、いや4つの問題かな。これはみなさんがぶつかってきた問題ですね。そして、未だに答えは出ていません。そしてこれから答えが出るのかどうかも分かりません。
しかし、ちょっと考えてみよう。考えるひとつの手がかりはですね、いまみなさんが手元に持っていて、「ああ、これはAさんが書いたに違いない」とか、判断しながら読んだこと、あるいは判断そのもの、あるいはそういうふうにみなさんに判断させたもの。それはいったい何なのか? ちょっとむつかしいかな。でも、みなさんは当てちゃったんですよ。『谷中村滅亡史』で1を書いた人は、「怪物の腸」で3を書いた人だって分かる。それはなにによるのか? どうやってわかるのか、ということです。ついでにいうと、そうでないものもいくつかありました。つまり、誰が書いたのか分からない。「誰が」っていうのは固有名詞じゃなくて、僕が読んだときに、いったいこれはどういう人が書いたのか分からない。そういうものもありました。
で、そういう問題を指して、仮にこういう風に言ってみたいと思います。「人柄があらわれている」とか「まとまりがある」。そのまとまりというのは、必ずしも起承転結のことではありません。その人の輪郭が見える、あるいは紹介文がひとつの輪郭を持っている、そしてその輪郭に個性がある。かたちがみえる。「かたち」、「すがた」です。こういういのを難しい言葉で言うと、「ゲシュタルト」とか言ったりします。もちろん、そのまとまりは「ああ、こりゃ変人だな」というようなものかもしれないね。ある意味でいうと、とらえどころがない、「かたち」「すがた」があり、それなりの個性があり、ある人が書いたということがよく分かる。
■「伝言ゲーム」 VS 「情報は創造される」
中尾ハジメ:さてそれで、ちょうどそれに対照させられる世界の話をしたいと思いますが、みなさんは「伝言ゲーム」ってのをしってるでしょ? 「伝言ゲーム」には、「あるルール」があります。ルールがないと「伝言ゲーム」にならない。その「あるルール」とはなにか? 日頃、僕たちが使っている多くのものを排除して、たったひとつのことに目的を絞ります。Aさんの言ったことを、Bさんがそのまま繰り返して言う。まったく同じ言葉遣いを使えば──語調も変えず、「てにをは」もそのままに──確実に最後の人まで伝わる。伝わったら正解。しかしこれは、ほぼ必然的にどっかで間違うに決まっているんですね。間違わせるようにルールが作ってあるとも言えるし、そんなこと言わなくても、人間てのは間違えるもんなんです。それで、その間違いがおこるのがおもしろいから、「伝言ゲーム」ってのがあるんです。そして、それはそれだけの世界なんです。
でね、よ〜く考えてみて下さい。みなさんは伝言ゲーム的な勉強をしていませんか? で、もし、自分がしている勉強が伝言ゲーム的だと思ったら、みなさんは絶対にいい成績がとれるはずがないんです。やめたほうがいい!(笑い)不可能なんですよ。僕が言ったことそのままをノートに書くとかね、レポートに書くとか、そんなことは絶対にできない。長澤君は、長澤君のかたちでしか書けない。自分のかたちを出すしかないんですよ。
それで、伝言ゲーム的な世界を「情報の劣化」といいます。「情報は劣化する」。つい最近までね、この「情報は劣化する」っていうのが、情報理論のいちばん大切な原則だった。「劣化する」、つまり伝言ゲームです。さて、じゃあそれがちょっと前までは情報理論の重要な原理だったとして、いまの情報理論はどうなっているのか? いまの情報理論の人たちも、あいかわらず「情報は劣化する」といっている節もあります。しかしそうでない勢力もあります。「情報は創造される」、「創られる」。creationですね。
「情報が創られるって、誰が創るの?」という問題がありますね。これが斎藤さんが提起した問題だね。斎藤さんがそのことを言ったときには、斎藤さんに答えはなかった。そして僕たちにも答えはなかった。「誰が情報を創るのか?」。伝言ゲームでは、情報が創られないって事が大切なんです。情報がつくられたら伝言ゲームになりません。伝言ゲームは情報を創造しないのが、ゲームの規則なんです。
くりかえしていいますが、もしみなさんが勉強をするって事が、伝言ゲーム的世界だなと思ったら、これは悲惨です。なぜか? 情報は劣化してしまうからです。
それで、ここにはこんな風に書きましたが、自分と世界とは、便宜的に分けることが出来ます。しかし、みなさんが「私が何か問題を感じている」と考えたときには、それは世界のことであっても、自分の問題なんだよね。わかりにくい? でも、そういうふうに考えましょう。そういうふうに考えられないときに、つまり自分の問題だと思えないことを人に伝える。それは伝言ゲームの世界です。もし自分が、自分の問題だと思っていたら、こう話そうとか、いろいろ考えるでしょう。伝言ゲームの世界は絶対にそうならない。伝言ゲームの世界では、Aさんの時点で、これだけの情報があれば、Bさんの段階には、雑音──noiseですね──が入ってくる。で、Cさんの段階には、もっと雑音が増えた状態になってしまう。こうやって「情報が劣化する」。だから、中尾ハジメっていう悪いやつがいて、環境ジャーナリズムっていう訳の分かんない授業をやっている。でも、中尾ハジメのしゃべっていることを、みなさんが正確に覚えようと思ったって、出来るわけがない! 絶対に劣化します! やめよう!(笑い)
でね、みなさんに見てもらった、みなさんによる紹介文。これは水準が高いんです。何で高いのか考えましょう。つまりね、みなさんが読んで、すがたかたちが分かる程度に書けていたんです。ひとつはね、分からないことを分からないと認めて書いている。自分の分かったことを書いている。あるいは、自分が言えそうなことを書いている。言えそうにないことは書いていない。どうしてそういうことができるのか? じつは普段からやっているんですね。なのに勉強となると、「あ、伝言ゲームだ。おぼえなきゃ」ってなってしまうんですね。でも、「伝言ゲームじゃないんだ。好き勝手に書いていいんだ」なんて言ってる人も単位は取れないけどね(笑い)。
さて、板書してありますが、宮川の中に何か正しい情報がある。で、これが、なんかの方法によって中尾に伝わる。情報が劣化する社会であれば、どうせ中尾のしゃべり方が悪いとか、宮川の話し方が悪いとかいう問題にしかならないですね。しかしですね、中尾や宮川が生きている世界ってのは、本当にこういう世界でしょうか? 多分、図に描くとねどうしてもこうなっちゃうんですよ。人がふたりいて、それぞれが情報を持っていて、それをやりとりしている。こういう風に描けちゃう。で、こういうことを指して「間接」っていったりするんです。でもね、考えてみたら、中尾ハジメの持っている情報は誰から来たの? 誰かから来てるに決まってるじゃないですか。つまり、俺達はみんな「間接」だということになるじゃないですか。こういう図を描くとそういうふうにしかならないんです。しかし、いくらダメな図だとしても、こういう図を描かないと表せないんです。しょうがないんです。なかには、とりわけ情報理論の人たちには大間違いする人がいます。メディア──媒体・媒介物といいますが──があって、それが人と人との間にある。新聞、その他の出版物、テレビもそうだし、インターネット、電話もね。なるほどなるほど。電話は時々聞こえなくなったりしますね。あるいは別な信号──妨害電波──が入ってきたりしますね。とかんがえると、そこで情報が劣化するって事はあるかもしれません。でもね、よ〜く考えてみて下さい。ほんまにそんなんでいいのか? もちろん、物理的装置については情報が劣化するって言えます。ほんとに聞こえないんだものね。だけども、「ジャーナリズム」という人間の働きについて、そういうことがいえるかどうか、それが肝心です。さて、ジャーナリズムとはいったい何なんでしょう?
■なぜよい紹介文なのか?──「統合力」あるいは「主体性」が見えるということ
中尾ハジメ:で、次の問題。なんでみなさんが読んだものは紹介文としていい紹介文なんでしょう? 良い紹介文だということは言いましたが、何でよいのか、ということについてはまだ言ってませんね。その紹介文は、同じ資料の紹介でもそれぞれ違うことを言っています。紹介っていうのはそういうふうにしかできないもんでしょう。みなさんが人間を紹介するときに、お互いを紹介しあうときに、どうやって紹介しますか? で、一番ひどいのはね、履歴書持ってきてね、「○○小学校卒業」とか、あと会社名を書く「職歴」。こんなのはくっだらないですね。人間の紹介にならない! しかし、たまには、履歴書であってもこの人はある時代に共産党員だったというようなのが意味を持つかもしれない。その紹介によって、その人の輪郭が分かることもある。ゲシュタルトが分かることがある。これが重要です。ゲシュタルト、すがたかたちを、創る力がある。統合力がある。これが重要なんです。で、統合する力は知能指数や、記憶力じゃないです。でも、あんまり記憶力ないとたいへんだけどね。僕なんかもうだいぶ統合できなくなっています(笑い)。だけど、この統合する力って何でしょう? それを主体性というんじゃないでしょうか? 何かを言おうとすること、そのことによって統合しているんじゃないでしょうか? 言い方を変えたらね、言ったことには責任を持つってことなんです。Aさんが言ったことっというのをね、「あれはAさんが言ったことで、わたしはAさんの言ったことをただ繰り返しているだけです」っていう場合は、統合力をあまり持てない。絶対に同じことは言えない。劣化するんだもの。統合力を持つっていうのは、「私は私の責任をとります」ってことなんです。ときには「うそをつかない」とか、逆に言えば「うそをつく」とかね(笑い)。でもそれは、なにか? これは倫理の問題だね。しかし、倫理っていうのは、「あれをしてはいけません、これをしてはいけません」というルールに従うことにすぎないなんて思っているひとは、統合力を倫理だなんて思わないでしょうね。
それから「くせ」っていうものもありますね。かっこよく言うと、「スタイル」とか「文体」とかいいますね。で、「くせ」っていうと悪く聞こえるかもしれませんが、でも「くせ」なんです。「手口」なんです。自分が使い慣れている方法で、それによってまとまりをつくるんです。ある人がね、体言止めを多用するとしたら、それは字数を少なくするということだけじゃなくて、それが自分の方法になっている。そういう人はいます。だから自分の手口を持たなきゃいけない。それは「統合しよう」と思わなかったらできない。それは中尾ハジメとかなんちゃらっていう外的な権威によって、自分が振り回されないこと。わからないことは、わからない。それが大切だと考えることだね。あるいは、自分なりのわかり方をして、問題に向かうことです。で、「くせ」はね、ふつう「おまえは悪いくせをもっている」なんていうでしょ。たいていの「くせ」は、いい「くせ」です。ただ人に迷惑かけるのはよくないけどね(笑い)。「くせ」が悪いとされるのは、一方向的な正しさを伝えていかなきゃいけないよというときに、その「くせ」が発揮されると、劣化が早く起こっちゃうからだね。劣化が起こるということを前提にした世界に住んでいたら、劣化しか起こらない。
自分で考えて、その考えたことを人に伝える。そしてお互いに伝えあうってこと以外に、勉強の方法もないんです。ジャーナリズムの方法もないと思います。私はね。
そういうふうに考えると、戸坂潤はいいこと言ってるなあと思うんです。しかし何でとりわけ「ジャーナリズム」なんでしょう? 一人ひとりが普通にやっていること、それがジャーナリズムだとしたら、何で「ジャーナリズム」なんて言葉があるのか? というような問題が残ります。
さて、2週間後にみなさんが提出しなければならないことについて今から言います。レポートはあと2回提出してもらいます。次回のレポートは提出は2週間後です。これに間に合わなければ、今回は受け付けません。
いままで資料として、みなさんに見てもらったものがあります。そのうちのどれをつかってもかまいません。あるいは、見せていないものを使ってもかまわない。本とかね。雑誌はすこし遠慮してもらいたいと思います。単行本になっているもの、それからいままで提示した資料。たくさんありますね。中には中尾ハジメが書いたものもありました。マルクスのなが〜いものもありました。
で、そういう資料の中から、何点でもかまわない。どれだけ使ってもかまいませんが、ひとつのタイトルのもとに批評を書いて下さい。言いかたを変えると、紹介文でもかまわない。わかったね。
長さ、1600字以上。わかったね。
学生:「以上」はわかったけど、「未満」は?
中尾ハジメ:なに?
学生:1600字以上、何文字までですか?
中尾ハジメ:・・・。
学生:・・・。
中尾ハジメ:・・・。はい、今日は終わり!(一同笑い)
授業日: 2001年6月19日;