このさし迫った破壊に対する警告は、熱帯雨林から遠く離れたところに住む人々によって特に声高に発せられた。雨林をかかえる国では、森林周辺に住む小農は土地不足に苦しみ、政治家は木材を早く売ることで緊急の経済問題を緩和しようともがいている。これらの人々にとっては、自分たちの森林は消滅させたうえでうえで産業革命を行ってきた遠くに住む人々からの説教や嘆願は、暴力とも受け取れるものである。ブラジル人、マレーシア人、西アフリカ人、パプアニューギニア人は、豊かな国々がその領土内にあるわずかな雨林をどのように扱うのかを目をこらして見つめていくにちがいない。──デイビッド・アッテンボロー
『最後の熱帯雨林』(同朋舎出版1993) マーク・コリンズ 編集 * 上の写真も同書より
荒畑寒村、ユーゴー、ミシュレ、エドワード・ウィルソン、柳田國男・・・。そして現代、その様々な視線を受け継ぎ成りたつ「環境ジャーナリズム」がある。マーク・コリンズ編、デイビッド・アッテンボロー序の『最後の熱帯雨林』という図鑑的な一冊をひとつの典型として紹介する。写真の使用をはじめ、現代の出版技術が可能にした百科全書的ジャーナリズムは、編集者たちの明確な問題意識と主張を通して熱帯雨林の世界をわれわれに見せてくれる。
■重なり合う視線
中尾ハジメ:え〜と、じゃあ、はじめますね。先週紹介をし忘れていたものがありました。柳田國男という人が書いた『火の昔』から取り出した部分です。これは、全集の中に収録されているものからの抜粋です。皆さんに提示しているものには、第21巻内容細目、「子供風土記」から始まって「村の姿」で終わっている目次があります。全集は「定本 柳田國男集21巻」(昭和42年)です。柳田國男がどういう人であるかは、皆さん調べてきて下さい。さて、「漁樵問答」と書いてあります。「漁樵」の「ぎょ」は「漁師」の「りょう」です。「しょう」は「木こり」ってことですね。つまり魚を捕ってる漁師と木こりが問答をするという意味だね。どうして、この資料を提示したかと言いますと、マルクスのライン新聞の記事「木材窃盗取締法に関する討論」に関連して、知っておいて欲しいことが書いてあるからです。柳田國男はこの文章以外にも、山ほど同じようなテーマで、いたる所に書いています。興味があれば調べてみて下さい。さて、島崎藤村の本がありましたね。『夜明け前』です。その一部を資料にしましたが、あれにも、マルクスのライン新聞の記事につながるような問題が描かれています。マルクスのライン新聞の記事、これはドイツの話しだね。ヨーロッパです。時代は、1840年くらいだね。柳田國男が「漁樵問答」に書いている日本の風景は、必ずしもいつということははっきりしません。しかし、今のような日本の形ができる以前のことであるのは間違いないし、柳田國男がこれを書いたというか発行したのは、昭和19年の7月ですね。ということからもわかるように、ずっと以前のことが書れたものなんですね。で、ライン新聞の記事と、柳田國男の書いた「漁樵問答」が関係があるよ、と言いました。それから、島崎藤村の『夜明け前』が関係があるよとも言いました。ですから、みなさんはどのように関係があるのかを読みとって下さい。しかし、読みとり方はみなさんそれぞれごとにあるものですから、自分が読みとったものについて、考えて下さい。と、いうことだね。
で、ジャーナリズムとは何かってことで、みなさんは大騒ぎをしておりますが、ぼくにはどうしてみなさんがそんなに大騒ぎをするのか分からない(笑い)。たとえばですね、新聞に書くということがジャーナリズムだとすれば、それはマルクスがライン新聞に2日に1回とかいう勢いで「木材窃盗取締法」について記事を書いた、これはまちがいなくジャーナリズムですね。それから比べると、島崎藤村なんて何年もかかって書いてますね。7年かかってひとつの小説を書く。これは仕事のスピードから考えるとジャーナリズムということから少しはずれると考える人もいるかもしれません。しかし、『中央公論』に連載してたんだよね。それから取り上げたテーマが必ずしも現代、いまをとらえていないということを言えば、たしかにライン新聞の記事とはいささか様子が違ってきます。しかも「小説だ」なんて言われたりしますね。そうするとやっぱり、ジャーナリズムじゃないんかな〜という感じにもなりそうですが、しかし「小説」ってのは、嘘を書くもんなんですかね? そういうことでもないと思うんです。実際に今の長野県、信州では、ここに描かれているようなことが起こったのですね。こういうことも押さえなければなりません。(歴史ジャーナリズムといったって悪くはない。)
柳田國男というのは、たとえばこの大学でもし柳田國男を教えるような授業があるとすれば、「民俗学」というところに分類をされるでしょう。たとえばね。「じゃあ民俗学なら、ジャーナリズムじゃない」なんてみなさんは言うかもしれませんが、そんな心の狭いことを言わないでね(笑い)。マルクスのライン新聞の記事とは、明らかに雰囲気が違いますが、しかしとてもつながっていることは読んでもらえれば分かることと思います。
それから、エドワード・ウィルソンの『ナチュラリスト』なんてのは、環境社会学科のなかでみなさんが盛んに使う言葉を使って書かれています。だよね? だけど読んでみたらすぐに分かるように、ミシュレの『海』とつながってるでしょ? そういうことを読みとって欲しいです。つながってはいるけれども、大いに違うと言えば、大いに違いますね。どういうふうに違うのかを、みなさんは自分でとらえて欲しいと思います。わかった?
■宿題──自分たちと同じ大学生に向けて書評を書く
中尾ハジメ:来週までにレポートとして提出しなければならないことをこれから言います。(教室どよめく)
よく聞いて下さい。みなさんに提示した資料のうちから5点、『谷中村滅亡史』、「怪物の腸」、ミシュレの『海』、柳田國男の「漁樵問答」、ウィルソンの『ナチュラリスト』の最後の部分。それぞれについて、200字から400字で紹介を書いてきて下さい。みなさんと同じような大学生に向かって、この本にはこういうことが書いてあるよ、こういう風に面白いよということを書いてきて下さい。各々200字から400字だよ。書くためには、まず読まなけりゃいけない。ジャーナリストってのはこういうこともするんだよね。来週のこの時間までに書いてくるんだよ。質問ある人いる? これで3回目のレポート提出ということになっています。
レポートはあと2回提出してもらいます。一番最初は『谷中村滅亡史』のときね、つぎは「怪物の腸」。で、先週は戸坂潤とか長谷川如是閑がどういう人か調べて来いということでした。これは1回にカウントしません。採点にも含まれません。でも提出はして下さい。
今回のは、書くのは楽だよね。1件について200〜400字だものね。ぼくも楽しく読めそうだしね。コピーライティングという言葉もありますね。でもね、コピーライティングということですと、クライアント(雇い主)が、たとえばある商品を宣伝してくれとコピーライターに頼むんですが、そのコピーライターにもね、まあ、適当に書きゃあいいいだろうという人とね、しっかり商品を見て書く人の、2種類います。
しかし、違う言い方もできます。「書評」ですね。非常に短いですけどね。当然、みんな同じこと書いてたらダメなんだよ。「俺だったらこう書く」とか「俺だったらこう売る」っていうのを出さなきゃいけないんだよ。その中に取り込む要素はいろいろであると思いますが、タイトルなんかについてもしっかり考えてね。200〜400字しかないんだから、たとえばタイトルに「マルクス」なんて言葉があれば読む人は、それも手がかりにして分かるんだから、また本文の中で長々と説明したら、200字なんてあっという間に終わっちゃうからね。人が「読みたい」と思うような書き方を工夫して下さい。
でね、そこまで言われたらあることに気が付くと思います。昔のことを自分たちは知りません。ましてや、19世紀のパリがどういうところであったかを知りません。知らないだけじゃなくて、そんなことに関心を持ったこともないかもしれません。だけど、「怪物の腸」って作品はあるんですよ。いろいろなことを知らない自分は、どうやって紹介をしようかっていうことを知恵を絞って書いて下さい。たった5本だからね。1日1本書いたら、5日で終わる(笑い。教室内の学生は「え〜」と、やや不満げ)。でも、考えてごらん、新聞記事を書く人たちがどんなにたいへんか。こんなもんじゃないですよ。ま、がんばってね。
■熱帯雨林とは
中尾ハジメ:さて、今日の資料を見て下さい。みなさんはこの授業だけじゃなくて、山ほど勉強してるでしょ? どうせたくさん資料があるでしょ。方法はいろいろあるけど、そういうのはちゃんとファイルをしてね、後で使えるようにしてね。紙屑にしないように。
今日の資料はですね、こういう本があります。『最後の熱帯雨林』というタイトルですね。もともとは英語です。The Last Rain Forest. といいます。ご覧のようにですね、ほとんど写真。本屋さんによっては、こういうのは写真集に分類されちゃうかもしれない。でも、これを作った人たちはこれを写真集に分類して欲しくないでしょう。この本はたくさんの人によって作られていますが、マーク・コリンズという人が編集をしています。みなさんはマーク・コリンズがどういう人か知らなかったでしょう。多分マーク・コリンズあるいは出版社はこのままでは本が売れないと考えた。で、デイビッド・アッテンボローという人に序文を頼んだんだね。そうするとですね、表紙に、「デイビッド・アッテンボロー 序」、デイビッド・アッテンボローが序文を書いているよ、と載るわけですね。で、みなさんの手元にあるのは、その序文です。わかった? デイビッド・アッテンボローはどういう人だか分かる。岸本君。
岸本智史:まったく知りません。
中尾ハジメ:岸本が知らないんじゃ、誰も知らないな。知ってる人いる? みんな調べておけよ。この人はたくさん映画を作っています。テレビの作品も作っています。動物の生態だとかね、盛んにそういうことやってますよ。では、序文に目を通して下さい。5分くらいでいいかな。
<『最後の熱帯雨林』のデイビッド・アッテンボローによる序文はこちら>
読んだね? 先ほども言いましたように、デイビッド・アッテンボローは映画を作る人です。映画監督・・・ではないのかな? で、この序文ですが、「学問的な本の序文」というわけではないですね。じゃあ、まったく学問的でないかというと、そうも言えないですね。目次をちょっと読んでみます。
<しばらく『最後の熱帯雨林』の目次を例に引きながら解説をする。目次の紹介中に「プランテーション」という単語がでてきて、その言葉を学生が知っているかどうかをたずねましたが・・・>
学生:聞いたことしかないんです。意味はよく分からない。
中尾ハジメ:う〜ん、聞いたことしかないって人は、ちゃんと調べておこうね。
え〜、それから、「国際協力」であるとか、いろんなことがかかれていますが、繰り返して言いますが、熱帯雨林を保護するということについて、現実的には何が出来るのかということが書かれているんです。そういう本なんです。これは。
さて、ご覧のようにきれいな写真がたくさんあります(本を提示して学生に見せながら)。いいねえ。みなさんが見ている資料は、この本の序文なんですね。で、この序文を書いたのが、デイビッド・アッテンボローなんです。で、みなさんは知らないかもしれないけど、彼はものすごく有名な人なんです。さて、みなさん読んでもらって、「おかしいな〜」とか「あれ、こんな過激なこと言っていいんだろうか」とか、あるいは「これはちょっと間違っているんじゃなかろうか」とか思いませんでしたか? そう思わなかった人は、もう一回そういうつもりで読んでみて下さい。
先週、環境問題というのは、追求しなくてもあるんじゃないのか。あれこれ考えることなどしなくても、そこにあるものなんじゃないかという意見がありました。そういうふうに言えなくもないんだと思うんですが、しかし「熱帯雨林をどう考えるか」という具体的な問題に練り直したときには、まず熱帯雨林がそこにあることを我々は知らないという大問題があります。仮にある方法で知ったとしても、その熱帯雨林であるとか、熱帯雨林が破壊されているということをどう捉えるかってことは決まっていないんです。あるいは、「熱帯雨林がどれくらいの炭酸ガスを吸収しているか」ってことを問題として取り出してもいいでしょう。しかし、誰がそれをどうやって調べるんでしょう? で、温暖化。これを防がなきゃいけないってことで、国際的な取り組みをしましたね。京都議定書です。温暖化防止の方法についていろいろなことが京都会議の時に決まりました。「柔軟な方法を使おう」とか、「排出権の取引をしてもいい」とかね。でもよくよく考えてごらん。森林の炭酸ガス吸収をどうやって測るんでしょうね。そういう問題を背後に持ちながら、この『最後の熱帯雨林』という本を誰かが出版した。この人はある立場を持っています。そして、デイビッド・アッテンボローはそれに呼応するような序文を書いています。
よ〜く読んでごらん。この本を、みなさんがすでに存在する客観的事実としての環境問題に対応する「技術」として捉えるのは、まったくかまいません。しかし、どうしてそういう捉え方ができるようになったのかを考えなきゃいけない。これがひとつ。そしてもうひとつは、たとえばこういうような仕事は、マルクスのような仕事とどうつながるんだろうか? マルクスが、森で枝を切ったらこれは窃盗犯だぞっていう新しい法律ができるのに反対をしました。その世界とはどうつながるんでしょうか? さらにもうひとつは、自然誌。歴史を書くことからすこし遠ざかって、博物学・自然誌の本を一生懸命書いたミシュレとはどうつながるんだろうか。ウィルソンとのつながりなんかは分かりやすいことでしょうがね──生物多様性問題。そういうふうに見ることもできます。
現時点では、熱帯雨林の問題に関わらず、地球のほとんどの環境問題といわれているものが、『谷中村滅亡史』を書いたときに荒畑寒村の視点、あるいは「木材窃盗法案」を批判するマルクスの視点を持っています。それから同時に、誰かがこんなものは非常に遠いとも言いましたが、結局は自然保護思想の源流にあたるようなもの──ミシュレとか、ミシュレ以前にさかのぼることもできると思いますが──そういうものが混ざり合って、『最後の熱帯雨林』のような本ができあがっているとも言えます。だからといって、『最後の熱帯雨林』は、いま言ったようなすべての視点を調和させたものというわけではありません。編集者、というか、この本を書いている人たちの立場が鮮明に打ち出されているんですね。みなさんにはそれを読みとって欲しい。どういう立場なのか。立場なんてのは、読めば分かるよね。そのことをつかんで下さい。
こういうような図鑑的な出版物でも、ジャーナリズムに入ります。アッテボロー自身は自分のことをジャーナリストだなんて言わないかもしれませんが、彼の書いた文章はジャーナリズムとして通用しますね。
■インターネットを使おう
中尾ハジメ:さて、時代はどんどん変わって、今やみなさんはテレビであるとか、インターネットであるとか、携帯電話の世界に生きています。そこではどういうふうになっているかの一例を紹介します。京都精華大学のホームページは知ってるよね。環境社会学科のホームページは見てる? 環境ジャーナリズムの授業が、一週間遅れくらいで、みなさんのしゃべったことも載っています。つまりね、ノートを取るとき、ぼくがしゃべったことをことごとくノートにとる必要はありません。しゃべったことは、一週間もすれば、どんどんインターネットのホームページで見られるんです。
しゃべったことを、必ずしもそのままノートとる必要はないんだよ。するとね、何のためにノートを取るんでしょう。それはやっぱりね、自分が何を疑問に思うか、何を重要に思うかをメモするためなんです。
それで、つぎにですね、「環境雑学マガジン」。これは毎週更新されているという意味で典型的なジャーナリズムです。環境社会学科の先生達がライターになって、毎週載せてるね。たとえば、ぼくが書いた記事を見てみましょう。「『成長の限界』と南北問題 」。このページの下の方には、リンクが張ってあって、みなさんはこういう風にインターネット使える。
それから勉強の方法もインターネットで変わりました。たとえば戸坂潤について調べるんだったら、検索したら見つかるんです。しょうもないページに行き当たることもあるけどね。遊びのようなことかもしれませんが、それでどんどん色んな事がわかります。みなさんがさかんに言っている、いまどきのジャーナリズムは、インターネットを知らなければいけないんです。そうなってるんです。後期になったら、みなさんはひとりひとりが、あるいはチームを作って、みなさんの環境ジャーナリズムのホームページを作ったりしなければいけないんです。たとえばね、この授業でピューリッツア賞について触れましたね。このページ内でも検索できたりするんです。アーカイブの中でね。しかし、英語が読めなきゃいけないんです。みなさんは英語も勉強しなきゃいけないんです(笑い)。清水さん、あの写真とった写真家の名前なんだっけ?
清水千絵:ケビン・カーターです。
中尾ハジメ:(アシスタントが「kevin」と入力し、ケビン・カーターの受賞年などが表示される)と、まあ、こういう訳なんですね。
〈ノートパソコンをLANにつなげてスクリーンに提示しました。〉