1.「環境」「環境問題」という言葉はいつから使われているのか──「環境」「環境問題」という捉え方
レイチェル・カーソンの『沈黙の春』が出版されたのはいつですか。1962年ですね。さて、『沈黙の春』をみなさんは読んだけど、そのなかには「環境」という言葉が使われていただろうか。使われているとすれば、どういうふうに使われていた? いま『沈黙の春』を持っている人はパラパラと見てごらん。どういうふうに使われているかな? 持っていない人は考えるんだよ。いろいろ想像するんだよ。どういうことだろうか。
これから言うことはある意味で非常にばかばかしいとみなさんは思うかも知れません。でも「環境問題」とか「環境破壊」という言葉がよく使われるようになったのは、実は最近のことだということにみなさん思いあたるよね。
水俣病について書いた本を読んだけれども、「環境」という言葉で描かれていたかな? 「環境」という言葉を使って状況をとらえていたかなということを考えてみよう。さらに遡ってみたら、原子爆弾、広島の被爆の状況を描いた人がいる。ものすごく当たり前だと思うかもしれないけれど、「環境」という言葉は使われていないね。その点は別におかしいなと思う必要もないし、おかしくもないと思います。
レイチェル・カーソンの『沈黙の春』も、実は「環境問題」ではないね。『沈黙の春』は、そういう言い方で言うならば「農薬問題」だね。こういうことを考えてみよう。以前に配ったプリントの年表をずっと下の方まで下がってくると、『奪われし未来』のときにはもう「環境問題」とか「環境破壊」とかいう捉え方が──「定着した」という言葉は使いませんが──非常にはっきりと言われるようになったということはわかるよね。これがまずひとつですね。ものすごく当たり前かもしれませんが、これは認識した方がよろしい。
それからアメリカの大統領(トルーマン)の1949年の就任式の演説の段階では……。「貧困」という言葉はあったよね。それから「発展」あるいは「開発」という言葉ももちろんあった。それから「科学技術の力」という言葉ももちろんあった。それからこれも当たり前ですが、「共産主義」という言葉もあった。「民主主義」という言葉もあった。でも「環境問題」という言葉はなかったよね。
最近のアメリカの大統領が、大統領選挙とか、大統領に選ばれてからしゃべる言葉のなかには「環境」という言葉はでてこないだろうか。ひとつの仮説はみなさんも以前考えたね。そのとき、アメリカの大統領は「環境問題」を語るんだと思ったかもしれないね。それは非常に重要なんですよ。さあ、それをまず確かめてください。自分が思ったとおり最近のアメリカの大統領は「環境」という言葉を使うようになっているかどうか。これは確かめないといけない。わかった?
「環境」という言葉は、もちろん言葉としてそこにあるし、最近使われるようになりました。これは捉え方だよね。「農薬問題」という捉え方と「環境問題」という捉え方はどういうふうに違うんだろう。どういうふうに違うと説明できるだろう。さあ、ちょっと書いてごらん。……「農薬」と「環境」の違いだって(笑い)。まったくその通りなんだけど、それをもう少し違う言い方で言うにはどうしたらいいだろう。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』のなかには「生態系」という言葉は出てきましたね。どう、何か考えた? こういうのを考えるのがみなさんの仕事なんだよ。考えなきゃ。
これが今日の一つ目の問題意識です。いまのは大変大きな問題ですが、結局「環境問題」あるいは「環境」という言葉を使って問題を捉える方法は最近のものだということだね。しかし昔から環境問題はあった。なかったわけじゃない。これがまずひとつの大きな問題です。
2.時代背景──世界の捉え方の変化
その問題ときれいに並列するわけではないんですけれども、今の問題を考えるために、さらに考えるべきことがある。それは、前回を含めてこの授業で「これが環境ジャーナリズムだ」というふうに思われるもの、そしてそれを代表していると思われるものをずっと並べてきたわけだね。これらを並べてくるときに、それぞれの時代背景というものがあるということもわかった。時代背景というのはどういうことを意味しているのかな。
その時代背景を「それぞれの」という言い方をしてしまうと、本当にそれぞれの時代背景になっちゃうんだね。例えば1945年は日本が戦争に負けようとしているときとかいうふうになってしまいます。この授業で時代背景と言う場合には、それぞれの時代と言っても、結局は連続して起こった大きな変化を意味していたはずです。結局は連続しているんだね。それで大きな変化が起きた。大きな変化をどれくらいの時代の幅で捉えるかということが、ひとつの問題としてあったと思います。
授業でとりあげられた具体的なジャーナリズムの例というのは、人間の歴史のなかのごくごく一部だね。本当に最近のものしかとりあげなかった。昔むかし人間が世界をどういうふうに捉えていたかということを考えるときには、この授業でとりあげられた範囲のジャーナリズムからだけではわからないですね。それはあまりにも最近のものばかりだから。だけれども、みなさんの想像力を持ってすれば、それ以前から事ははじまっていたということもわかるし、そもそも世界の捉え方が昔はものすごく違っていたということもわかるよね。
具体的に言えば、原子爆弾をつくるような世界の捉え方。世界というのは、国際関係を意味しません。むしろ、ものは何からできているかというようなことだね。みなさんが知っているように、太陽は東から昇って西に沈みますが、こういうのを天動説と言います。みなさんはだけど地動説の時代にいるんだよね。ちょっと変なことを言うかもしれませんが、実はみなさんは地動説の時代にいるにもかかわらず、太陽は東から昇って西に落ちると信じています。それで世界は何からできているか。水と土と空気と火でできていると、実はみなさんは信じている。 ……信じてるかな? (「信じていない」という様子の学生を見て)信じていない人もいるようですが(笑い)。
その信じていないという人たち、つまり水と空気と土と火からできているのではなくて、原子と呼ばれるものとか、またそれがさらに原子核と電子からできていて、原子核のなかには陽子と中性子というものがあると信じている人たちが増えてくるわけですね。人口の何パーセントがそういうことを信じているかはよくわかりませんが、こういう知識が出現してきたおかげで、人間の歴史がものすごく変わったということを、みなさんは前期と後期のこの授業で繰り返し繰り返し認識したよね。 ……してない? 認識を新たにしたのではない? よくわかりませんが、たぶんそうだというふうに私は信じています。
そういうタイプの変化、世界を捉える捉え方の変化が具体的にジャーナリズムをとおして表明されているものをみてきましたけど、そのものすごく長い人類の歴史を基準にして考えれば、短い短い時間──100年も経っていない間──に非常にはっきりとわかるほど、とても急激に変化をしたということがわかったよね。1945年と今ではものすごい違いがある。あるいは1960年と今でもものすごい違いがあるということがわかったと思います。その違いをみなさんは、どう言ったら表すことができるかということを考えなければならない。これが二点目。
3.時代背景2──短い間に起こった急激な変化
この違いを表すのに、例えば大学の授業で、先生たちが「戦後の高度経済成長」と言っているという話をよく聞きます。僕はこの言い方にいささか意義がある。何をケツの穴の小さいことを言っているのかなという感じがするんです(視野の狭いと言うはずのところ、思わずケツの穴の小さいと言ってしまった)。どうしてかな。なんでそういう言い方をするのかな。愛国主義なのかな。日本は高度経済成長をした。片一方でそのことは非常にすばらしいことであると言う人がいて、もう片一方に日本は高度経済成長をしたのがけしからんと言う人がいる。そういういずれにしても日本中心主義的な見方から「環境問題」は高度経済成長がもたらしたという言い方をする人たちがいるみたいです。
そんなに目くじらを立てる必要はないんでしょうけど、僕はそれは本当にケツの穴の小さな捉え方じゃないかなと思います。なんで中尾ハジメがそう思うかということを解説してくれたら僕も助かりますが(笑い)。まあ、これはおまけの話です(笑い)。でも何か変な感じがするんだよね。ひとつは、この大学のなかだけということではなくて、日本社会のなかでレイチェル・カーソンの評価はものすごく高い。なんで高いの? なぜそんなに高く評価しているのか。レイチェル・カーソンという人は偉い人だと思いますよ。思うけれども、レイチェル・カーソンを評価するということと、日本が経済成長をしたとか、しかもそれがけしからんということを、どうやって頭のなかで統合させているんでしょうね。ひとつの意味がある考えとしてそのふたつのことを重ね合わせることができるのだろうかと考えてしまうんです。何言っているんだかわかんないね。なんとなくわかる?
どういうことかと言うと、なんで日本という主語をつけなければならないのか。なぜいつも主語が日本なの? 「日本の」高度経済成長と言うの? 身近で体験することができたからだということであれば、それはよく理解できる。身近で体験したから言っているんだなとわかる。先生たちが日本の高度経済成長ゆえにこういう状況が生まれたというようなことをいろいろしゃべる。みなさんがそれを聞いて、「ああ、そうか、そういう体験をしているんだ。それを一生懸命伝えようとしているんだ」というふうにみなさんが受けとるんだったら、それはまっとうな話だと僕は思います。でも気をつけなければならないのは、「環境破壊」というような捉え方をすることがなぜ必要になったかというと、それは日本が高度経済成長したからでもなんでもなくて、要するに環境破壊の進行のスピードがこの戦後の50数年の間でものすごい勢いで進行したからだよね。ものすごいスピードアップをしたことの一部として、日本の高度経済成長はあったかもしれない。でもそれは一部だということです。
それがその一部であった戦後の変化を、あえて言えば、今日の第三点目の問題意識と言うこともできるでしょう。ものすごく長い人類の歴史そのもの……。人間はいろいろ考えますからね、考えて新しい物質をいくらでもつくりだせるように今はとうとうなっている。これを少し長い時間の尺度で考えることもできる。これが第ニ点だったとすれば、第三点はいま言ったみたいにもっともっと短い、ごくごく最近の、この半世紀くらいの尺度で考えることです。
4−1.「言論・出版及びその他表現の自由」──ジャーナリズムとは「言論」のこと
次は第四点。いままでとまったく違う観点で考えてほしいんですが、結局のところジャーナリズムというものは、みなさんがこれまでみてきた実例からもわかるようにわざわざジャーナリズムなんて言わなくてもいいんじゃないか。要するに「言論」というやつだね。あるいは「言論・出版」というふうに、かつてはまとめて言われていた。
「言論・出版」というような言われ方をしたのはどうしてだろう。考えてみればすぐわかります。そもそも言論ってなんのことだろう。言論というのは演説会とか討論会のことだね。出版というのは本とか新聞のことだよね。それはあえて分けなくてもいいじゃないか、全部「言論」でいいじゃないかという言い方もあるでしょうが、ほとんど習慣的に「言論・出版」という言い方がされていたんだね。例えば日本国憲法が書かれた時代にはテレビはまだ実用化されていませんでしたが、ラジオはありました。それで、「言論・出版及びその他の表現の自由」と言って、表現という言葉で全部まとめたんだね。だから表現のなかにテレビとか映画とかいうのが入ったりするんですね。
そうするとジャーナリズムっていうのはなんだろう。たまたま僕らが授業で見ているのは本になったりしているものばかりです。でもよく考えたらそんな限定する必要はないんだよね。要するにジャーナリズムは「言論・出版及びその他の表現」ですね。
しかし重要なことは、言論というのは言葉を使うんですね。仮に、映像でなにかを伝えるということを考えたとしましょう。ナレーションはなし、字幕もなし。それからそこに出てくる人も喋らないで、ずっと黙っている。それでどれだけのことが伝えられるだろうか。もちろん言葉を使わない表現というのはあるわけですが、そうするとだいぶ難しいね。なにもできないに等しいくらいになっちゃう。ジョン・ハーシーが言葉を使わないで『ヒロシマ』を書けるだろうか。ばかばかしい問いですけど、書けないですね。そうすると、大胆にも言ってしまうと、人間の重要な表現活動はやっぱり言葉を使う、使わなければならないということにだんだんなってくると思います。
これがジャーナリズムが言論であるということの重要な半分です。もう半分も非常に重要です。実はこれはあまり意識されていないのですが、言論ということのもう半分はなにか。これは経験的にそうですが、言論には必ず敵が登場するということです。論戦になるんですね。正しいことだけが世の中に語られているわけではなくて、仮に正しいことが語られてもそれに反対する言論が存在する。それでわけわかんなくなっちゃう人たちは、「正しいことはない」っていうふうに考えたい。要するに、正しいことはなくて、ただいろいろな種類の言論がお互いにお互いを批判しあっているだけだというふうに考えたい人たちです。こういう人たちはたくさんいるかもしれません。でも困ったことに──ここが非常に重要なんだけど──もともとなぜ言論が発生するかということを考えると、これは伝えずにはおけない、俺はこう考えるんだと言わずにはおれない人がいるということなんだよね。止めることはできない。
水俣でやはり工場がなにか毒を流しているということを言わずにはおれない人たちがいるんだよね。DDTを空から散布したのを見て、そのあと鳥が死んでいるということを言わずにはおれない人がいるんだね。広島に原子爆弾が落ちたことを言わずにはおれないという人がやっぱりいるんですね。
こういうことを言わずにはおれない人たちというのは、社会のなかでいろんなところにいるよね。大統領は自分で見たわけではないけどね、「自分の命令によって、いまから10時間ほど前に広島に原爆を落とした」と言わずにはいられないんですよね。そうすると、当然「この野郎!」っていう人もいるわけですが、この場合にはただ言ったとか言わないとかいう話だけではなくて、実際に、言論の世界とは違うところで、具体的なことが起こっているんでしょう。それで具体的にいろいろなところが起こっていること、あるいはこれから起こるであろうこと、過去起こったということを、こういうことは起こってほしくないという人が、あるいは起こしたいとかいう人が、何かやっぱりしゃべるんです。中には、秘密にしておかないとうまく実行できないからしばらく秘密にしておくという、そういう大人の扱い方というか管理の仕方はもちろんあります。あるけれども、例えば中尾ハジメがあるたくらみを持っていて、それを誰かが知ったとしよう。たくらみを知った人は中尾ハジメは悪いやつだというので、それはやっぱりみんなに言ってまわらないとしょうがないですよね。ジャーナリズムって結局はそういう世界なんだね。
ジャーナリズムというのは、みなさんが勉強っていうかこれを読みなさないって言われて、それを覚えて、覚えたことを右から左へ流すだけの仕事ではないんだね。場合によっては、おまえはちょっと黙っておけとグサッと刺されちゃうかもしれないということなんだね。そうすると「言論・出版および表現の自由」を守るとはどういうことかというと、何かを言ったり書いたりした人が刺されないようにするということだね。でも、刺されないようにするために黙ってしまうと、これは言論の自由ではなくなるんですね。こういう当たり前のことですが、この当たり前のこともいままでの授業のなかでわかったよね。わかったはずのことだよね。そういうふうに認識をしてきたと思っています。
4−2.「体験」「出来事」ってなんだろう──「出来事」は(体験者が)捉えなければならないし、「体験」には思考が介在する
それから、この次はなかなか難しい問題です。それは何かと言うと、しゃべりたいということの前に「体験」ということがあるんだね。ただし、この「体験」は困ったことに、人間の心とか人間の脳みそとかあるいは人間の思考とかいうことを媒介にしてはじめて成り立っているものです。したがって、この「体験」にはちょっとカギ括弧をつけておかないと具合が悪いかな。あるいは「出来事」というふうに言ってもいいです。これは当たり前のことなんですが、捉えられていなければ、「出来事」じゃないんだよ。「体験」というのは思考を含むんだよね。困ったことですけれど、そうなんです。
みなさんは石牟礼道子さんにだいぶ惑わされてしまったと思います。これはなんだろうって思ったでしょう。さらに解説をみたら、私小説であるとかないとか、なんかまた余計なことが書いてある。それを読んだ人は、「私小説」という言葉をまねて使えば許されるというか、あるいは何か自分が説明したことになると思って、「私小説」という言葉の意味も知らないのに、これは私小説だとか私小説ではないとかついつい言ってしまうでしょう。だけど、原理に戻って考えてみたら、石牟礼道子は「出来事」とか「体験」、これを伝えようとした、表現しようとしたんじゃないの? さあ、「出来事」とか「体験」というのはなんでしょう。—片一方にフィクションとかノンフィクションとかいう言葉があるから翻弄されちゃいますね。でも自分が何を考えているかということをみなさんがもし文章にしようと思ったら、それは何なんだろう。つまりみなさんの考えていることは、ぜんぶ絵空事だからこれはフィクションなのかということみたいだね。
「体験」ってなんでしょう。例えば僕がこうやってみなさんを見ていて、みなさんは頭の中でこんなことを考えているんだろうとか、本当に僕がそういうふうに思っていたら、それは思考が介在していますよね。介在しているけど、それは僕の「体験」だよね。例えば、その「体験」を事実として伝えるというのがジャーナリズムです。
5.書き手と読み手──書き手は読み手がどう読むかを考えながら書く
ちょっと輪をかけてややこしいことを言いますが、「体験」をしゃべったり書いたりするときに、聞き手はこういうふうにこれを読みとるであろうということを考えないでしょうか。みなさんのレポートを読んでいると、読み手がどう読むかなんて考えないで書いてある感じがすることがときどきあるけれども(笑い)、それでもきっと中尾ハジメはきっとこういうふうに読むであろうと思って書いているよね。そうすると機械的、自動的に自分の「体験」「出来事」を書いているわけではなくて、読み手に読ませるように書いているよね。ということは、読み手がどういう受けとり方ができるかということをはかりながら書いてますね。多くの読者──ここにいる多くの読者──は、石牟礼さんのあの本を(授業のために無理やり読まされるなんて)迷惑なことだと思って読んだかもしれない。しかし、石牟礼さん自身はこれをきっと受けとってくれる人がいるにちがいないと思って書いているんだよね。その原理について言えば、レイチェル・カーソンも同じことです。
さあ、そうすると、ジャーナリズムという人間の活動を考えたときに、「読者」、audience、「聴衆」というか「みんな」というのが出てくるわけですね。この「みんな」というのは実はもうちょっと探求されなければならない。一体「みんな」ってなんだろう? 例えば、みなさんは、ジョン・ハーシーやカーソンや石牟礼さんを無理やり読まされたと思っているかもしれません。でも無理やり読まされる存在を想定して、ジャーナリズムはあるんだろうか。ジャーナリズムっていうのは、そういうものなんだろうか。これをちょっと考えてほしい。
「みんな」──僕はこの「みんな」っていう言葉が好きなんですが、これじゃあまりにも格好悪いというのでもうちょっと考えなさいよということになると、「公共」とか、公衆便所の「公衆」つまり“public”という言葉があります。変だね。“public”ってなんだろう。出版のことを“publish”と言うのは、みなさんはもう知っていますよね。「公にする」ということ。ちょっと考えてみてください──自分は「みんな」なのか。自分は「公共」なのか。自分は「公衆」だろうか。「いや、自分は『公衆』じゃない。自分は自分だ」と思うのかな? そこがジャーナリズムの大変おもしろいテーマですね。これが第五点目の問題意識だね。
ちょっと付録を言うと……。「体験」や「出来事」をジャーナリストがつかむ。そして、そのジャーナリストはそれを「みんな」に伝えるという図式をずっと使っていましたが、「体験」とか「出来事」ということ、つまり重要な事というものを、これまでの授業で十分認識してもらえるように展開したとは思っていません。「体験とはなにか」というのは、これはちょっと難しい。うまく説明することができない。できないので、実例をばらまいて、あとはそこから感じとりなさいというずるい方法に訴えていたということだね(笑い)。
だけどみなさんはすぐにわかったと思いますが、どの実例をみても、そこに書かれていることがどうでもいいこととは思えなかったと思うんですよ。そうすると、どうでもよくないこと、どうでもいいことではなくて重要なことを、いかにしてわれわれは体験するのか。これがなければ、ジャーナリズムは成り立たない。だから、小西くんがジャーナリストになるということがどういうことかというと、小西くんが重要な体験をするということだね。どうして俺たちは重要な体験をしないようにできているんだろう(笑い)。ひょっとすると「みんな」だからかな? あるいは逆に「自分」だからかな? という大変深刻な問題があります。でも、これはおまけ。
6.ジャーナリズムの「方法」──「体験」する方法、「体験」を言語化する方法、言語化された「体験」を受けとる方法
それから次は第六点目の問題ですが、「方法」ということ。いままで喋っていることにまったく重なるんですが、体験すること自体、方法なくしては体験しない。変なこと言うよね(笑い)。変なこと言うけど、わかりやすいところで言ったら、仮に体験をしたとしても、そのことを言葉で表せなかったらジャーナリズムにならない。
言葉で表すというのはどういうことか。実は困ったことですが、言葉というのは方法的なものです。方法とは何かといったら、何を主語にしようかとか、どういう形容詞を使って形容しようかということを考えたり、場合によっては新しくつくりだしたりすること。これは「方法」です。つまり、機械的、自動的に「体験」が言語化されるわけではなくて、書く人が一生懸命言葉を選んだりしてつくるものだよね。
それからさっきも言ったように、聴衆がいる、読者がいる、「みんな」がいる。その人たちがどういう受けとる装置──受けとる方法──を持っているかということを考えて書く人は書きますね。方法っていうのがなんだかピンとこなかったら、要するに考えながらするということです。考えて言語化する。考えなければ言葉にできない。
みなさんがちょっと書いてくれたのは、「石牟礼道子の方法」ということでしたね。みなさんはみなさんなりに石牟礼道子はこういう方法を持っているんだということを捉えた。中には、主語を何にするかということに注目して、石牟礼さんはこんなふうにやっているんだということを発見した人もいます。あるいはドキュメント──つまり、すでに存在する文書みたいなもの──をある部分では使って、その前後に説明書きを付け加えていないことを発見した人もいる。なぜあえて説明しないということを選んだのだろうというようなことを書いた人もいます。石牟礼道子のそういういろいろな方法を発見した。
逆に、みなさんが方法ということを考えないで『苦海浄土』を読んだら、主語が統一されていないとか、自分が思ったことを「勝手に」書いているとかという、みなさんが石牟礼さんにつけたいろいろな注文は出てこなかったかもしれない。表現のためにはやはり方法がいろいろ工夫されているんだよね。このことをよく考えてください。
このことを考えるために、おそらくみなさんがもっと意識しなければならないことは、みなさんの手元にある本は、それは「つくられた本」だということ。つくった人がいる! ……ということ。学校とか大学とかいうのもつくった人がいるんだよ。だけど、それをみなさんは富士山がそこにあるごとく「それは自然にあるからしょうがないんだ。自分がここに来ちゃったのも流れ流れて来ただけで、自分が選びとったわけではない」と思っている人がいるかもしれません。でも本当はそうじゃない。本もそれと同じです。本はつくられている。本は誰かがつくったんです。そこに誰かが書いた文章が印刷されている。書いた人は、例えば、石牟礼道子っていう人なんだね。でも、本も学校もそういうものでないとすれば、人の名前なんかつけなくてもいいよね。書いた人やつくった人の名前なんかいらないし、みなさんはこの本は誰が書いたなんてことは意識しないで読んだ方がいいかもしれない。というか、だいたい意識しないで読んできたと思います。しかし、本は人が書いた。その人は要するに一生懸命書いているわけだよ(笑い)。一生懸命書いたり、つくったりするっていうことは、いったいどういうことであるか。これを一言で言うと、「方法」と言います。
この方法というのは、よく使われている方法もあれば、まったく新しく編み出される方法もある。いろんな方法があります。とにかく、考えなければ方法ではない。みなさんがジャーナリズムの仕事をするときには、方法を意識しなければならない。それから、これからもまだ少し続きますけれども、みなさんがジャーナリズムを読むとか、聞くとかするときには、いつも方法を意識して読まなければならない。それは当然、読みとる側の方法でもあるけれども、いつも意識をしながら読んでいれば、「ああ、こういう方法で書いているんだ」ということが認識されるはずです。言い方を換えると、要するに仕事なんだね。金になるかならないかは別にして、仕事です。
7.言葉──「みんな」の方から「体験」「出来事」に近づいていく
次は第七番目の問題です。ジャーナリズムは言葉を使う、言論であるということはすでに言いました。言葉を使うということはいったいなんだろう。ものすごく当たり前で困るんですが、言葉っていうのは言葉にしかすぎないんだよね。でも例えば、今日ジョゼ・ボヴェっていう人の話を聞いた人はいるかな(注)。通訳をする人がいたよね。通訳がいなければ、ジョゼ・ボヴェがしゃべっても僕たちには伝わらない。
そうすると、ここで意識をしてほしいんですが、言葉は場合によるといわゆる外国語と呼ばれるもののこともあります。またはいわゆる標準語と呼ばれるものかもしれません。外国語とは呼ばれないけれども方言と呼ばれるもののこともある。この問題は非常に重要な問題です。
みなさんは、言葉を使ってしゃべっていますか? 言葉を使ってしゃべっていますよね。しゃべっているんだけれども、ジョゼ・ボヴェには日本語は通じないですよ。じゃあ、どうしたらいい? それから水俣の言葉で書かれてる『苦海浄土』を読んで、「なんだこの本は! なんでこんな方言使って書くんだ。標準語で書けよ」と怒った人もいるかもしれない。こういう問題はどういうふうに考えたらいいでしょう。
問題がどこにあるかわかるかい? 問題はどこにあるかというと、非常に単純ですが、世界中の誰にでも通じるような言葉というのはどこにもないということです。その状況から僕らが自由になることはたぶんできないと思います。人間が使っている言葉は、自分が生まれ育ったその文化のなかで使われている言葉でしかない。そこから自由になることはできない。
かろうじて、その言葉だけではなくて、自分にとっては生まれながら身につけた言葉ではないような言葉を使ってしゃべる人たちがいます。そういう人たちって誰のことだか知ってますか? そういう人たちは、大学のようなところで教育を受けようという人たちのことです。そういう人たちがいるから、ある言葉とある言葉のグループ──仮にA語とB語をしゃべるグループとする──が、そういう人たちを介して理解しあえる。また別の言葉のグループ──C語のグループ──があって、そのC語のものがB語に訳されて、それでA語のグループはそのB語に訳されたものを聞いたり読んだりして理解する。こんなふうにこっちの言葉があっちの言葉に訳されて、それがまた別の言葉に訳されてというふうにして、ようやく「ああそうか。人間はこういう共通の問題を持っているのか」ということが伝わるんだよね。
このようなことだというふうに考えてみたら、石牟礼道子の『苦海浄土』のなかで使われていた水俣の方言がそこに書かれているという問題を、日本語ができる読者であるみなさんはどういうふうに捉えたらいいか。方言辞典なんて持っていないものね。持っているかもしれないけれど、そこに書かれていることは簡単にはわからない。読者であるみなさんにここで要求されていることは何なんだろう。あるいは、たぶん日本の心ある読者はこの水俣の方言の意味をちゃんと汲むであろうと、石牟礼道子が勝手に考えていたのかな。どうでしょうか。
これは本当に難しい問題です。簡単ではないけれども、もともとの大原理に立ち戻ってみれば簡単なんですよ。困ったことに、「みんな」──public──は、誰かがなんか重要なことを言っているんだなと思ったら、今度は自分のほうから──publicのほうから──なんか重要なことを言っている人の方角に向かって一生懸命注意を集中し、一生懸命考えて、自分の方から近づいていかないといけないんだよ。これが難しい。ここが大変難しい。
あたりまえですが、言葉がそこになかったら、考えることも体験することも、たぶん十分にはできない。しかし、それ以上にジャーナリズム、あるいは他のなんでもいいんですが、要するに言葉で何かを表現するという場面にみなさんが出くわすとき、みなさんの側からそのプロセスを遡って出来事にたどりつこうとする──重要な「体験」はなんであるかというところにたどりつこうとする──動きがなければ読めるわけがない。
これはいったいどういうことだろうか。変だよね。頭の中では、「出来事」があって、ジャーナリストがそれを伝えるということが情報の流れだろうとずっと思ってきた。水は高きから低きに流れるという、それだけのことだろう。ところがそうじゃないらしいんだよ。困ったことだけど、それどころか、極論を言えばジャーナリストはほとんど何もしない。例えば、ジャーナリストは一生懸命何か書くということはする。あるいは誰かが何か言っていることを一生懸命ビデオに撮るということはする。でもそこまでなんだよ。「みんな」がそれを一生懸命理解して、「出来事」や「体験」にたどりつかないといけないんだよ。
だけど変だよね。そんなことってできるんだろうか。時は流れちゃうでしょう。起こったこと──例えば、水俣で1950年代に起こったこと──そのことにどうしてわれわれが今からたどりつくことができるんだろう。そういう意味ではできません。しかし、もともと言葉を介して伝えられるということが意味しているのは、言葉を介して、それを読む人間、聞く人間であるわれわれが「出来事」や「体験」にたどりつくということだね。うーん、困ったね。困ったけど、そうなんです。タイムトラベルかな。
それはもうことごとくなんでもそうでしょう。時間は決して元へ戻らない流れ方をします。重要なことはすでに起こってしまったか、あるいはこれから起こるであろう。例えば、拉致事件が起こったのは24年前です。この事件がいまになって重要になったわけじゃないよ。発生したそのときにすでに重要だったんですよ。そして、拉致されていた人がいま帰ってきた。これも重要だよね。それじゃ今後どうなるのか。これも重要だよね。「出来事」や「体験」というのは、もちろんこの瞬間が大切だというようなことはありますよ。だけど、その瞬間が大切になるのは、そこに継続して起こっていることが重要だから。それである瞬間が重要になるんだよね。
継続して起こっていることってなんだろう。例えば、みなさんが生まれてから今までずっと継続して存在している。そしてこれからもたぶん継続して存在するだろう。それが重要なんです。その重要なことを言葉にして「みんな」に伝えようとする。実はそれだけでは伝えられていないんだよね。本がいくら売れても伝えられたことにならない。結局は読者がその本を介して、つまり言葉を介して、もともと重要な事柄の継続にたどりつくということでしょう。
7.「重要な継続」とは?──ジャーナリズムは連鎖である
さあ、それで「重要な継続」とはいったいなんだろう。これがまた難しい。わかりやすいのは、例えば石牟礼道子にたどりつくことができた。石牟礼道子はこういうふうにして水俣の風景を見ているんだということ。その石牟礼道子の向こう側にはゆき女がいたり、いろんなものがいるわけだね。そこにもわれわれはたどりついてしまう。これはきっと本当には存在しない人かもしれないという問題もあったりしますが、でもたどりついちゃう。
そこで僕たちが言葉を通じて思い描くことができるのは、ふつうは人間の世界であって、しかもたぶん人物──こんな人物、あんな人物というようなことがわかるような世界だよね。ところが、困ったことに、「環境ジャーナリズム」というのは下手をすると無人称になっちゃう。一生懸命たどりついてみたけど、そこには人間なんていないじゃないか。なんかPCBとかPPCとかPPPとか、そういうのはあるかもしれないけれど、人間がないというたどりつき方をする可能性があります。……こういう問題がある。ただし、最初のほうに言ったとおり、論争になっていれば、論争している人はかなりはっきりと人物像を明らかにして論争しているんだと思います。少なくとも、そこまではたどりつくことができる。
もう一度ききますが、今日、ジョゼ・ボヴェの話を聞いた人はどのくらいいる? (挙がった手の数を見て、)3分の1くらいかな。ジョゼ・ボヴェっていう人は、困った人でね(笑い)。人口2万人くらいのフランスの小さな田舎の町にマクドナルドをつくるということになったんだって。簡単に説明すると、ジョゼ・ボヴェっていう人は、「これはけしからん」とその建設中のマクドナルドを壊します。記者会見を開いて、「これから僕らはいま建てつつあるマクドナルドの店を8日後に解体します」と言った。そうしたら警察から「君たち、あの店を解体するとか言っているな」と電話がかかってきた。彼は「はい、解体します」と応えた。すると警察は「じゃあ、ケガ人がでないようにしなさい」と言って、たぶん当日は交通整理とかいろんなことをしたんだと思います。それでジョゼ・ボヴェたちは記者会見で言ったとおりマクドナルドの店を解体しちゃった。それから1週間くらいして、ジョゼ・ボヴェと仲間の9人くらいは、おまえたちは法律に違反したから裁判にかけるということで逮捕されます。これをジョゼ・ボヴェは平和的なデモンストレーションをしたと言っていました(笑い)。そういう人たちがいるんですよ。
それで、何を言いたかったんだか忘れてしまいましたが(笑い)、……ジョゼ・ボヴェがそういうことをした。それからこの授業でも少し出てきましたがモンサントという化学の会社があります。いまは世界のアグリビジネスの先頭に立っているんだよね。その会社は遺伝子組み換え作物をいたるところでつくっているんですが、ジョゼ・ボヴェはそのモンサントの組み換え作物を栽培している畑に行って、そこに生えていたものを全部ひっこ抜いちゃった。それでまた捕まっちゃうんです。そういうおもしろいことをするジョゼ・ボヴェさんという人がいます。
昨年(2001年)の9月11日のあのツインタワーに飛行機が突っ込んだ出来事がありましたね。その2日後の「ウォールストリート・ジャーナル」という新聞に、「ビン・ラディンとジョゼ・ボヴェは同じくらいのテロリストである」という論説が書かれたそうです。「自分はビン・ラディンと同じテロリストではない」とジョゼ・ボヴェさんは言っていましたが、僕は「ウォールストリート・ジャーナル」は正しいと思います(笑い)。つまりグローバル化する金融経済にどれくらいの被害を与えるかを考えたら、それはもうジョゼ・ボヴェの方が大きいんじゃないかと思います。
いずれにしても、ジョゼ・ボヴェは何者かというと、彼にはジャーナリストではなくて、活動家とか農民運動の指導者というタイトルをつけられるかもしれません。だけど、ジャーナリズムがジョゼ・ボヴェをどういうふうに扱うかということは、やはりジャーナリストが一生懸命考えなければしかたがないですね。
おそらく一生懸命考えると、ジョゼ・ボヴェという人間像が消えてしまうようなジャーナリズムになるか、それとも消えないジャーナリズムになるか。ジョゼ・ボヴェひとりだけである必要はなにもないんですけど……。読者が「事実」や「体験」に向かって遡行するときに、ジャーナリズムを書く人の書き方によっては、いくら遡行しても、「事実」や「体験」に人間が出てこないということがあるんだよね。何も活動家だけがそこ(遡行してたどりついた「事実」や「体験」)に出てくればいいとは思いません。そう言いたいのではありませんが、どうもそういう人間が消えてしまうという問題をジャーナリズムは抱えているようです。
これはジャーナリストだけではなくて、読者も抱えている問題です。みなさんは、ひょっとすると、人間が出てこないような読み方を求めていままで読んでいたのではないかという疑いが僕にはある。これまでは、何を読むときでも、人間じゃないもの、「事実」や「体験」から流れ出てきたものを一方向的にみて、しかもそれをまた劣化させながらその次に伝えていくことくらいしかみなさんは考えていなかったんじゃないか。
実はジャーナリズムは連鎖でしかない。(「事実」「体験」→「ジャーナリスト」→「みんな」という図を示しながら)「みんな」からさらに別の「みんな」に話が伝わらなければ意味がない。そうすると、いったんジャーナリズムによって加工されたものを受けとる。そしてまたそれを加工して、結局はみなさんは伝えなきゃしょうがない。その加工の過程をしてはならいことというふうに考えたら、絶対に何もできない。みなさんはたぶん学校の勉強みたいに、教えられたこと、読んだことに、さらに多くの「みんな」に伝えるための加工をしなかった。このあたりにみなさんが意識的に考えなければならないことがあるように思います。
今日の授業はこれで終わります。みなさんの義務は石弘之の『地球環境報告』または『地球環境報告II』を手に入れて読んでおくこと、それからそれを次回の授業に必ず持ってくることです。
(注)この日の午前中、キャンパスプラザ京都にて、京都精華大学新学科開設記念講演会の第3回目として、フランスの農民運動家ジョゼ・ボヴェ氏の「もう一つの世界は可能だ」と題した講演が行われた)。
授業日: 2002年10月29日; テープ起こし、編集:川畑望美