だが、私などはもとよりそんな内情を知る由もなかった。何しろ週刊『平民新聞』がその五十二号の朝憲紊乱事件で印刷機械まで没収された時、印刷所に支払う二百五十一円の賠償金調達に苦心したのにくらべれば、日刊『平民新聞』は小なりとはいえども三十二ページ一台、十六ページ二台の印刷機を有している。
荒畑寒村『寒村自伝』より
ジャーナリズムという装置は、やはり現実の社会の中の装置であるという前提を逃れられない。技術的側面、経済的側面はいうまでもなく、ある種の言論には社会的制約も加わる。これらの条件は時代と共に変わっては来たが・・・
■ジャーナリズムの物的側面
みなさん、課題を提出してください。少しは待つからしっかり出すように。
さて、これは『寒村自伝』。またもや岩波文庫です。上、下巻あります。荒畑寒村がいろいろな時に書いたものを、1975年にまとめたものですね。まだ、みんな生まれてないときかな? 何が書いてあるか、そこから何を知ろうかっていうとね、新聞作りについてですね。
(p.204からを読む)「『日刊平民新聞』は、明治四十年四月十五日、日本社会党の機関誌として勇ましく産声を上げた」、・・・と書かれています。明治40年といえば、『谷中村滅亡史』が書かれた年ですね。で、それは8月だったかな。で、このときに日刊『平民新聞』ができたということは、その前に週刊『平民新聞』があって、それがなくなって、今度は日刊『平民新聞』を作ったんですね。と、いうようなことがこれを読むと分かるんです。
で、今日のテーマなのですが、今までとはちがう別の角度から、荒畑寒村のジャーナリズムはどういうものだったのかを考えてみたいと思います。
・・・社会党の機関誌として勇ましく産声を上げた・・・
この新聞は、社会主義の人達が、自分たちの主張を表現するためのものだったんだね。さて続けて読みます。ここからは、寒村たちが活動していた具体的な場所が分かります。
『平民新聞』の社屋は京橋区新富町六丁目七番地で、当時の劇場新富座と細い横町を隔てた、元の芝居茶屋を借りうけ、二階を編集室、階下を営業部と印刷部にあてていた。
印刷するところがなきゃできないですねえ。当たり前ですが。
『平民新聞』の創刊には約三十名が出資し、約六十名が寄稿を約し、そして二十四名の社員は次のような部署に配置されていた。
で、名前が連ねられていますが、当時の日本の社会主義の代表的人物の名前が並んでいますね。歴史に名を残している人たちです。小さいとこにいたんですね。
平民新聞にはロイテル電報なく、海外特電なく、輪転機もない。はじめ噂にのぼった『読売新聞』の上司小剣──コツルギって読むのかな──氏の入社も結局実現されなかったから、・・・何といっても貧弱の感をまぬがれなかった。・・・初号はやっと出したものの、もうすぐ資金に手詰まって第二号の発行もおくれたというのが、当初の実状であったらしい。 だが、私などはもとよりそんな内情を知る由もなかった。何しろ週刊『平民新聞』がその五十二号の朝憲紊乱(びんらん)事件で印刷機械まで没収された時、印刷所に支払う二百五十一円の賠償金調達に苦心したのにくらべれば、日刊『平民新聞』は小なりとはいえども三十二ページ一台、十六ページ二台の印刷機を有している。
輪転機ないってのはどういうことだろうね。そしてロイテル電報なくとか言ってるのを聞くと、いったいいつの『平民新聞』のことだろうっておもうよね。思わない?
ページをめくってください(『寒村自伝』上巻210ページ)。いろんな人の名前がでてきますね。前回の授業で取り上げた「舞ひ姫」についても書かれています。
・・・『舞ひ姫』は遊里に育った少年が長じて零丁放浪の間にも、かつてその薄命に同情の涙を流した美しい雛妓(おしゃく)を追懐する、すこぶる甘いロマンチックな美文調の物語で、いま読み返したらきっと赤面ものに違いない。弧剣や貞雄の褒詞はこれも昂奮の結果に過ぎなかったろうが、しかし私としてはもとより悪い気持ちがする筈もなかった。殊に堺先生がわざわざハガキで、『舞ひ姫』を読んで胸の迫るような感がした、真実くらい力強いものはない。この意気で大いに努力せよと激励して下さった時は、誰にほめられたよりも内心はなはだ得意の情を禁じ得なかった。
うん、「真実」だそうです。そこから、ずっと文章は続いて、いよいよ足尾銅山の大暴動に至るわけですね。ここで、荒畑寒村が足尾銅山の大暴動をどうやって取材したかをすこしうかがうことができます。
当時、社会主義の運動や労働者の運動は、しっかりとは成立していなかった。でも、寒村には先輩がいました。で、このひとたちは、もっぱらと言ってもよいと思うんですが、言論の世界で活躍していた。それを伝えるものが、たとえば日刊『平民新聞』であるとか、週刊『平民新聞』であったりしたわけだね。で、当然、ことごと弾圧されるわけですね。 足尾銅山の取材にもいきますが、もし『平民新聞』の記者であるというようなことが分かれば、妨害されるから、ちがう新聞社の記者を名乗るんだね。(『寒村自伝』上巻214ページ)
差し出した名刺には『二六新報』記者野沢枕城──チンジョウと読むのかな──、渡辺某と記してある。馬琴調をまねれば、そもこの男は善か悪かというところだが、実際この名刺を見た時は先方の意中をはかりかねて、私はしばらく返辞が出なかった。という訳は、実は私の名刺にも『二六新報』記者の肩書きが刷られているからで、しかも野沢氏らは私が警察で堂々と二六の社名を名乗ったのを聞いて、手具脛(てぐすね)ひいて待ちかまえていたに違いないからだ。
このときすでに、寒村より先に、足尾銅山に取材に来ていた記者がいたんですね。このあとは、実際正直に言って取材をした方がいいということになるんですが、そこら辺は各自で読んで下さい。
そのころの社会主義の運動がある種の実質性をもてなかったということを、後世の歴史家は、悪口を言って、「だいたい未熟だったからだ」とか、「そんなもの成り立つはずがない」なんて言いますが、しかしこういうのを読むと、あまりそんなことも言ってられないですね。もちろんその後、若かった人たちの社会主義についての考え方とか、変化します。ある意味では緻密になったり、何というか、その“大人の考え方”になったりしますが、だけど、ちょうどその明治40年の荒畑寒村は、明治40年の荒畑寒村でしかなかったし、それはちょうど今のみなさんが今のみなさんでしかないのと同じで、そのときの寒村が一生懸命伝えたかったことは、斯くの如きものだったということだね。われわれとしては、全力投球の具体性を読みとったほうがいい。
ここで、ちょっと考えて欲しいんですが、わたしたちはいまジャーナリズムというものに取り組んでいこうとしているんですが、書かれているものだけでなくて、そういうものが載せられた、たとえば新聞ということでいえば、その新聞というものは当時どういうものだったのか? どういう形をしていたのか? 紙はいくらぐらいだったのか? そして新聞はいくらで売られていたのか? 何部くらい刷られていたのか? どれくらいの人にそれが実際読まれていたのか? これらは大変重要です。いまみなさんが持っている資料の中にも、そういうことを推測させることが書かれていますね。
『谷中村滅亡史』を発行したのが、明治40年の8月。25日に発売と同時に発禁ですね。これはどういう意味を持っているんでしょうね? 簡単です。要するに誰も読まなかったんです(注:実際にはアンダーグラウンド版が出回っていたはず)。そしてそれが再び日の目を見るのは、それから何年も経った、昭和38年です。そうするとですね、僕らはいまのいままで、「『谷中村滅亡史』は、ジャーナリズムだ」と言ってきましたが、どうでしょう。実は、『谷中村滅亡史』をたくさんの人が読むということはなかったんです。
(p.256)八月二十五日発行と同時に禁止され、熊谷君(平民書房発行者)は多少の被害をこうむったし、私もまた印税二十五円を得ただけで、処女作はついに日の目を見ずに葬られてしまった。
多少ってどれくらいですかね? 何部刷ったか書いてないしね。ひょっとしたら、出す前から発禁処分で売ることはできないだろうと予測していなかっただろうか。で、25円てのはどれくらいの値打ちですかね? 1907年当時の25円。ジャーナリズムはこういうことを調べとかなきゃいけないよ。とりあえず、1円はいまの1万円ぐらいかなと、しておいてみようか?
この小著は昭和三十八年五月、明治文献資料叢書の一冊として復刻出版され、私も五十数年ぶりに死児に再会したような感があった。しかし読み返してみると、年少客気の著作だけに意あって筆足りず、殊に文章が幼稚で古くさく無闇に悲憤慷慨の形容詞が多くて、我ながら拙劣さにやり切れない気がした。
そういうもんだよな。
もういちど今日のテーマに戻りますと、要するに、世の中には出回らなかった。そういうことですね。明治政府がどれほど厳しくこの人達の言論をマークして、世の中に出ないようにしたかってのはすごいことだね。それをかいくぐって『平民新聞』だしたりするんだけど、発禁に次ぐ発禁で、たちゆかなくなっていく。
さて今度はちがう資料から。今度も岩波文庫ですが、『平民新聞論説集』(編者林茂、西田長寿による巻末の解説──p.272から)。まず、週刊『平民新聞』というものができますね。それまで万朝報社(よろずちょうほうしゃ)にいた、幸徳秋水や堺利彦らが平民新聞をつくるんですね。なんで万朝報社をやめたかったってことが書いてありますね。日露開戦の主張、日本はロシアと戦うべきだという主張を、万朝報社がしたんですね。で、それに反対して幸徳秋水達は万朝報社をやめます。そして、反戦を主張する立場として『平民新聞』をつくるに至るんですね。新聞の発行には、発行出願に必要な保証金というものがあります。そういう制度があったんですね。それに必要な金額1,000円、いまのお金にしたら、1,000万・・・う〜ん、500万くらいかな? 中江兆民の門下だった小島竜太郎が、1,000円を出してくれたんだね。で、創刊号を出すための発行費は平民病院長、加藤時次郎から借り受けた。借金から始めたんですね。社会主義協会もこれを援助した。分かるのは、こういうジャーナリズムを成立させようと思ったら元手がいりますね。その規模が分かります。あ、住所も書いてあります。
・・・有楽町三丁目十一番地の借家だった。発行兼編集人は堺利彦、印刷人は幸徳伝次郎であった。定価は一部三銭五厘、二十部前金六十五銭、五十部前金一円六十銭。紙幅は、縦約三十九糎(センチ)横二十七糎、八頁建であるが、第一号だけは、十二頁であった。
(黒板に「3銭5厘」と書く)こういうお金の単位をごぞんじですか? 20部前金というのは、20部購読する事をあらかじめ決めている場合の値段ですね。これを毎週毎週出したんだね。
事務の分担は、幸徳と西川が文章を書き、堺が編集の雑務をとり、また幸徳が会計を、石川が編集の外に売り捌き方面を担当し、社員外では熊谷千代三郎が広告事務を担当した。
発行部数は初号と「共産党宣言」を掲載した第五十三号は各八千部、その他の各号は三千七百−四千五百部を印刷していたとのことである。この数は当時の新聞業界の大勢から見て決して少ないとはいえない。にもかかわらず、罰金、発売頒布禁止、編集人・印刷人・執筆者の繋獄(捕まるということ)等、当局の弾圧によって経営は次第に苦しくなっていった。すなわち、堺は「嗚呼増税!」のためにまず筆禍をかい(つかまった)、第52号の石川三四郎の「小学教師に次ぐ」「所謂愛国者の狼狽」と、第53号の邦訳「共産党宣言」は共に発売頒布禁止となり、 発行兼編集人西川光次郎、印刷人幸徳伝次郎はともに軽禁固五か月罰金五十円の判決を受け、さらに西川は、「所謂愛国者の狼狽」のために禁固二か月を課せられた。印刷所国光社の印刷機器は没収されることとなった。
いろいろな憂き目を見ていますが、自分たちの意見を何とかして伝えたいものだから、次々と姿を変えてくるんですね。次は、『直言』です。明治38年のことですね。この新聞紙の大きさは週刊『平民新聞』と同じであったそうです。定価も同じ。それからも新聞のタイトルを変えながら彼らは活動を続けていきます。
ここまで見てきた歴史的なことを、ジャーナリズムがどういうふうにして働いているかって視点からもう一回眺めてみると、どういうことが言えますか? 4,000部っていうのは、今でいえば大した部数ではありません。しかし、当時の4,000部の意味は、いまとはまたちがっていたはずです。『共産党宣言』を載せたときが8,000部。──ついでにいうとですね、『平民新聞』の第1ページ目は、かならず英語のところがある、これは別にイギリスの人に読ませたかったわけじゃないですね。どういうことでしょう。さて、発行部数とはどういうことでしょうか?
今日の授業で、すべてのことが分かるというわけじゃないですけども、自分の伝えたいことがどういうふうにして多くの人に伝わるのか(という問題にとって重要なテーマとしてメディアは何かということがある)。
当然、印刷技術があったから、4,000部も8,000部も刷れたんだね。明治のそのころの彼らは、毎週のようにですね、演説会だとか、学習会のような集会をしてました。片一方で演説をしたり、議論したりということをしながら、毎週とか、毎日新聞を書いてたんだね。すごいね。
■ジャーナリズムと印刷技術
印刷っていうのは、いろんな言い方がありますが、プレス(Press)といいますね。“押しつける”ってことだね。えっと、Pressっていうのはね、みなさんがたとえば国会の取材に行くとするでしょ? すると、“報道”っていう腕章をつけますね。その腕章にはPressとかいてありますね。Pressは報道を意味することになったほどなんですね。だからテレビ・ラジオもPressなんですね。でも、もともとは“印刷機”なんです。で、印刷がなかった時代ってのは、木版の時代、日本でいえば、瓦版。で、木版じゃなくて、鉛の版を使うようになってどれくらい多くの印刷物が刷れるようになったか。これはものすごい変化だったんです。日本ではおおざっぱな言い方をしますけど、江戸から明治になる頃から活版印刷ってのが使われるようになるんですね。それまでなかったんです。例えば、福沢諭吉は知ってる? 知ってるよね。『学問ノススメ』を書きましたね。あれは、一説によれば、40万部売れたんだそうです。いっぺんにそんなに刷ったんじゃないだろうけど、40万刷れるってのは、Pressがなければ、考えられませんよ。いま、毎日新聞は、一日何部刷られていると思う? 朝日は、読売は? 調べてごらん。
これがジャーナリズムのひとつの生命線です。だから印刷機の発明以前には、ジャーナリズムはなかったと考えていいんではないでしょうか。あるいは、印刷機の発明以前にもあったかもしれないけど、印刷機が使われるようになって、ジャーナリズムはものすごく変わったと言えるでしょう。それから考えてみたら、『谷中村滅亡史』ってのは、ものすごくいいものだと思うんです。だって、書くやついなかったんだから。にもかかわらず、それは世の中に出回ることはなかった。それは、大変重要なことです。
UPIって知ってる? 知らない? あ、そう。ダメだなあ。でも、共同通信は聞いたことあるでしょ? 新聞を見ると、たとえば、京都新聞であれば、京都新聞の記者が書いた記事があります。しかし、なかには共同通信からもらった記事もあります。で、共同通信からもらった記事には、ちゃんとそう銘記してあります。UPIってのもそういう通信社のひとつだね。これは、United Press・・・ I はたぶんInternational。Pressなんですね。日本語でいうと、通信社って言いますが、“通信”ってのも報道なんだね。で、ちょっと考えてみると、今の時代ってのは、みなさんがPress になれるんだよね。ほとんど資本を投入せずに。なにせ情報化社会だからね。
■環境問題を多角的にとらえる
さて、テーマを変えてみます。こんどの資料は『谷中村から水俣・三里塚へ エコロジーの源流』(社会評論社、1991年)です。奥付を見ると、これが〈思想の海へ[解放と改革]〉の24巻だということがわかります。編集をした人は宇井純という人です。彼の名前は覚えておいた方がいいですね。
さて、目次をみると、『谷中村滅亡史』がでてくるのは第2部ですね。第1部は「農書と地域の流れ」とありますが、「農書」というのは、江戸時代のお百姓さん達が、自分たちがつちかってきた、農耕の方法、それぞれの地域の天候、季節の移り変わりなどにあわせてどういう農作業をするかということを書き留めたものを指しますね。第3部は「文明開化と自然」。どういう関係があるのか、と思う人もいるかもしれませんが、そういう視点から書けるものもあるんですね。その中には、牧野富太郎という人がいて、この人は植物を収集して分類し、たいへんな植物図鑑を作り上げた人ですが、「私と大学」なんてもの書いてるね。こりゃなんだろうね? ほかにも南方熊楠や、宮沢賢治もいますね。で、最後のは室田武、槌田敦。室田さんの授業受けてる人いる? え、少ないなあ。もったいない。槌田敦さんは槌田劭さんのお兄さんだね。まあ、いろんな人が書いています。
で、宇井純さんが前書きを書いています。
元来日本思想史の専門家によって用意されているはずのこの巻を、社会運動に関係した一介の技術者が今まとめなければならないところに、問題の大きさの一端があらわれている。
長い間、ここにまとめられているものが、思想の問題だとは考えられなかったのかな。あるいは、思想の問題だとは考えられていたけど、環境の問題、科学の問題だというふうにはとらえられていなかったという感じなのかな。そのことが大問題だという感じで宇井さんは書き始めております。
(「まえがき」の最後は) しかし地球環境の変化も個々の行為の総和であり、かつ予定調和論や、一党支配計画経済の破産も明らかな今日、我々は全く新しい広範囲にわたる理論を自分の手で作り出さなければならぬ。これは、日本だけのことではない。世界的な危機の進行なのであるが、その課題に取り組むべき材料が豊富なことでは、不幸なことに日本は群を抜いている。そこに居合わせてしまった者として、不向きを承知ながら、その材料を集めてみた。後に続く者があり、私を乗りこえ、追い抜いて世界に出て行くことを信じて、この仕事に取り組んだものである。多くの批判に期待する。
一党支配計画経済ってのは、ソ連とかのことですね。
- <テープ消失>
-
(中尾ハジメの記憶では、この本に集められている「環境思想」の幅広さについて少しくどすぎるぐらい言及し、とくに庭田源八の手になる「鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」を足尾鉱毒問題の自然誌的な側面の描写記録として紹介した。そして、巻末の「ブックガイド」がたいへん役にたつ良いものであることを力説。そこにあげられているものを、全部読まなければならないとは言わないが必読文献ばかりだと、なんだか矛盾したことをしゃべった。──環境ジャーナリズムが押さえておかねばならない領域は、こんなにいろいろ、文学的なもの、民俗学的なもの、政治文書的なもの、その他、その他あるということを伝えたかったが、うまく伝わったかどうか──
あと15分で授業時間終了というところで、いささかあわてて、学生諸君にだすべき宿題のための資料について言及しはじめた。資料とは、ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』──またもや、岩波文庫版。まず、ユーゴーの生きた時代が革命の時代であったこと、ユーゴー自身が、たとえば荒畑寒村のように、政治のなかにコミットした物書きであったことを言い、訳者の豊島与志雄翁が1912年に書いた序が、要領よく物語りを紹介しているから読むように勧める。)
■フランスの荒畑寒村? ──ヴィクトル・ユーゴー
・・・ヴィクトル・ユーゴーは、詩作の筆を折って政界に身を投じ、48年2月の革命以後しだいに民主的傾向に陥り、51年12月ナポレオン三世によってなされたクーデターに対しては、熱烈なる攻撃を試み、ついに身の危険を感ずるや国外に逃亡したが、ついで公に追放せられた。彼は初めブラッセルに赴いたが、次にイギリス海峡の小島ゼルセーに行き、終わりゲルヌゼーに赴いた。その間、1858年より62年まで5年間の瞑想と思索とに成ったのがこの物語である。
いろいろやって、国外に逃げて、『レ・ミゼラブル』を書いたわけですね。で、岩波文庫版の第4巻に入っている第5部第2編「怪物の腸」というものがあります。それに続く第3編は「ジャン・ヴァルジャンがはいり込んだのは、パリーの下水道の中へだった。」という文章から始まります。「怪物の腸」ってのは、ユーゴーがパリの下水道について調べたものをひじょうにうまく書いたものなのですね。これは、一見物語と関係ないようですが、まあ、読めば分かりますが、ある意味でいうと、フランスの社会の問題というもの深く関わる視点をもって、彼が何かを主張したに違いない。この下水道問題をとらえる彼の視点が、いかに多角的であるかをみなさんにとらえて欲しいと思います。で、来週までに、レポートを書いてきて下さい。
『レ・ミゼラブル』第1巻(岩波文庫)ヴィクトル・ユーゴー