第2回 原子爆弾をめぐる報道

被爆者廣島 六日七時五十分ごろB29二機は四国東南端より北進、香川県西部を経て廣島市に侵入、燒夷彈、爆彈をもつて同市附近を攻撃の後反轉、八時三十分ごろ同一径路を土佐湾南方に脱去した、このため廣島市附近に若干の損害を蒙った模様である、敵米はわが中小都市、重要工場などの爆彈は夜間を選び、専ら自軍の損害をさける隠密行動をとってゐたが晝間、偵察をこととしていた敵がわが方を油断したと思ったか、白晝二機をもって爆彈、燒夷彈を混投したことは今後十分警戒を要する

──廣島市附近に若干の損害を蒙った模様である

朝日新聞 1945年8月7日
挿画:『劫火を見た─市民の手で原爆の絵を─』(NHK編, 1975)


1945年8月6日と9日に広島と長崎に「原子爆弾」が落とされたが、「落した者たち」「落された者たち」「目撃者たち」には、それぞれの文脈があった。あるいは、それぞれの立場を超えてしまう文脈もあったのだが、「報道」の地平に現れる立場の断片には、原子爆弾のもたらした恐ろしい世界とは対照的に、いやはるかに乖離してしまっている、冷静な計算、あるいは途方もない隠蔽が読みとれる。


■原爆投下直後の新聞を読む

中尾ハジメ:先週渡した資料を、まずお出しください。出したかい? はやく戦闘準備にはいるんだよ。書く準備もするんだよ。さて、蜂谷さんのふんどし姿のプリントがあるね。その資料の後ろの方を見てください。そこの黒々とした写真は、バーチェットという人の若かったときの写真です。そこに“The Atomic Plague”という大きな見出しのついた新聞記事の写真が載っています。その日付を見てください。いつになってる? 1945年の…う〜ん、読めないかなあ。たぶん9月かな? まずこれがひとつ目の確認事項。

次のプリントに──ナカシマという日系の人だと思いますが──レスリー・ナカシマというひとが記事をかいたという事が書いてあります。これはインターネットから拾ってきました。

今度は、朝日新聞の1945年(昭和20年)の8月8日から8月14日までの(記事を拾った)二枚のプリントを見てください──ちょっと日付がわかりにくいかもしれません。さて注目してほしい記事、それは8月の7日、その裏が8月の8日です。その次、もう一枚のほうをよく見てください。 「帝国、米に厳重抗議」 とありますね。それが8月11日です。その裏、上から三段目に注目してください。「戦争防止にならず、原子爆彈に論難」 。これは8月14日の記事です。ここに8月7日、8日、11日、14日、と四日分の朝日新聞の記事があります。ちゃんとこういうのを読んで来るんだよ。

朝日新聞 1945年8月7日よりこれらの新聞記事にはいろんな意味があります。ここから何を読みとることができるでしょうか? ここで、ひとつの読み取り方を考えてみましょう。──ノートくらい出して、書く用意をするんだよ──まず、8月7日を見てください。

天候回復、敵襲に備へよ
西宮、広島暴爆
今治、前橋等にも來襲

上の地図にB29、125キ、その横、B29、30キ、大阪湾に入ってくるのは130キと書かれている。その下に何時頃か書いてありますね。「5日夜の来襲状況」ということは、この新聞は7日の新聞なので、2日前のことを書いてあるんですね。それで、

西宮、廣島暴爆

ということは、5日の夜に何が起こったかは、簡単に言うと7日の新聞にならないと(新聞の読者には)わからなかったと考えられる。広島に原爆が落ちたのは、皆さんが知っているように、8月6日の8時過ぎです。つまり大阪警備府が発表したときには、すでに投下されていた。

一、 敵米B29約二百八十五機は…

現在は、B52ってのがあって、それもとてつもなく大きいけど、B29ってのは、その当時最大の爆撃機ですね。そのばかでかいのが285機!

八月五日二十一時三十分ごろより六日三時にわたる間三群に分れて侵入、第一、第二軍の主力は今治市、宇部市付近に燒夷弾を、またその若干機は日本海沿岸および瀬戸内海の一部に機雷を投下、第三群百三十機は紀伊水道より侵入。西宮市東西地帯に燒夷弾、一部に爆弾を混用投下せり、西宮東西地帯の火災は軍官民の敢闘により六日拂暁前に鎭火せり。二、損害調査中なるも六日十時までに判明せる

と、書かれてあります。他にも面白いことはいっぱい書いてありますが、注目してほしいのは、下の「廣島」という見出し──繰り返して言いますが、6日に原子爆弾が落ちました。これは7日の新聞です。

廣島 六日七時五十分ごろB29二機は四国東南端より北進、香川県西部を経て廣島市に侵入、焼夷彈、爆彈をもつて同市附近を攻撃の後反轉、八時三十分ごろ同一径路を土佐湾南方に脱去した、このため廣島市附近に若干の損害を蒙った模様である、敵米はわが中小都市、重要工場などの爆彈は夜間を選び、専ら自軍の損害をさける隠密行動をとってゐたが晝間、偵察をこととしていた敵がわが方を油断したと思ったか、白晝二機をもって爆彈、燒夷彈を混投したことは今後十分警戒を要する

つまり、B29が来て、何かしたことは分かってるんですね。しかしその書かれ方に注目してください。焼夷弾と爆弾を落としていったという他は何も書いていないです。

廣島市附近に若干の損害を蒙った模様である

朝日新聞 1945年8月8日よりどういうことでしょう? これが7日です。 裏を見てください。裏は8月8日。「殘忍無比敵の企圖、廣島暴爆に新型爆彈」── 「新型爆彈」というのに注目してください。

落下傘で投下空中破裂

みなさんは、原子爆弾が、落下傘で落とされたのではないことをご存じでしょうけど、その当時はこのように新聞に書かれていました。

大本營發表(昭和二十年八月八日十五時三十分)──えらいこまかく書いてありますね── 一、昨八月六日、廣島市は敵B29少数機の攻撃に依り相當の被害を生じたり

二、敵は右攻撃に新型爆彈を使用せるものの如きも──「如き」ってのは、「そうらしい」っていう意味ですね──詳細目下調査中なり

その次。

少数機でも侮るな 急げ都市の大疎開 B29少数機廣島市に侵入、少数の爆彈を投下した、──「少数」と書かれたら、一つとは読めないですね──これによって市内には相當数の家屋の倒壊とともに各所に火災が発生した──ここから少し大きな字で──敵はこの攻撃に新型爆彈を使用したものの如く、この爆彈は落下傘によって吊り下げられ空中において破裂したものの如くその威力──この「威力」という言葉づかいに注目してください──に関しては目下調査中であるが軽視を許されぬものがある、敵はこの新型爆彈の使用によって無…──これは、なんて書いてあるんでしょうねえ「無辜」か「無数」か──の民衆を殺傷する残忍な企圖を露骨にしたものである、 敵がこの非人道なる行為をあへてする裏には戦争遂行途上の焦燥を見逃すわけにはゆかない、──敵はあせってる──かくの如き非人道なる殘忍性をあへてした敵はもはや再び正義人道を口にするを得ないはずである

敵は引きつゞきなお今後もかくの如き爆彈を使用することが豫想されるのでこれが対策に関しては早急に當局より指示されるはずであるが、それまでは従來の防空対策、すなはち都市の急速な疎開、また横穴防空壕の整備など諸般の防空対策を促進する要がある、今次の敵攻撃にみても少数機の來襲といへどもこれを過度に侮ることは危険である

敵は新型爆彈使用開始とともに各種の誇大なる宣傳を行ひ、すでにトルーマンのごときも新型爆彈使用に関する声明を発してゐるが、これに迷ふことなく各自はそれぞれの強い敵愾心もつて防空対策を強化せねばならぬ

これが8月8日──原爆が落とされてから2日たった──の新聞です。 アメリカと日本が戦争するということは、日本語を使っている連中と英語を使っている連中が戦争をしたということです。お互い相手が何を言っているかということを読まなければならない。この(トルーマン)声明が発表された、その本文の一行目を見てみると

■「トルーマンのごとき」の声明文

引用もと:Truman Presidential Museum &Library の Cabinet の World War Two の Dropping A-bomb の Official Releases より
Immediate Release: Statement by the President of the United States discussing atomic capability.

Sixteen hours ago…

十六時間前。広島が午前八時だったとして、それから十六時間経っていたら日本では何時になる? 真夜中過ぎですね。日本時間でいうと、これは7日になっている。2行目、爆弾を落とした。

…one bomb on

一発の爆弾。どこに落としたか? on の後はブランク(空白)になっている。なぜか? もちろんこれをトルーマンが読んだり記者会見で発表するときにはここにHiroshimaと書いてあったんですね。ひとつは、この瞬間まで全く秘密だったということが考られる。大統領が発表するまでは一切秘密でなければならない。Hiroshimaという言葉がなぜ入れられていないか、Hiroshimaに落とさなかった可能性もある。

つまり秘密であったということ、どこに落とすか声明を発表する瞬間まではわからないようになっていたかもしれない。こんなことからも、この原稿を相当の時間をかけて準備していたかのように思われますね。

さて、T.N.T.という文字が三行目にありますが、T.N.T.というのは火薬ですね。その頃の通常爆弾はT.N.T.を使っていた。それ以外には焼夷弾があった。焼夷弾は火事をおこすための爆弾で、それ自身は爆発しないものです。で、落とした爆弾は、T.N.T.火薬に換算すると2万トンの力がある。これを別の言い方で20キロトンともいいますね。これ以降、広島に落とした爆弾を一つの基準にして、核兵器の強さを色々言い表すことになります。2行あとには、イギリスが造った、Grand Slam という大変な爆弾があるが、そういう爆弾をはるかにしのぐ、2千倍の力を持っている、と言っています。B29は1トン爆弾をかなり落としたんですが、その十倍ぐらいの破壊力を持っているのが、Grand Slam です。これが第1パラグラフであることを注目してください。つまり、どれぐらい破壊力があるか書かれていますね。

The Japanese began the war from the air at Pearl Harbor.

パールハーバーを空襲することによって日本は戦争をはじめたのである。

They have been repaid many fold. And the end is not yet.

日本は数倍もの報復をうけた。しかしこれで終わりではない。

With this bomb…

広島に落とした爆弾のことについてですね。

we have now added a new and revolutionary increase in destruction…

我々は付け加えた……一つの新しい……革命的に増強するなにかを……破壊において、ってすごいですねえ。ここで「おまえら真珠湾をやっただろう。戦争はまだ終わってないんだぞ。もっと破壊してやる。この破壊力を見よ」と言っている第一パラグラフと、第二パラグラフが重なってくるわけですね。

In their present form these bombs are now in production and even more powerful forms are in development.

この新型の爆弾は現在の型でまだ生産されておるぞ。で、もっと強力な爆弾が開発中だぞ、ということですね。これがその当時、日本と戦争をしていたアメリカ大統領の原爆投下直後の声明です。ここからいったい何が読みとれるでしょうか?

It is an atomic bomb.

ここではじめてこの「原子爆弾」という言葉が出てきます。

It is a harnessing of the basic power of the universe.

宇宙の基本的な力を人間が制御する。ハーネスっていうのは、(名詞では)馬とか牛につける、馬具とかですね。

The force from which the sun draws its power has been loosed against those who brought war to the Far East

Far East は極東。極東はどこを意味するか? 中国、満州、東南アジアの国々など。極東に戦争をもたらした日本人に対して、太陽が、その力をそこから引き出しているその基本的な“force”。これ(force)も力と訳せますが、その“force”が“has been loosed”──解き放たれたのであると書かれています。これも非常に意味深いですね。前回エンペロクレスの、物質をつくりあげている4つの要素ということを言いましたが、その中で火というものがあったけど、どうもこれは「火」でさえない──宇宙の根源的な力。というような言葉ですね。

そのあとは、ドイツが実は原爆をつくろうとしていた、それにアメリカとイギリスが打ち勝ったというようなことが書かれていたり、どうやって原爆をつくったかという、なかば自慢話であり同時に非常に大事なことですが…ちょっと省略をしていますが、2ページの2段落目のパラグラフの下から3分の1程度、後ろの方、“Employment”から始まる文ですが、

Employment during the peak construction numbered…

“peak construction”というのは原爆製造のためのコンストラクションだというふうに考えてください。ピーク時には125,000人がこの原爆製造のために雇われたんですね。それから

over 65,000 individuals are even now engaged in operating the plants

原爆製造のためにはウラニウムを濃縮しないと、あるいは原子炉の中でプルトニウムをつくらないといけない。そういうことのための“plants”と書いてありますが、つまり原子炉であるとかあるいは濃縮工場ですね。その操業に従事している者が、6,5000人いる。“Many have worked there”多くのものはそこで“for two and a half years”2年半働いている。“Few know”──“few”というのは a が付いてないから「ほとんど誰も」という意味で、ほとんど誰も知らない。“what they have been producing”自分たちが何をつくっていたのか誰も知らない。本当にほとんど誰も知らない。実はトルーマン自身もですね──トルーマンは・・・。ローズベルト大統領という人が死んじゃいますね。ローズベルト大統領が何時死んだか調べるとよいのですが、これは大変評判がいい大統領でみんな知っていると思うけれど、アメリカの経済復興を果たした人ですが、戦争もローズベルト大統領のもとで始めたんですが、それがヤルタ会談から帰ってきたら死んでしまうんです。それでトルーマンは副大統領だったので大統領になった。副大統領のときトルーマン自身は原爆について何も知らなかった。つくっているのかどうかも知らなかった。というわけで──原爆に従事している人も、本当に知らなかった。ごくごく少数の人間しか知らなかったというようなことが書いてあります。

次のパラグラフにいってください。この5行を読んでください。“But the greatest marvel”──“marvel”というのは驚くべきこととか、素晴らしいということだね。何が素晴らしいかというと“is not the size of the enterprise”この原爆をつくるという企画、事業が大変な規模のものであるという事でもないよ──僕はこれを大変な事であると思うんですが──その規模でもないよ、と。“its secrecy”──それが全く秘密のうちに行われた事でもないよ。“nor its cost”──それにどのぐらいのコストがかかったのか──莫大な金を投入したわけですが──それでもないよと。じゃあ何かっていうと、

but the achievement of scientific brains in putting together infinitely complex pieces of knowledge held by many men in different fields of science into a workable plan

というふうに書いてあります。で、ちょっと面倒くさくなってきたのではしょりますが、これが重要であるというふうにこの声明は言っていますが、本当にそう思います。これが「トルーマンのごとき」の声明です。で、これは警告しているわけだね。もうお前等降伏せいよと。で、警告をしているけれども、さっきの(日本政府抗議文)、もう1回見てごらん。

敵は新型爆彈使用開始とともに各種の誇大なる宣傳を行ひ、すでにトルーマンのごときも新型爆彈使用に関する声明を発してゐるが、これに迷ふことなく各自はそれぞれの強い敵愾心もつて防空対策を強化せねばならぬ

■情報の欠乏か? それとも隠蔽か?

ちょっと深く考えて見よう。8月6日原爆が落ちます。で、8月7日に朝日新聞には何が書かれているか。日本時間で言うと8月7日の未明、午前零時過ぎにトルーマンが声明を発表しています。これはラジオを通じてすぐに全世界に伝わった。もちろん、それを日本人も聞いてます。で、それを受けて新聞に「トルーマンのごとき」っていうのが出たのはいつですか? 8月8日? そうだよね。それで、注目してくださいもう一回、この朝日新聞(8月8日)の「殘忍無比敵の企圖」。そのとなり、「暴爆に新型爆彈」。ここでは「新型爆彈」という言葉を使っています。しかしながら日本政府はですね、このときすでにトルーマンが「原子爆弾」という、つまり“atomic bomb”という言葉を使ったのは知っているわけです。ね? ということはどういう意味合いを持つかということを、これからいろいろ考えていただきたい。

さあ、その次ですが、今度は11日だったかな? そうだね、11日を見てください。長崎の方は、「新型爆彈長崎攻撃」が書いてありますね。で、ちょっとこれも面白いから読みましょう。

西部軍管區司令部発表(九日十四時四十五分)一、八月九日十一時ごろ敵大型二機は長崎市に侵入し新型爆彈らしきものを使用せり 一、詳細目下調査中なるも被害は極めて僅少なる見込

朝日新聞 1945年8月11日より

と書かれてある。で、そのとなり見ると、トルーマンの声明を受けて「帝国、米に厳重抗議」というふうに書かれてあります。それでそこには、ご覧のように、「原子爆弾は毒ガス以上の殘虐」というふうに、「原子爆弾」という言葉が使われている。この政府抗議文はですね、どうやら9日には書かれていたようです。前に準備してある。それは誰か準備しなきゃいけないもんね。先のトルーマンの声明も何日も前に準備されていたんでしょう。で、これも誰かがそれを受けて準備をした。それを発表するタイミングですが、ほんとはもっと早くしたかった。だけど、長崎に落ちちゃったんだね。で、よーく見るとね、長崎に落とされたということはどこにも書かれていない。11日ですよ、発表11日。長崎に落ちたのは9日です。しかしここ(政府抗議文)には広島のことしか書かれてない。はい、これはあとでまた皆さん苦労して読んでください。

さて、その裏を見ると…。今のが11日だよね。で、ここで落ちて、ここで落ちて、こういう感じだよね。だいたいこんなタイミングだな。(ホワイトボードを使って流れを説明)しかし、6日に落ちて、7日の記事がどの程度のものであるか皆確認したね。それから、9日に落ちて、今度は11日であるにもかかわらず、さっきの程度の、「被害は極めて僅少なる見込」。これで終わり、でした。さて裏の8月14日ですが、「チューリッヒ十二日発同盟」の記事、これに注目をして下さい。まだ、戦争は終結したというふうに宣言されていません。8月15日だよね──天皇陛下がラジオを通じて無条件降伏、ということになるのは15日ですが、その前の日の新聞に、原子爆弾は戦争防止にならないよと、ヨーロッパはすでに議論をしていた。新聞でそういう議論があったということだね。で、その二段目で「すなわち技術的にはいかに完全にできた国際平和組織といへども…」ってのがあるでしょ? これは、僕はノイエ・チューリッヒャー・ツァイツング紙の記事からの翻訳ではないかなと思います。一段下がってますね。朝日新聞の記者がこういう記事を書いたんじゃなくて、おそらく翻訳文だと思います。で、ヨーロッパには、大国がいろんなことをやることについて、もうすでに批判的な意見があったようです。とりわけ、原子爆弾の独占については非常に問題があるということが書かれてありました。

さぁ、それで皆さんがしなければならないことはですね、今僕が紹介したような、なんていうか、読み方っていうかな──それはひとつの読み方にすぎません。他にもたくさん読み方があります──そういうのを問題意識といいますが、何が問題か、どうしてこんなふうになってるのか、まずそこから始まると思うんですが、いろいろ考えていくと実はこれはどうも一筋縄ではいかない問題にいろいろぶち当たっていきます。そのことを考えないといかんわね。今では、ジャーナリズムはこんなもんじゃないとあんまり思わないほうがいいですよ。

■蜂谷医師の「日記」

『ヒロシマ日記』さて、なかなかジョン・ハーシーにたどりつかないけど…。蜂谷さんという人が書いた本を皆さん読んでくれたと思いますが、蜂谷さんがこれを書いたのはいつだということは読み取れましたか? 読み取れないよね、なかなかね。でも、せっかくさ、プリントサービスしてんだから読めよな。これ、買ったら高いよ。ひとつはですね、うしろの方に蜂谷さんのコピーを、今いくつかの部分を切りはずしてますが、うしろの方にね、「あとがき」ってのがあるでしょ。それを読むと、ああこの人はいつ書いたのかということが分かります。それがひとつ。それから、もうひとつ同じような意味で皆さんが注目をしなきゃいけないのは、この本が出版されたのはいつか、ということだね。もちろんその「あとがき」に書かれている日付と無関係ではないでしょうし、「あとがき」の中にもいろいろ書かれている。本っていうのはややこしい。どういうふうにややこしいか。例えば、蜂谷さんの本は、最初に出たのが日本じゃなかった。蜂谷さんの日記が最初に出版されたのは、英語に訳されて、ノース・カロライナ大学出版局というところから出版をされました。どっかにメモしといてね。これが1955年の8月です。1955年の8月。で、じつは「あとがき」に書いてあるように、蜂谷さんは、本になる前にですね『逓信医学』という…。「逓信省」って今でいうと郵政省みたいなものですが、こんな字かな? 『逓信医学』か『医療』かどっちだったっけ? あとがきに書いてある。なんて書いてあった? 「医学」だね。『逓信医学』という雑誌に載せた。これはいっぺんに載せたわけじゃなくて、何か月かにわたって載せたわけです。それはいつって書いてあるかな? よくよく見るとですね、1950年の春から1952年の春ぐらいだね。だから、およそ2年間にわたって『逓信医学』に載せたんですね。で、これはもう一回言うよ。1950年から1952年。ということは、戦争が終わってから5年後です。そして、ついでに考えよう。彼は、いつ書いたか。日記っていうんだからその日書いたんだろうっていうふうに思わないほうがよろしい。その日になど書けるわけないよな。さあ、じゃあいつ書いたんでしょう。いつ書いたかということも「あとがき」に書かれています。発見した人?…発見した?──ほんとにね、これ大変なんだよ。コピーしてね、プリントするだけでも大変なんだだから、読めよ──なかなか読みとりづらいかもしれませんが、1945年のどうやら12月頃から1949年の6月くらいまでの期間の中のどこかだね。分かんないです。いつこの日記を書いたのかよく分からない。よく分からないけど、幅をもって言うと、原爆が落ちてから4ヵ月後以降のことです。

いいかい? これも非常に重要なことなので考えてみてください。これがひとつめ。

それで、もう一回近いほうに戻ってくるとですね….次は何を考えるか、それは実はその「あとがき」の中に書かれていましたが、朝日新聞社から本になって刊行される予定であるというふうに書かれていますが、それ(出版)はさっき言った、ノース・カロライナ大学の出版局が出版をした後の話です。で、皆さんが持っているコピーは朝日新聞社のものではありません。皆さんが持ってるコピーは何っていうと、法政大学出版局──こういうことも、ノートに書くといいかもしれないね──法政大学出版局のこういう本だね。(本を見せる)1300円。この当時はまだ消費税がなかった時代ですから、そういう税抜きとか税込みとか書いてない。これが出たのが1975年。朝日新聞社が出したのが、おそらく1955年だろうと思います。で、それから20年後、朝日新聞社の方はもう『ヒロシマ日記』はやめちゃって、で、法政大学出版局からでたということだね。それで、ちょっと細かい話になるかもしれませんが、英語版を出したのは、「あとがき」の中に書かれていたように、ワーナー・ウェルスという人です。この人もお医者さんですが、その人が翻訳をしたんだね。これはなかなかよくできてる。面白いって言ったら悪いけども、大変上手いです、本がつくられています。ということがありました。で、今の問題は、「ヒロシマ日記」つまり蜂谷さんの書いたものがいつ書かれたかということと、出版をされた、印刷をされたのはいつか、雑誌に出たのはいつか、さらに単行本になって世に出たのはいつか、ということだね。これはものすごく重要です。皆さんはひょっとしたらパッと読んでみて、ジョン・ハーシーのものと蜂谷さんのものと、おそらく同じころに書かれたものだろう、同じころに出版されたものじゃないだろうかというふうに思ったかもしれませんが、違う。違います。それで、ついでにもう言っちゃおうと思いますが、『黒い雨』という──これは新潮文庫です、探してみると安いよ。514円。コーヒー 一杯か二杯分。持ってるといろいろ役に立ちますが──この本が出たのはいつでしょう。この本が出たのは、1966年。で、『新潮』という雑誌に、「姪の結婚」という題で出ました。昭和40年だから1965年の1月号から、つぎの年1966年の9月号まで連載をされました。途中で、「黒い雨」というタイトルに変わっています。さっきの蜂谷さんの(『ヒロシマ日記』の出版)よりもっとあとだよね。

■『黒い雨』と『重松日記』

それでですね、その『黒い雨』のもとになっている、重松静馬という人が書いた「重松日記」というものがあります。その「重松日記」に、その年の9月から自分はその日記に取りかかった、とありますね。で、井伏鱒二が、その「重松日記」に出会ったのは、昭和37年7月のことですね。つまり西暦でいうと──(学生の顔を眺めて)、すぐには出てこないよねえ。戦争が終わったのが、昭和20年。これは1945年です。その17年後だから──1962年ですね。さっき言ったように出版されたのは1966年ですね。雑誌に載ったのが1965年だとしたら、62年から──まるまるではないでしょうけど──3年間の時間をかけて、井伏鱒二はこの「重松日記」から『黒い雨』をつくったということですね。もちろん、こういうふうに作家の手に──いわゆる「ジャーナリスト」の手になるもの以外に、実際に被曝をした人たちがいろいろなものを書き残しています。そういう様々のものが多くの人たちの目に触れるようなるのがいつのことだったのかということを、ちょっとテーマにして考えてください。これは実に重要です。そして難しい問題です。つまり原爆が落ちたときのその状況を、多くの人たちはどのようにして知ることができたのか? そこに行った人にしか分からない。あるいはひとづたえに聞くこともあるかも知れませんが、そうであれば、それはどのように伝わったのか? あるいはどのようにつたわらなかったのか? これはたいへん重要なテーマです。

註:『黒い雨』と『重松日記』については、2001年の「環境ジャーナリズム」でも、とりあげています。その時の授業の様子はこちらです

■太田洋子の『屍の町』

これまでしゃべってきたのは、既にみなさんに資料を提示しているものについてでした。例えばですね、太田洋子さんという人がいます……いました。『屍の町』という作品を書いています。彼女は1903年に生まれた人です。ということは、終戦時には42歳。これから読むのは「広島に文学館を! 市民の会」の人たちがまとめた「太田洋子年譜」というものです。これはインターネットで見つかりました。

「昭和20年」──1945年のことですが──「8月6日、白島の妹の家で原子爆弾にあい、かすり傷を負う」とあります。何か物が当たったのか、ころんだのか、かすり傷を負ったんですね。「神田橋下手の大田河原で三日間野宿したのち」──被曝後ですよ──「佐伯郡玖島に逃れ知人宅に滞在。11月、被曝の惨状を記録したルポルタージュ『屍の町』を脱稿」──11月に書き上げたんですね。大田さんは、8月30日くらいの朝日新聞に、被曝体験記を載せています。つまりその当時もう42歳で、作家としてこの人は力があると認められていたんですね。さてその次の年、「1946年『屍の町』を中央公論社に送ったが、アメリカ占領軍の検閲を受けなければならなかったため、発行できなかった。」──「検閲」ってことがあるんですね。「1947年、44歳。1月、『屍の町』を執筆したことについて、佐伯郡」──「ともかずむら」って言うのかな、わかりませんが、「友情」の「友」に「平和」の「和」。「友和村…」──「こうづ」か「かわづ」、どっちかでしょう。──その「出島さんの家でアメリカ戦場軍の取調べを受ける。」ということが書かれています。その次の年、「1948年、昭和23年に屍の町を一部分削除して」── 一部分って言うのはすごく大きな一部分です──「中央公論社より出版。」ということが書かれていました。さて、他にもいっぱいあるのですが、これ(資料)を後ろに回してください。

■プレス・コード

EMBRACING DEFEATさぁ、だんだん、だんだん近づいてきた。今、配っているのですはね、プレス・コードって言うのは調べておいてって言ったね。プレス・コードっていうのはこういう条文ですよ。皆さんが読むと非常にいい本があります。ジョン・ダワーという人のね、『敗北を抱きしめて』。ジョン・ダワー。これは、岩波書店から出ています。もうひとつはね、『マッカーサーの二千日』っていう本があるんですが、袖井林二郎という人が書いていますが、またこの次紹介します。『マッカーサーの二千日』、袖井林二郎。

日本は戦争に負けた国です。占領されていました。で、今は日本はどこに占領されているでしょう。今、日本は日本に占領されているようですが。占領軍。あんまり知らないけど、あきらかに我々は誰かに占領されていますね。さて、それでプレス・コードっていうのは、ごらんの通りの代物ですが、これが大変なものだったんですね。先週「メディア3法」って呼ばれているものがあるから、これも調べておいてと言っておきましたね。現在これから法律になろうとしている、法案があります。それがどういうものか、その条文を手に入れてみるということなんですが。さて、このプレス・コードがあったおかげでね、さっきの太田洋子が書いたものが出版をされなかった。それから、蜂谷さんが書いたものも日本では出版されなかった。さあ、この辺はもうちょっといろいろたくさん事例をならべてくわしく追いかけることにし、(そうすれば)非常にはっきりわかってくるわけですが、それはみなさんがしなきゃならないこと。それで、ジョン・ハーシーに近づきましょう。いいかい。

■ジョン・ハーシー

ジョン・ハーシーさんは、ピューリッツア賞をとったんだね。ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』っていうのも、1999年のピューリッツア賞をとっています。ピューリッツア賞の部門は、ノン・フィクションという部門です。ジョン・ダワーだよ。ジョン・ダワーって人はまだ生きてるよ。ハーシーさんは1993年ぐらいに亡くなっています。戦争当時は30歳になったばかり。『ヒロシマ』を書いた時には31歳ぐらいだったと思います。それで、ハーシーさんがピューリッツア賞をとったのは『アダノの鐘』という作品です。『アダノの鐘』を書く前に、彼はどういう人だったかというと、──みんなが調べてきたらいいことだけど──天津に生まれていますね。1914年天津生まれ。宣教師の息子だったんだね。しかし、小学校、中学校はどうやらアメリカ本土に帰ったらしい。イエール大学というところに入ってそこを卒業してから、ケンブリッジ大学というイギリスの大学に行ったらしい。太平洋戦争が始まったその時期にはニューヨークタイムズの記者になっていたらしい。シンクレア・ルイスって知っている? 知らない人は手をあげて(学生たちはあまり反応しない)。スタインベックって知ってる人いる?(よく分からない様子) フォークナーって知ってる人いる? ウィリアム・フォークナー(知らない、という反応)。ヘミングウェイって知ってる人いる?(比較的多くの挙手がある) そしたら、川端康成って知ってるかい? で、川端康成はノーベル文学賞をとりましたね。スタインベックもフォークナーもとっていますが、シンクレア・ルイスって人は、アメリカで始めてノーベル文学賞をとった人だね。この人は面白い人でね、映画になったのもあるんですが、『アロースミスの生涯』という小説を書いて、どうやらそれでノーベル文学賞をとったのだと思います。「アロースミスの生涯」というのはちょっとなかなかスキャンダルなお話しで、映画にもなっていて、このシンクレア・ルイスに、ピューリッツア賞委員会がピューリッツア賞をあげようと言ったんだよ。文学賞をあげましょうと。シンクレア・ルイスはそんな汚らわしいものもらえないって、お断りをしたんですが、そのシンクレア・ルイスの秘書を、ジョン・ハーシーはしてたことがある。ということはいったい何の関係があるのだという……、僕もよくわかんないんです。でもね、何か関係があるように思う。これからだんだん話をしてきますが、どこまでいってもこれは憶測にすぎないかもしれない。

さて、そのジョン・ハーシーさんは従軍記者になるわけですね。(従軍記者として)一番最初に書いた記事は、たぶん『ニューヨーカー』に載ったんだと思います。今、みなさんが見ている『ヒロシマ』と同様に、『ニューヨーカー』誌に載ったと思います。間違っていたらあとから訂正をします。その『ニューヨーカー』に載った彼の一番初めの従軍記者としての記事はJ.F.ケネディが魚雷艇──あるいは哨戒艇と言いますが、魚雷をつんで戦争する船──魚雷艇が日本(の潜水艦)と戦闘をして沈むんですよ。そのときにJ.F.ケネディがたいへん勇敢に、みんなを救けるんですね。という話になってるんですが、その記事を書いたのが、実はジョン・ハーシーであったというわけです。さて、その次に何を書いたか。『メン・オン・バターン』というのがありますね。「バターン島の男たち(兵隊)」というのを書いてます。フィリピンは……。みなさんマッカーサーという人を知ってる? マッカーサーというのはじつは、親父さんもフィリピンでなんか偉い顔してたんだよね。そのせがれであるダグラス・マッカーサーは、日本が真珠湾を攻撃した後、結局フィリピンから一時撤退をせざるを得なくなった、アメリカの親分です。彼はそのとき何といったか。「俺は帰ってくるぜ」って言って、そのとおり帰って来た。マッカーサーとその軍隊について、記事を書いた。それが「メン・オン・バターン」。他にいろいろあるんですが、“This is democracy”という記事を書いています。これは何かというとね、ヨーロッパ戦線。シシリー島──マフィアがいるところだけど──結局アメリカ軍がそこに行って、ムッソリーニ支配下の政権をおいだしちゃうわけだね。そのときに、──これは今の戦争でもそうですが、例えばアメリカ軍が来て、爆撃をしたりするわけですよ。そうするとそこにいた軍隊は、「これはかなわん」ということで逃げますね。そのあと爆撃した軍隊が入っていって、次にそこを支配する政府を樹立しないといけない。アフガニスタンで起こっていることとよく似ていますが、それをどうやってアメリカの──「軍政」といって、軍が政治権力をもつわけですね──その軍政を敷く。しかし、自分たちもいつまでもそこにいるわけにはいかないから、そこに民主的な政府が樹立されるようにするわけですが、この“This is democracy”──「これが民主主義だ」では、そのときの話を書いてる。で、「これが民主主義だ」に基づいて書いた小説が『アダモの鐘』。これが1945年のピューリッツア賞。

あと2分くらいあるけれども、申し訳ないけど今日はこれ以上さらに進めないで打切っちゃうから、中途半端で終りますけど、来週はこの続き。みなさん読んできてくださいね。読むときにやっぱり問題を感じると思うんだよね。これはなんだろうとか、いつ書いたんだろうとか、ほんとかなぁとか、それは、たいへん重要な問題意識なので……。ただそこで甘えて僕のところへ教えてくださいって来ないで、自力でやってほしい。

授業日: 2002年4月23日; テープおこしをした学生: 谷口名緒子、坂本 真、道下公嗣、村北真沙子、飯塚ひろみ