一九六九年夏の新宿駅西口広場のフォークゲリラの弾圧と、それにひきつづいてプロテスト・ソングの主なレパートリーの放送禁止、高校生の政治活動を規制する通達、一九七一年冬の『フォークリポート』がわいせつであるとして押収されたことなどにより、わたしたち自身の手による文化活動がマス・メディアでひろく世間に知られることはなくなった。また権力により抑圧されたエネルギーは外にむかえず、内にむかって、多くの内ゲバとなって、ますますマイナス・イメージをたかめた。
フォークリポートわいせつ裁判について、かんたんに
中川五郎は女性とのことについて、創作的なスタイルで、作文をしたくてたまらず、気がるに、熱心に、一晩で五十枚だったか、かいてしまったので、奏さんのURC事務所は捜索され、五郎も、奏さんも、村元さんも、早川さんも、何日も曾根崎署で調書をとられて、自分のコトバでない官僚コトバの調書を作文するのに協力させられるはめになり、一年も過ぎて、東京へ越した五郎のところへ検察から電話があり、わざわざ大阪までいけば、有罪と認めれば略式で簡単といわれたが、つっぱねて、「ふたりのラブジュース裁判」ははじまり、大阪地裁の浅野芳朗裁判長は無罪をだしたが、検察はいたずらに控訴して、いまは高裁の判決をまっているけれど、判事さんたちの表情から推測すれば、へたくそで、ワイセツにはあたらないので無罪というのではないか。(とおもったが有罪となった)。
教育委員会とか、篠原生活指導主事とか、学警連絡会議とか、警察とか、もちろんそれらをあやつる人とかの介入は、子どもをさらっていってしまう笛ふきのようなフォークソング運動をつぶすためではなかったかと考える政治妄想も必要なのがあたりまえの世の中だったが、じつは敵の評価が過大だったので、ほっとかれても消滅してしまったかもわからないぐらい、内部もバラバラに、密度もうすくなっていた。しかし、五郎冒陳ではじまった裁判は期せずして、関西フォークソング運動の総括となり、意味づけがされたのであり、あの裁判が核になって、運動は第二段階にはいっていた、というのが片桐ユズルの見解だ。
なにもたくさんの人びとがデモをしたりするばかりが歴史ではないので、たしかに、かくして、われわれは、あつまりつづけ、ものをいいあい、元気のよかった数年を反芻し、あるいはスルメのようによくかんで、生きのこった。もちろん、ほかにもいろいろあった。ほかのことも裁判の周辺に出入りして、素人が気がるにあつまって、なにかやる精神はぜんぜんおとろえていないので、まただれか、五郎のように、取締り係的人物を軽卒にも刺激してしまうのが、でてくるかもしれないが、それもあたりまえだ。(一九七八年十二月)
このピカソはフォークリポート70年冬の号にのったが起訴されなかった。
「かわら版」1973年10月号より