今から36年ほど前、永井道雄は『日本の大学』(中公新書)を書き、「日本の大学は繁栄しているのか、それとも危機に直面しているのだろうか」という問いをその冒頭においた。言うまでもなく、量的拡張を謳歌しているように見える日本の大学は、深刻きわまりない危機の状態にあるというのが永井の問題意識だった。工業化社会が必要とする専門的知識について日本の大学はあまりにも低水準であるというところに、たしかに力点の一つは置かれてはいるが、ただ産業化を進めるために大学は存在するべきだという主張と読むことはできない。彼が大学論の根拠においていたのは産業化ではなく、むしろ、社会に追随する実用主義を批判し、なお社会に開かれた知的共同体としての大学像だった。その意味で、彼が明らかにしようとした日本の大学の危機状態は、今日にいたっても、さして改善されたとは言えないにちがいない。今取りざたされる、外圧による、あるいは上からの「大学改革」の論点も、彼の指し示した核心からは、なお、ずれたところに向かっているように思う。
現在は人文学部と芸術学部で構成される京都精華大学が、英語英文科と美術科からなる小さな短期大学として洛北の山あいにスタートしたのは、この『日本の大学』が版を重ねつつある1968年のことだった。「1968年」はまた、学生叛乱の記号でもある。経済至上主義に従属するものとして繁栄する大学への異議申し立てという一点において、永井の問題意識と学生のそれとは重なっていたにちがいないのだが、体制と反体制という一面的な対決の図式の背後にかすんでしまっていた。少なくとも、そのころ学生であった私には、そう思えた。また、総体として日本の大学がこの問題に取り組みはじめることはなかった。そう言って差しつかえないと思う。
その1968年にはじまった私たちの大学は今年でようやく33年を経たところで、大学の歴史の短い日本のなかでもとりわけ伝統のない大学だと、まず、そう言っておきたい。岡本清一初代学長が初年度の入学案内のなかに記したアピールも、ある意味で伝統からの決別を表明していた。「われわれの大学は新しい画布のように、一切の因襲的な過去から断絶している。そして教師も学生もすべて、まず人間として尊重され、自由と自治の精神の波うつ新しい大学を、これから創造していこうとしているのである」からはじまる一文である。京都精華大学の、このようなはじまりを私は、永井道雄の問題意識にも、そして学生による異議申し立てにも重ねて見ようとしている。いや、開学時のみならず現時点での京都精華大学の動いていくべき道筋も、そこに重ねようとしている。結論から先に言ってしまえば、私たちの京都精華大学は、いわば一つの大学改革として発足し、その実現のために日々の活動を続けねばならないという、軌道におかれてきたと思えるのだ。
今は故人となった初代学長岡本清一は、創立記念日を設けることにけっして賛成しなかった。また、自分の名前が学内のどこかに刻み込まれて残ることを生涯拒み続けた。銅像などは、もっての外である。それもこれも、彼のいう大学の因襲的な過去を断絶せんがためであり、教師も学生も全員が「この新しい大学創造の仕事を分担」するという、全員創立者論のためであった。日本の大学の表面的な繁栄があり、また世間には特権階級としての大学への羨望がまだ尾を引いていた時代である。大学の構成員である私たちだれもが内実のない権威主義に易々と後退することがないよう、岡本清一は自身の偶像化も、また大学の偶像化も封じてしまったのだ。
このイコン封じは、この大学に大学改革という思想的使命が込められていたことを私たちが思いだすことを、結果的に、少し難しくしたかもしれない。しかし、思想が継承されるとすれば、それは、日々考えつづけ、また考えなおされる思想によってでしかない。さもなくば滅びよ、である。もちろん、大学改革論の、この言葉のうえでの勇ましさだけが京都精華大学を今日まで続けさせてきたわけではない。校舎の延面積わずか3、000平方メートルからスタートしたこの大学に、ようやく図書館らしい図書館ができたのは、開学30年目の1997年のことだった。年間にのべ28、000人の一般市民も利用する、この開かれた大学の情報館の延面積は、約4、700平方メートルである。ちなみに情報館、体育館を除いた校舎延面積は約430、000平方メートルになり、学生数も当初の6倍の3、000人以上の規模となった。
私の実感ではまだ不充分な施設環境でしかないが、いわば大学の改革を理念としたこの大学の創出それ自体に30年の月日がかかっていると言わなければならない。月日だけではない。施設を創りだすために、そこで私たちが働き学生が学ぶそのこと自体を創りだすために必須だったのは、文字どおりの資金投入である。何万もの学生の親たちが「学費」の形で、それぞれの稼ぎのなかから、この大学の創出のために投入してきた。「大学創造の仕事を分担」したのは教職員と学生のみならず、このような数多くの勤労者でもある。考えてもみよう、平均的な勤労者の手にする年収の5分の1が平均的な私立大学の年間学費に相当するのだ。仮に学生たちがアルバイトで自分の生活費までは工面することができたとしても、到底補いきれる額ではない。
二重、三重の意味で、昨今の「大学改革」論に決定的に欠けているように思われるのも、この視点である。短絡的に聞こえるのを恐れずに言えば、たとえば学力の低下という問題の核にあるのは、批判的思考の中心であるはずの大学に、日本社会が社会としての投資を最低限にまで切りつめてきたことではないだろうか。大学では勉強させなくてもよい、教養も専門知識も身につけさせなくてよい、仕事は会社が覚えさせるからと企業のトップの多くが公言して憚らなかったころから、まだ20年もたってはいないのだ。いや、10年もたってはいない。そして、結局のところ、大学生の8割をかかえる私立大学を成り立たせたのは、国公立大学の3倍にも5倍にもなる、教員当りの学生数である。正確に言えば学費×学生数である。「勉強させなくてよい」と言われる大学に序列をつくり入学試験を目的化してしまった日本的学歴社会を肯定し、積極的に維持してきたのも、この算術であったのだろう。
しかし、1人の勤労者にとっては、高度成長の時期にあっても、私立大学の学費は途方もないものであり、切りつめなければならないのは家計の方だった。学歴社会のなかで子どもが大学に籍をおくための保険料、と割りきってみても、あまりにも高額であることには変わりはない。私たちの大学が、そのはじまりの時点で、横並びの教育産業の一つにすぎず、改革と日々の創造を目指そうとするものではなかったら、とても受け取れるものではなかった。私たちの大学に限らず、その理想と運営姿勢に共感を得ることができると確信するからこそ、この高額の学費設定で存続できてきたという私立大学は少なくないと思う。しかし残念ながら、社会政策の視点はここに向かうことはなく、それはあくまでも個々の「学費支弁者」の、個々の大学への共感であり、支持でしかなかったと言わなければならない。にもかかわらず、と言うべきか、だからこそと言うべきか、そのようにして成り立ってきた私立大学を、またもや画一的・一次元的な競争状況のなかに放りだそうとする「改革」であれば、自由な競争の社会、批判的思考を可能にする社会に向かうのではなく、安直な算盤勘定による大学の不毛化にしかならない。
誤解のないように付け加えておかなければならないが、このような大学の一次元化を強いる上からの「改革」が実施されようが、されなかろうが、私たちの大学の経営にかかる緊張は、とてつもなく大きなものであることに変わりはない。少子化という、財政基盤にかかわる、むきだしの条件悪化と、批判精神をもち自立した知的共同体を目指しつづけようとすることとが生みだす、緊張である。
「自由と自治の精神の波うつ新しい大学」とは、なによりもまず、そこに人々が結集する場でなければならず、その人々が教員、職員、学生の別なく、人間として尊重されなければならないということを意味する。開学当初からの、この改革目標は、日本の大学状況への批判であったが、じつは大学の原形、伝統的な大学の姿にほかならない。『日本の大学』を書く永井道雄が、その基底で、拠りどころとした大学像である。自治と自由の精神とは、ただの他人にすぎない多数者が、ただすれちがい通過することを意味しない。大学は、偏差値というような外在的尺度によってではなく、自分自身の選択によって選び、学問芸術のために互いに鍛えあう場でなければならない。これは、ほとんど永遠の到達目標のようにも響く。
しかし京都精華大学は、そこへ向かう軌道を踏みはずすことはなかった。学生数3、000人を超える規模になったが、学生対象の調査からの控えめに算出して一人の専任教員が平均して100人の在学生の名前と顔を知っている。これに卒業生を加えればどれほどの数になるだろうか。教職員と学生の親密さばかりではない。卒業のときには、学生たちが食堂で働くおばさんたちと写真をとる姿が必ず見られる。
時代状況、その他の理由から、改革をしなければならない事項はたしかに数多くあり、いずれも現実性をもち私たちに迫っている。大学の死活を左右する学生確保のための入試改革も、緊急性をおびる課題である。硬直化した平等主義の人事制度も改革の対象であろう。しかし、学生と教師、大学で働くすべての人々、そして出資者たちの、この共同性という改革がけっして失われないようにすること。他のすべての改革はその軌道のうえにしか成り立たず、また共同性を高める方向に働かないものは選ぶわけにはいかない。